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死なないための料理

「生きたくなる料理」というタイトルをみて、今日とても身近に感じた「死」を思い出した。

私の住んでいるクアラルンプールは治安がいい都市ではない。特に中心部の治安はあまりよろしくない。今朝、子供をコーディングキャンプに送った後、中心部を抜けて郊外の自宅に戻ろうとしたら乗っていたGrabがなかなか進まなくなった。「また渋滞かよ」と気にも止めず車内で携帯を見て、たまたま外を観たら交通事故。おそらく路上生活者または日雇い労働者的な風貌の老人が道路の真ん中で頭から血を流して倒れていた。おそらくもう生きていないだろう。

私は一瞬止まった息を大きく吸い込んだ。こんな事件事故遭遇はこの都市では珍しいことではない。

こんなことをいきなり言うのは変かもしれないが、私は「食事を食べる」行為を行うことが大嫌いだ。なぜ嫌いかというと個人的な体験を経て「どんなに体にいいもの食べたって美味しく食べたって死んじゃう時は死んじゃうじゃないか。だったら食事なんてもんを楽しむより死なないような成分だけ得た方が効率的じゃないか」って思うようになったから。「生きる」ではなく「死ぬ」ことに遭遇する機会が増えた時期、私は生きる為に食べたってどうせ死ぬって感じてしまったのだ。

だから何気ない雑談とかも本当はすごくしんどい(出来るけど。出来ちゃうのが社交的コミュ障なのだ)。よく知らない人に呼ばれるホームパーティーなんて息ができないので絶対行かない。どうしても行かなきゃいけない場合はずっと台所にいたい。

本当にリラックスできる環境じゃないかぎり食事なんてものは速攻で終わってほしい。食べながらよく知らないひととおしゃべりとか超辛い(できるけど)。食事なんて錠剤でも全然構わない。会食もランチもお茶も本当にリラックス出来る相手じゃないと(話せるけど)辛い。パーティーは仕事じゃない限り参加しない。仕事しながら自分は錠剤とか飲んで済ませたい。

しかし食事を日々錠剤というわけにもいかない。そこで私は「家弁」というスタイルを産み出した。これなら食べる行為はすぐ終わる。

しかし私は「作る」という行為は好きだ。自分の手で食べ物を作り出すのは大好きなのだ。自分でも矛盾してると思う。

しかしこの有賀さんと坂口さんのやりとりを見て、そして坂口恭平さんの「cook」のエッセイ部分に500回ほど大号泣した経験を思い出して私は確信した。

私は「死なないために料理を作ってる」

考えてみたら合点がいく。常に緊張しなければいけない外世界で、なんとか生き抜くにはエネルギーが必要だ。その為には呑気に地元で食べ歩きを続ける余裕は私にはない。常に戦闘態勢なのだ。

日本にいても社交的なコミュ障な私は基本常に内側緊張しまくりだった。挙動不審なので時々目をつけられていじめられた。日本にいた時は逃げ場がどこだか分からなくてただ必死に流れ弾に耐えていた。

そして外国で暮らすようになり私は徐々に「孤独」を手に入れた。私にとってこの「孤独」は呼吸を自分で整えることができる安住の地でもある。

母親だから、妻だから。女性だから料理くらいできないと。という呪縛から解放されやっと自分の目的「死なないため」で料理が作れるようになった気がする。

私の作る料理は「自分が死なないための料理」だ。だから死ぬことにいつも隣り合わせな状態で生きてる「cook」のエッセイは私の心に響くのだろう。また読んで泣こうと思う。ほんと、いい本なんでオススメです。