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新型肺炎の情報と共に生きる世界で暴力性について再考する


2020年は、暴力と共生を強要される世界となった。


2020年がこんな年になるなんて誰が予想しただろう。そしてこの新型肺炎の中、私自身とても影響を受けたnoteがあった。

何度読み返しただろうか、ここで出てくる「暴力」という言葉をどれほど深く考えただろうか。斎藤環先生の話を絶対に聴きたい!なのでみちのくアート巡礼キャンプ2020に斎藤先生のレクチャーがあると聞いてこの講座は絶対!と思って申し込んだ。


しかし!なんと時差で間違えてレクチャーを聞けず(号泣)。1時間の時差だったので質疑応答からの拝聴となった。


今回のこのnoteでは質疑応答をじっくり伺い、チャットを拝読し、斎藤先生のnoteを読み直して自分なりに「新型肺炎がもたらす暴力とその「暴力」と共に生きる人間の感性」について自分なりに整理してみたいと思う。

レクチャーに影響を受けてるが、レクチャーを全て聞いていないことをここに先に明記しておきたい。


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1:役の設定の必要性

新型肺炎における加害者と被害者の定義がどうなるのかというお話はとても興味深い気づきがあった。ある出来事で加害者と被害者が定義できる場合、「加害者の謝罪、加害者の処罰、被害者の納得」が必須なわけだけど、ここでは「被災や天災」だと加害者と被害者が明確に出来ないという点に気付かされた。天災だと全ての当事者が加害者にもなり、被害者にもなる。その場合、被害者を明確に出来ない場合は「加害者を象徴として作り上げる」という形で被害者と設定される自分を戒めるという手法が取られることが多いそうだ。


では、新型肺炎の加害者とは誰か。被害者とは誰か。あまりにも不明確だ。だから、人はこの新型肺炎との世界で戸惑う。自分は一体どちらなのか。そしてなぜどちらを明確にしなくてはいけないか。明確にしないと「そこで明らかに感じている暴力」がどこから来てどこに向かうかわからないから」ではないか。


新型肺炎で行われた様々な自粛、規制、そして制限は私たちの生活に大きな影響を与えた。仕事がなくなった人もいたし、家庭内暴力に苦しむ人もいた。そしてその状況を聞くだけで自分は在宅で仕事をこなし、宅配で食料を調達し、家族の団欒を得る人もいた。そう、毎日上演されるたくさんの小劇場の演目のように状況はまさに「人によって」「日によって」変わるのだ。


それは自分たちが関係する暴力とはまた違う暴力が起きていることを知っているけど、実際に見えない状態だ。

そしてとても興味深いのは実際の体感よりメディアで見た情報の方が心身に影響を与えるという調査結果も出ていることだ。つまり「他人の暴力のやりとり」は心理的圧迫が強いそうだ。家にいる時間が増えた分、近隣の音に多大な想像力が暴走しそうになる感覚だろうか。


そう、見えない世界の暴力に頼まれてもいないのに引きずられるのが、今。


演劇設定は「暴力性の上に成り立つ」という批評がある。確かに役の設定というのは加害者と被害者の設定に通じるものがある。そして役には「役名が設定」される。役名の設定は匿名性の保証になり、配役の設定はその演者に匿名性の保障を与える。その保証は「暴力性」に拍車をかける。


この演者は別に演劇に限ったことだけではない。生きてることは演じることだ。人間は生きている以上演じて人と接する。斎藤先生も冒頭に紹介したnoteで「暴力と人間」にいてここまで踏み込んで定義をされている。(以下引用)

ここで私が述べた暴力の定義を採用するなら、社会の至るところに暴力がある。人と人が出会うこと、人々が集まること、膝を交えて話すこと。それらすべてが、どれほど平和的になされたとしても、そこには常にすでにミクロな暴力、ないし暴力の徴候がはらまれている。身体的・物理的な暴力はもちろん、その人の態度や言葉、表情にすら一切の攻撃性や暴力性がみあたらなかったとしても、そうなのである。
 そういえば十二鬼月の上弦の参である猗窩座は「赤子ですら薄い闘気がある」のに背後に迫る炭治郎の闘気を感知できず驚愕するわけだが、本稿での「暴力」は、この「闘気」にほぼひとしい。「普通に生きること」のあらゆる瞬間に闘気=暴力が満ちている。この意味での暴力の否定は、ほとんど人間の否定にひとしい。
他人と会うことはいつでも圧力であり、侵入であり、つまりは暴力であるということ。


