見出し画像

少女像と白樺派。〜「表現の不自由展・その後」を実際に見た者の作品に関する純粋な感想の記録〜


#あいちトリエンナーレ で開催が終了した「表現の不自由展・その後」。界隈でとても激しい議論になっています。
私は機会を頂くことが出来7/31、8/1に実際に展示を拝見する機会に恵まれました。
その後議論が白熱する状況を眺めながら「この展覧会を騒ぎの前に落ち着いた環境で直接見た行政、運営、美術展関係者以外の人間」って実はすごく少ないのでは?」ということに気づきました。

先日、非常に興味深いトークを拝聴しました。
齋藤恵汰 & 堀崎剛志「構造と表面」〜ラテックスと不動産
8月4日 (日)|14:00 – 16:00
きりとりめでる × 堀崎剛志 × 齋藤恵汰
「インスタという漆、粘土なフェイスブック」
(来週もあるそうなんでお時間ある方はぜひ。詳細はFBのイベントページ見てね)

ここできりとりめでるさんが「白樺派」について触れられていました。

白樺派とは「白樺という近代日本最大の文芸同人誌で、ロダン、セザンヌ、ゴッホ、マチスなどを西洋絵画を紹介した美術雑誌に寄稿していた芸術家、文化人のことだそうです。
そして彼らは実際に見ていないのに、多くの感情を込めてその絵画について批評を行ったとのこと。

見てねえのかよ!!

そこで私は考えました。

#あいちトリエンナーレ の「表現の不自由展・その後」の状況と「白樺派」を絡めて語っておられるトークを自分なりに解釈しました。
この「表現の不自由展・その後」の「展示そのものの感想」をアーカイブすることはとても重要なのでは、必要なことなのではないだろうかと。
少なくとも自分はそう感じたので自分の作品に対する感想を記録に残そうと思います。

展覧会を語る前に私の特異性の紹介にお付き合いください。
私はシンガポールに3年半、マレーシアのクアラルンプールに1年半家族と住んでいます。息子がひとりいまして彼は完璧なバイリンガルです。彼は英語のネイティブスピーカーが試験を受けて入る中学校に通っています。
シンガポールでは豪系、マレーシアでは英系の学校に通っています。クラスメイトには欧米の子や東南アジアの子、極東アジアの子もたくさんいます。日本人は超少数派です。白人社会、少数派だと正直日本は人種差別のターゲットになる危険性がありました。息子に関しては幸い継続的な具体的なトラブルはありませんでしたが何もなかったわけではありません。
あなたは差別をするでしょう!とカテゴライズされたことも差別される側にカテゴライズされたこともあります。人種差別や戦争体験について触れられてどう思う?と聞かれるケースは日本国内で生活してる人より明らかに多いと思います。

総合的には、とても、静かに暮らしています。

つまり私はここ5年くらい日本を主に「外から」見ています。
よって、私は日本人として日本の歴史的、政治的な視点をこの展覧会においてほとんど持っていません。住んでないので肌感として明確に言えないので意見がまとめられないというのが本音です。

私は美術関係に細々と関わる人生を送っていまして現在住のマレーシアでも細々と東南アジアのアートウォッチングを続けています。アートスポットに出掛ける際は子供と一緒に動くことが多いです。なので今回、子供と一緒に鑑賞したのもそのような状況からでした。もちろん中学生が参加することは事前に主催者側の了解はとってあります。

さて。

表現の不自由展・その後」。

私は7月31日の内覧会、8月1日の初日の午前中と2回拝見しました。

展示そのものについてはこちらの記事が一番まとまってるかな。

内覧会というのは主催側が招待した鑑賞者が集まる場です。よって展覧会に対して根本的に好意のある人が集まります。そして展覧会初日の午前中は気温36度程まで上昇。観客は強い意志を持って展覧会を観る人のみ。そういう環境でした。

「表現の不自由展・その後」に関しては正直事前知識はあまり持っていませんでした。非常に忙しくて調べることができなかったのが本音です。

会場には本当に普通に入りました。
そこで私は初めて「平和の少女像」に会いました。

第一印象は「地味」。正直、その像そのものに対して大きなメッセージアプローチや感情を持つことはできませんでした。
こんなに地味なんだ・・・。というのが正直な感想でした。

