新しい景色を見る方法を知った2022年、9年ぶりの冬。
続けることって大事。だって続けないと見えない景色があるから。
2022年12月、私は9年ぶりに大学病院の待合室にいた。9年前は最新だった設備は少し落ち着いた感に変化していたが病院内の美しさはそのままだった。
なぜここにいるのか。私は9年前に手術した乳がんの経過の診察を再開する手続きに来たのだ。
9年前、私はこの病院で乳がんの手術を受けた。正直痛みに関しては強い方だと思っていたが、手術が終わった日、痛みと共に傷だらけの自分の胸を見て声が張り裂ける程に泣いた。がんの告知を受けた時、生まれて初めて「死にたい」ではなく「生きたいのに死ぬかもしれない」という気持ちに襲われ恐怖に慄いた。その時の気持ちは今でも覚えている。手術の結果、私の癌は摘出によって回復の方向に行く可能性が高いタイプと判定されたけど、その分析が判明したのは手術から2ヶ月以上経った後だった。
手術が終わった数日後、私は管に繋がれた自分の体の扱いに少し慣れた感を感じながらベッドでぼっと本を読んでいた。その時、いきなり携帯が震えた。当時、私の子供はまだ小学1年生。なので病室に気軽に来れるようにしたかった故、私は個室に入院していた。なので携帯に出ることを躊躇する必要はなかった。
「もしもし」
!!!!!!!!!!!
思わず体に刺さった管を抜きそうになった。もちろん携帯だから向こうには姿は見えない。落ち着いたふりをして用件を聞くと。。。
!!!!!!!!!!!!!!!!!
当時、私の息子はサッカーをやっていた、そしてFC東京の大ファンだった。なので私はいつかは。。とエスコートキッズに応募したのだった。
しかしその後に自分に乳がんが発覚し、私はすっかり応募したことすら忘れていた。ただ、応募しないと当たらない。確かに私が応募したのだ。でかしたぞ。かつての私。
本来なら主治医と相談すべきな案件。実際の試合は次月。私が、付き添いできるかどうか、わからない。でも私は考える前に「参加します」とすぐに返事をしていた。最悪、自分がダメでも他の家族が行けばいい。このチャンスを逃すことはない!
国立競技場に行くんだ!と言う気持ちが私を後押ししたのか、私は術後の体調管理を必死に行った。その結果、退院後子供のハイタッチキッズに同行することができた。当日は雨だった。子供を待ち合わせ場所に届けた後、保護者同士で簡単な自己紹介をした。日本代表戦には、エスコートキッズだけでなく多くのお子さんが関われる○○キッズの種類があることを知った。
ある保護者の方が「私、名古屋から来ちゃいましたー。きっと私たち親子が一番冒険感溢れてると思います!」と話しておられた。それを聞きながら「前月に乳がんの手術をしてましたが来ちゃった私の方がもっと冒険感溢れてます!」とマウントできるぞ!と思ったけど、止めた。
私はその試合のパンフレットを3冊買った。自分、家族、そしてもう1冊は私の外科手術を担当してくれた女医さんのために。その方は当時の代表選手だった内田篤人選手のファンと教えてくれた。その先生はこんな話を教えてくれた。
その話を聞いて、なんて可愛い人!って思ったことを今でも覚えている。同時にサッカー日本代表を応援するにも、いろいろ違う景色が見えているんだなあと深く感じたことも、すごく覚えている。
試合はとにかく寒かった。今して思えば大きな手術が終わってすぐよく行ったもんだ。soldierみ、強強である。
私は手術の結果、放射線治療を行い、その後に家族都合で東南アジアに転居することになった。その後は定期的に日本に一時帰国していた。シンガポールでの日本代表の試合は何度か行った。ずっと応援できると思っていた。でも、新型コロナウイルスという予想外の展開があり、わたしは日本に行けなくなった。同時に、日本のサッカー、というか日本から隔離された数年を過ごした。そして2022年、本帰国。