特に最後の一文は首がもげるほどに頷いてしまった。私はよく「社交的コミュ障」と名乗っているが「あなたは社交的でしょ?どこがコミュ障なの?」と言われることが多い。確かに私はコミュニケーション力は高いと思う。しかしだからと言って私が「社交的コミュ障」を名乗ることをなぜ否定されなくてはいけないか。これこそ暴力ではないか。私が名乗る由来の説明を強要されることは暴力ではないのか。しかし私はここで議論を戦わせることをするつもりはない。「社交的コミュ障」を名乗るか否か。その議論がいくら紳士的であったとしてもその議論そのものが「暴力である」と知っているからだ。


2:暴力は撲滅されるべきなのか


芸術は基本的に「演者が想定した設定」から発生される。絵画しかり、彫刻しかり、音楽しかり、演劇しかり。その芸術を味わうために鑑賞者が演者が想定した設定に「監禁」される。劇場に着席して待つ、飾られた絵画の前に立つ、それは一種の「演者による監禁という暴力」に身を委ねることになる。

では、なぜそれを暴力と呼ぶのか。斎藤先生はこう綴る。

どれほど価値のある臨場性であっても、そこに「暴力の痛み」を感ずる人々が一定数いるという事実を知ってもらいたい

臨場性とは。臨場とは「物事の行われている場所に臨むこと」と定義される。つまり接近性。ソーシャルディスタンスの真逆である。

新型肺炎において「三密」「社会的距離を保ちなさい」という新しい生活様式が生まれた。ここにほっとした人も少なくないのではないだろうか。密を生む会議、意義の見えない出張、長すぎる飲み会、遠すぎる会合が消滅したことに安堵した人も多くいたはずだ。

この暴力の撲滅は確かに喜ばしいことではある、そして同時にこの状況を謳歌していた人たちからすると彼らの快楽の強奪は明らかに「新しい暴力」である。

一方を暴力から解放すると、もう一方に暴力が襲いかかる。暴力の撲滅への挑戦は別の場所への暴力の発生になる。あちらを立てればこちらが立たぬ。まさに新型肺炎への対応と同じではないか。



3:言葉にすることで得るもの、失うもの


新型肺炎における新しい生活様式において「新しい表現」が求められるようになった。それは「言語化」である。リモートワーク が推奨されるようになって臨場性によって割愛されてきた情報を文字化する必要が出てきたのだ。

言葉にして行動や意思を明確化しなくてはいけなくなった。この言語化という作業がまた暴力的である。文字化というのはそこで少なからずの「盛り」が入る。言語化することによって事実とは明らかに異なるのだ。


「あなたの声を聞かせてください」


被害者と設定された人が自分の体験、思いを言語化することによって治癒を図ることをナラティブセラピーというそうだ。

新型肺炎は当事者性が明確でない故、この言語化がとても難しい。この言葉が被害者から発生されたのか。それとも違うのか。言葉に対する自己定義、他己定義を同時に明示しなくてはいけない。これはかなりの重労働だ。そしてこの言語化をどのような環境でどのように強制されるかで当事者性の不明確さは増し、それぞれの不安感が倍増していく。このふあふあした不安感を明確化するために人は罪を勝手に認定する。その罪とは「自分が感染しているつもりで生活しましょう」である。そう、もう私たちが罪を犯した当事者であると自分で決めるのである。この新しい概念を斎藤先生は「コロナ・ピューリタニズム」と名付けている。


当事者性とは一体何か。それは自己のスタンスの明確化にもつながる。しかしそこで当事者性の定義が不明確になるとみんなが当事者と名乗る事態になる。そうなると当事者性そのものが消えてしまう。それは同時に自己の消滅にもつながる。

言葉にすることで事実を失い、言葉が他者に伝わることで自己を失う可能性と隣り合わせで生きていくこの世界。

ペスト がおさまったように、エイズが不治の病という印象から治療可能な病気になったように、この新型肺炎もいつかは収束に向かうだろう(向かってほしい)。しかし私たちが現在進行形で体感を続けている「暴力との共存社会」は今、この世界に生きている全ての人たちの無意識の認識を変えてしまった。

私たちは再び国境を超え、飛行機に乗り、映画館に集い、コンサート会場に「集う」ようになるだろう、しかし、その時の感情は「新型肺炎を知らない時代」に戻ることはもうできない。私たちはこの新型肺炎をきっかけに生み出された暴力の真の姿がわからぬままその暴力のすぐ隣に座らされている。この不明瞭な暴力との共生社会。これがNew Normal.


この時代が冷静に検証されるには多くの時間が必要になるのだろう。私たちはまずは、今を生き延びなくてはならない。そしてこの時代に生み出される新しい表現を追い続けていかねばならない。