見出し画像

芸術や芸術祭ができること、それを確かめるために大島に訪れた私が確信できたこと。


芸術や芸術祭だからができることがある、それは「自分で行って自分で確かめること」だ。


1:私と私の家族と瀬戸内国際芸術祭

今年、2022年は瀬戸内国際芸術祭の年だ。実は私は瀬戸内国際芸術祭にはちょっとした自慢がある。それは「東京や東南アジア在住だったのに、そして現在は横浜在住なのに、2010年から毎回通ってる」ということだ。


私は単なるアート好きのおばちゃんである。それだけど、それだけど2009年から瀬戸内に着目し、瀬戸内国際芸術祭についてチェックしていた。

そして2010年から毎回毎回、芸術祭の度に瀬戸内に通ったのである。しかも幼子を連れて。最初、リアルに幼子だった息子は現在なんと16歳。もうどこを見ても幼子ではない。2016年までの記録はこちら。

ここまで続けて通っている家族は少ないと思う。特に今年は息子さん16歳。次回3年後は19歳になるのでもう成人。子供として芸術祭に参加する最後の年だ。出来る限り通い続けていきたい。


2:大島にいかなきゃいけない理由

通い続けてるけど、危ない時もあった。特に今回は行けないかもと思っていた。なぜなら私達は2022年8月にマレーシアから本帰国、その後の体制を整えるのに本当にドタバタしてしまっていた。瀬戸内は10月末までに行けたら。。と思っていた。しかし、今回の瀬戸内には明確な目的があった。それは


「大島に行くこと」


前回、私たちは家族で初めて大島に降り立った。そこで知ってはいたけど、うわずみを知ってただけのハンセン病についてを知り、そしてそこでの作品に心動かされた。知らなきゃ、って思った。でも、その「知らなきゃ」は別の形で私たちに襲いかかってきた。


COVID-19である。


世界を揺るがす感染症がこのような形で世界情勢を長期間激変させるとは想像もしていなかった、同時に私はその時住んでいたマレーシアでかなり厳し目のロックダウンを体験した。その時の日記はこちら。もしよかったらどうぞ(相当長いですけど!!)


ロックダウンは私にとって


「己の行動を制限させられる」

「立場によって行動できる状況を分離させられる」
「心底納得はできなかったけど従えと言われて従う」


などなど、自分が今まで体験をしなかった「制限」をリアルに体験する場になった。幸い、私が制限からくる差別を体感することはほぼなかった。それは私がこの制限を(自分の心情を全部殺して)受け入れたからでもある。もちろんそれに不満なら行動せえ!という意見もあるだろう。しかし当時の私は母子留学でしかも癌サバイバー、生きていきのが精一杯、活動する勇気も気力もないというのが本音。なので有事の備えを手厚くするくらいしかできなかった。

それでも私はあの精神状態でパンデミックを乗り切った自分を褒めたいと思う。精神を保つために買いまくった本の山が船便で送られてきて、呆然としてる自分に「あの時発狂しなかっただけよかったじゃん」と褒めたい。そして、私はもう1点自分を褒めたい。それは

「2019年の瀬戸内芸術祭のときに「大島に行こう」って決めて行動したあんた偉い」



3:瀬戸芸で知った大島の存在

そう、私たちはCOVID-19が世界的大流行になる前に、大島を訪れていた。そこで「ハンセン病という感染症がどのように日本で扱われてきたか」を作品や資料で鑑賞することができたのだ。2019年のことだ。

当時の記録を見ると、あまりに知らないでいることが多すぎて顔面が赤くなる。私は大島に乗船券が不要であることすら知らなかったのだ(大島は観光の島ではないので、乗船に関しては原則無料)。



4:「もしかしてこの隔離は」

そしてパンデミックがやってきた。パンデミックの最中で感じた想いは、自分がパンデミックの波に飲まれた時に強烈な印象を思い出させた。そう、

「あんたも隔離されていると一緒」

そう、2019年にぼんやりとしか自分ごとになってないハンセン病。当時は「癌も言われる前の日まで自分が癌だって知らないのよね。ハンセン病もそうなんだろうね」という視点で見ていた。しかし、COVID -19が世界を揺るがし、自分も気軽に移動ができなくなり、子供も登校が禁止になりオンライン授業になった時、私は思い知らされた。これは(もちろん環境は違うけど)「行動を第三者に強制的に制限されている、これはハンセン病の隔離と状況が似ている」と言えないかと。もしそう捉えていいのなら、私は改めて震え上がった。現在自分が感じている猛烈な恐怖感、これを大島で生涯を終えた方々は死ぬまで感じていたのかと気がついてしまったから。
同時に私は彼らに少しだけ寄り添えているのでは?という気持ちににもなった。それはこの気持ちが自分ごとになったからだと自己分析をしている。

「他人に良かれと思って整えられた環境において、自分に強い行動制限がある場合、行動制限をされた人はその整えられた環境が虐待レベルで辛くなることがある」


もちろん環境を整える、希望を叶えることは素晴らしいことだ。でも、でも、その状況でも当事者が納得できない行動制限をされている場合、その整えられた環境が物凄い重圧になることがあるのだ。