外国からの本帰国というのはダンボールとの戦いでもある。いかにダンボールに埋もれないで荷物を片付けるか、生きるか死ぬかの勝負だ。その戦いの最中、私は引き出しから1つのしわくちゃな小さなユニフォームを見つけた。それは息子が9年前に着用したハイタッチキッズのユニフォームだった。
乳がん、ふざけんな、絶対に生きてやると思いながら手術を受け、痛みを隠しながら雨の中、日本代表を応援したあの日を思い出した。そして外国へ。外国で暮らしながら違う景色から日本サッカーを遠目で見ていた日々を思い出した。そして私は、2022年の夏、日本に帰ってきた。
かつて見た景色を見てる私は、右胸が全くないわけだけど。
私たちは時を取り返すように、味の素スタジアムに通った。以前は大きな声で歌えたYou never walk aloneは画面を見ながら心で歌うスタイルになっていた。口にはマスクをして、手拍子で応援となった。
長友選手がリーグ戦最終日、代表への壮行の花束を貰ってる姿を見ながら私はFC東京のゴール裏を眺めていた。そうか彼は私が癌を患う前から日本代表なんだ!と気がついた。あの時、見た景色を思い出した。涙が止まらなかった。
2022年はワールドカップの年。今回のワールドカップは11月と聞いて思わずほおっと不思議な声が出た。瞬間的に思ったのは「寒いのにパブリックビューイングどうするのかな」。でも時代は変わっていた。サッカーは大きな場面で見る時代はとっくの昔に終わっていたのだ。若者が自分の携帯で見るという状況もそうだけど、コロナが状況を変えたのだろう。新型コロナウイルスは、サッカーを見る景色も変えた。以前とは違う景色がそこにあった。
このコロナ禍、日本のサッカー界にも、サッカー日本代表もいろいろな変化があったと思う。家族で応援していた権田選手はFC東京から海外挑戦を経て、2022年は清水エスパルズに所属していた。
FC東京の頃とは雰囲気がずいぶん変わったなあと思っていたら、色々な試練を体験していたことを知った。試練を乗り越えると、人は変わる。新しい景色が見える。私にはわかるよ。だって私も新しい景色が見えてきたから。
新しい景色が見えた人は「続ける勇気があった人」でもある。
私自身、約9年間東南アジアで暮らしてきた。後半はマレーシアに滞在し、厳しい、長いロックダウンを体験した。中国ほどの厳しさはなかったものの、長い行動制限は私だけでなく多くの人の心に傷を残した。その傷故に続けることを諦めた、諦めるように追い込まれた人を数多く見てきた。もちろん、私自身も(続けていたら新しい景色が見えたはずなのに)諦めてしまったことがいくつもあった。
普通の生活者ですら、生活することが辛かったこの数年。スポーツ選手は本当に大変だったのではないだろうか。多くの制限を課された、見たくない景色を見つめながら、ただひたすら練習を続ける日々。
状況は変わり、世界は変わる。でも続けていないと、新しい景色は見えてこない。新しい景色を見るためには、どんなにしんどくても、どんなに辛くても、続けなければ見えてこない。
今回のワールドカップは、選手も、応援するサポーターも、今回から応援してみようかなって思った人み皆、様々な制限の中で生きること、プレイすること、それぞれ続けてきた、勇気ある人なのだ。
もしここで観戦の機会を得ることができたら、私は9年前のハイタッチキッズのユニを鞄に忍ばせていきたい。そしてそのユニを握りしめながら9年間、自分が生きていたことを続けたことを再確認したい。
ずっとサッカーを続けてる長友選手や権田選手を思いながら「自分も生きることを続けてきましたよ」と自分を褒めたい。そしておばあちゃんになった時にこのユニを握りしめながら「生きることを続けてきましたよ」と言いながらサムライブルーを応援し続けたい。
勝ち抜くことも大事だけど、その前にみんな生きよう。生きようね。
私も生きるから。
だって、生き続けないと新しい景色を見ることはできないのだから。