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息ができないほどの苦しい想いが多方面から追いかけてくる。その時にどうしたらいいか。

昨日からとても調子が悪い。それは10月が終わるから。この時期から私は各契約関係の更新が一気にくるので毎日心身が削られ続ける。本当に辛い。辛すぎる。同じ削るなら下っ腹を削ってほしい。この時期は栄養ドリンクに頼ってしまう。

家族もそれぞれ忙しい。手続き先も、関係してる部署も、学校も、忙しい。よって、思い通りに事が進まない。もちろん、皆明確な悪意があるわけではない。でも思い通りにいかないことが、本当に多すぎる。去年はこれでよかったのにが全然通じない。

「前はこれで良かったのに」が通用しない最たるものが、子育て。

私自身は本当にダメ人間だと自覚してる。同時にダメ妻、ダメ母親だと思っている。なので私が保護者なんて、なんて頼りない保護者なんだろうほんとごめんなさい神様を恨んでくださいと結構本気で思っている。

うちの息子さんが結果的に聡明に育ってくれているのは息子さん自身が偉いから。私が保護者じゃなかったらきっともっと聡明だったよと結構本気で思ってる。(ちなみに身内に遠回しにそう言われたこともそれなりにある。あなたが産んだのにねって。はい、私もそう思います)

なので、このコラムは本当にきつかった。

読んでいて本当にしんどかったのは「私はこの相談者さんと同じだ」ってどしんって思ったこと。自分が叱られてるような気持ちになった。

叱ってるだけではない。幡野さんは何をすべきか具体的アイデアも提案してくださっている。そしてこのコラムに対して色々な意見が飛び交っている。

私はその意見を読んで更に震える。

なぜ、みんなこんなに他人のことって認識していられるのだろうか。自分は大丈夫、自分の家族は大丈夫ってなんでそんなに自信満々に思えるのだろうか。その「自分は安全地帯にいるから」という強固な自信は一体どこから来るのか。

私はこの2人のお子さんの子育てに悩むお母さんにかける言葉が見つけられない。だって自分だってこの「人に言えない」「助けを求めたらら怒られる」って感覚、すごく、すごくわかるから。

今私は東南アジアで中学生を育てている。私自身は家族や親しい友人と話す時以外はほぼ英語。私の英語はしっちゃかめっちゃかなので、不明点があればとにかく聞くしかない。周りも「あの人すぐわかんないし」認識なので私の質問に答えてくれる(どう思っているかなんて、知らない!)」。つまり、質疑応答のルールが出来上がっているのだ。英語がネイティブでない人の集まりの英語圏だとこの質疑応答環境はできやすい。だって、どっちも困るから。

でも、日本語環境でほぼ10割日本語話者だとこの質疑応答ルールは構築しづらい。それは

「わかってほしい、察してほしい」

という日本語思考独特の感覚が土台にあるからではないだろうか。察してほしいから自分で意見を言わない。、コミュニケーションをとって疑問点を解消しない。そして相手を自由にさせない。だって、日本語コミュニケーションは察してほしいし、察するべきだから。

だから先ほどのコラムのお母さんが旦那さんに対して一切記述がないのもなんか想像できる。(実在してるはずと幡野さんは書いていたけど別居や死別の可能性もあるでしょうね。)私は彼女は(この子達と私の問題だから察してほしい)という気持ち故旦那さんについて記述を一切しなかったと思う。それは(バレたら困る)かもしれないし(触れる必要がないくらいの存在)かもしれないし。ただ言えるのは『私はここで子供達について考える自分について相談したい、この気持ちを【察してほしい】』だったのだと思う。

私はその彼女の気持ちを【察した】。

彼女の「察してほしい」を甘えだ毒親だと指摘するな、叩く事を全てやめろという意見ではない。世の中に確かに毒親はいる(私は自分も時々片足を突っ込んでいるのではと怯えている)。毒親援護ではない。私には本当にわからない点が2つあるだけ。

「指摘や意見をかける人はなぜ、自分が毒の根元にならないという自信があるような言葉を綴るのか」
「攻撃ではなく新たな交流を誕生させる方法を思考する動きはなぜ生まれないのか」

まず第一点。「なぜ、自分が毒の根元にならないという自信があるのか」

人の行為と自分の環境を明確に切り離した上で、ポイントを指摘する事で自分の立場を落ち着かせる人っている。人の失敗を指摘するだけじゃなくて人の善行を指摘するのもこの行為。自分が苦しいって呟いた時、「アフリカで飢餓に苦しんでる人の事を考えた事あるの!?」など急に言い出す人いませんか。いますよね。え、別に誰とも比べてない。私が辛い、私が悲しいだけなのに。なんでここでアフリカなのって思う。そしてその言い出した人もアフリカにいったことない。言わないけど。

あなたがそこで吐く弱音がいけない、世の中はもっとこうなんだから!

自分と自分以外を明確に切り離す行為。これじゃ実際、何も言えないっすよ。

そして第二点目。「攻撃ではなく新たな交流を誕生させる方法を思考する動きはなぜ生まれないのか」

これは「察してほしい文化」故の思考ではないか。意見交換ってマジで疲れます。だってここがわかんないとかここをこうやってほしいっていうのを言うだけで、まず言う行為から徹底的に叩く人がいるから。聞くことが悪いって。そこを全力で否定されちゃったらもう交流も質疑応答もないよね。

そしてそういう行為を「良かれと思って」やってるので、ますます、言えない。

徒然書いてたら少し落ち着けるかなって思って書いてみました。それはこのnoteがきっかけ。とても、良いnoteでした。

どうか自分だけは自分の味方でいてあげてほしい。
具体的に言うと、哀しみの元になりそうなものは、全て録音や録画しておいて。それだけでも幾分か冷静になれる。日記も書くといい。困っていることを細かく書き出しておけば、相談するときの大きな助けになる。

この2点に激しく心が動かされた。今日も手続きでマレーシアの政府機関に行ってたんだけど、思い切り玉砕したんだけど、帰りのGrabの中で泣きそうになった。いや、結構泣いた。

本当になんでこんなにスムーズに出来ないのか。本当に嫌になる。外国暮らし、外国語暮らしなら尚更だ。しかし外国語暮らし故、言葉にしやすい、いや、言葉にしないと始まらないのは私とっては味方なのかもしれない。日本語より全然聞きやすいしね。

私は自分を卑下する私を認めなかったら、誰が私を信じてくれるのか。以前指摘されたことがある。「へり下る事で、「そんなことないよ」って発言を誘導してない?」って。本当にへりくだり人生だったので、その指摘は結構衝撃的だった。そして、より発言に気をつけるようになった。

交流を持たず、静かに粛々と生きていく。これが一番だ。まあ黙ってメソメソしても始まらない。政府機関に提出する書類、作り直そう。