学校に行けないのならオンライン授業にしましょう。
職場に行けないのならテレワークにしましょう。

マレーシアにいた時、日本よりもこのような環境整備が積極的に行われる状況にあった。私自身が所属していた環境も改善が重ねられたと思う。すばらしいことだ。

しかし、オンラインの環境が整えば整うほど怒りが増していた生徒さんもいた。結局学校を辞めてしまった子もいた。そして私のように部分的に落ち込みから離れられなくなる人もいた。私も一時、猛烈に落ち込み、深く悩んだ。なぜ、自分は落ち込むのかと。


今回、大島でのいろいろな歴史的な資料も展示されていた。じっくり時間を保つことができたので、今回はその資料も読み込むことができた。そこで印象に残ったのは「新入りが自殺しないように」というくだりが本当に多かったこと。

大島では行動制限が課されるケアの一環として様々な宗教施設やお地蔵様などが建設されていた。そして山に遊歩道を作ったりアトラクション施設なども多く建設されていた。

多くの医療関係の現場の方は、少しでも入所者の方が喜ぶ環境を、と思われてのセットなんだろう。これは素晴らしいことだと思う。しかし、しかし、それは同時にケアされる側にとっては逃亡を決心させるような重圧にもなっただろう。

こんなにしてもらっているのに、なぜでそれを自分は受け入れられないのだろう。という感情は本当に辛い。そしてなぜ自分の辛さをわかってくれないのかという憤りも抑えきれない。

なぜなら環境を与えてる相手はこの行動制限されている自分の状況を「当たり前」と思っているから。なんでお前は動けるのに、俺は動けないのだ。この怒りは抑えきれない。
そう、「己の行動制限を当たり前と受け入れろ」という前提が辛いのだ。


5:今ならわかるかもしれない、と気がついてから

今なら、その辛さが自分なりに痛いほどわかる。そしてこの「痛いほどわかる」を自分が体験した経験が体に刻み込まれてしまった以上、もうこの刻みと共に生きていくしかない。その決心を宣言するために私たちは大島に行かなくてはならない。


というわけで私たちは大島に行くことにしたのだ。ちなみに大島に関しては夏会期の際コロナのクラスター回避のために観光客の島への入島が禁止されてる時期があったそうだ。そしてその後再開された時は整理券が出るような状況だったとのこと。そして季節は秋。台風の可能性もある。台風が来たら当然だけど船は出ない。それも困る。そして(待ち望んでいた)観光客の入国解放が10月11日から、そうなると10月月末は混雑の可能性が高まる。同時に10月第二週からは息子さんの大学受験専門塾もスタート。となると10月の連休前の方がいい。

台風が来ないとわかっていて、人の出入りが少ない平日で、10月11日より前となると。日程はどんどん限られる。うむ。そして月、金曜日とそれなりの予定。迷う。。と思っていたが

行くしかないじゃん!ということで、急遽夜行バスでいざ出発。夜行バス、倒れるかもって思ったけど普段から国際深夜便に乗りまくり座席で細切れ熟睡できる私たちは案外夜行バスも熟睡できた。

そして大島をじっくり3時間以上満喫することができた。10月の連休前の平日ということで人数も少なく、こえびさんのガイドも暖かく、島内もとても静かで天気も良くて最高だった。
(後で写真に変えるかもしれないけどとりあえずTwitter)


6:芸術や芸術祭が人にできること

芸術や芸術祭で何ができるか、このパンデミックにおいて芸術に関わる全ての人が考えておられると思う。こんな非常時に芸術とかやってる場合かという意見もあった。
確かに非常時に何を優先するかってとても重要な問題だと思う、今回自分で経験して感じたのは「芸術や芸術祭ができることはその芸術で感じたことを再び自分の行動で確かめに行くことができる」だった。ただし、その芸術や芸術祭が続けてもらわないと、この説は成り立たない。


世界は動き、そして変化し続けている。その変化は受け入れ難いというものも、当然ある。今は正直受け入れ難い変化の方が多いかもしれない。
でも、でも人として生きていくのなら、その時々に芸術に触れたい。人の表現に触れて感じた思いを生きる糧にしたい。そして時が流れた時、触れた芸術に対する想いの変化を自分で行って感じて再体験する。
その再体験のために、生きる。これが芸術が人を生かしている根源なのではないだろうか。

そのためには芸術は続けなくては意味がない。この芸術は全ての表現があてがまる。絵画や彫刻、映像や演劇だけでなく俳句、短歌、文章そのものも当てはまる。


私たちは芸術や芸術祭に続けてもらうで生きていける、と思うと同時に「生きていける」と自分から発信することも忘れてはならない。そしてその発信を伝えなくては行けない。
なぜなら、その発信が次の芸術の生きる糧になるかもしれないからだ。


大島に行った後、昼食を取ってあと弾丸で直島に行って高松に戻った。雲も、月も、船も、街並みも本当に綺麗だった。

だから私は今日も書き続ける。そしてこれからも。