息子と一緒にキャプションを読みました。キャプションもとても平和的でした。益々私は混乱しました。

美術的な印象でこんな地味な作品が日韓をここまで動かしていたのかと。正直、芸術作品としてあまり心が動かされなかった。。

会場にはもっと直接的なアプローチが強い作品が多かったです。

岡本光博氏の「落米の恐れあり」は経緯を追っていた数少ない作品だったので非常に興味深く拝見しました。そしてこの作品が「沖縄ではなく切り取られて今、ここにあること」によってこの作品の息遣いは本当に変わったのだなあと改めて思いました。

チョウ・ヨンスさんの「償わなければならないこと」は個人的にすごく印象に残りました。それはこの作品が参加した「ウリハッキョと千葉のともだち展」がどのような経緯で開催不可に追い込まれ、現在も再開されていないかが書かれていたからです。
非常に大きな作品です。これを出すまでに多くの大人がこの作品の前でチョウ・ヨンスさんに何を話したらいいか、自分は彼女に関わる大人としてどうしたらいいかを考えたでしょう。その大人たちの気持ちについて私だったらどうしただろうと深く考えさせられました(答えは出ませんでした)。

小泉明郎さんの「空気 #1」は椅子のみの作品だけどとても雄弁でした。作品そのものの表現力、技術力も素晴らしいと感じました。この作品が展示できなかった2016年と令和元年、この作品の息遣いはどう変化したのだろうかと思いを巡らせました。
私は東南アジアで暮らして驚かされた点の1つに「東南アジアの人々は案外日本の皇室のこと話題にする」があります。そして彼は歴史的な側面だけでなく、私たち日本人が英国王室を見るような視点で皇室をみている視点があることにも驚かされます。(プリンセスで可愛いこいるよねー!とか)
皇室に関して多面的な視点を外国の方に気づかされるという体験は私にとって不思議でした。

というように、少女像以外にもとても雄弁な作品がたくさんありました。

不満な点を挙げるとしたら会場が狭かった。狭いのでその直接的なメッセージがとても錯乱しました。混乱を生み出すことが展覧会主催側が意図したものなのか、私がそう感じただけなのかは私にはわかりません。そして、作品そのものに向き合うため私は「音声が出る作品に工夫がほしかった」という印象を持ちました。正直音声が出る作品のエネルギー強すぎて。。。。

実際に展示室で展示を冷静な環境で見たものとして「この展覧会を見た方がいいのか、そうじゃないか」と問われたら私は「見たほうがいい」と答えます。それは今、話題の「少女像」は作品自体はとても地味であることを体感し、他の雄弁な作品とともに鑑賞することは重要な経験になると思うからです。
(このような体験をしたくない!という人がわかるように入室前に注意書きがあるとなお良かったと思います。この体験は別に強制されるべきものではないから)。この素朴な作品と政治性を分離して捉える貴重な機会になったと思います。

ああ、こういう表現を日本で試みる動きがあったのだなと純粋に思った。というのが「事前知識が薄く、日本に在住していなくて、実際に展覧会を見た」私の感想です。

2回目、息子は「外の映像作品見てていい?」というので快諾。この手前の映像作品ブースは引き込まれる映像作品が多く、超おすすめ。そしてもしかして配慮の場所でもあるのかなと私は解釈しました。

展示室に入ったのは初日の午前中。スムーズに入れました。そして多くのテレビメディアがいたことに驚きました。彼らやその場にいた人は多くの人が少女像「のみ」に注目していました。他にも多くの作品があったのに全然そちらを見ていなかった。
昨日とは、少しずつ空気が変わっているような印象を受けました。
その姿を見てとても恐ろしいこと起きるのではという予感を感じました。

同じ作品なのに空気感の違いで印象が変化することを実感しました。
その後の報道からの印象ですが「7/31に感じることができた表現方法と表現思想の分離性」は二度と戻ってこないと思います。

その後については、私は名古屋を、そして日本離れてしまったので私は体験から来る個人的な感想を持つことができないです。

他にも興味深い作品が本当に多い芸術祭なので(議論は議論として)もっとそれぞれの作品を見てほしいと思います。これから自分の美術ブログでも紹介していきたいです。

様々な場所、視点で議論が行われていますが実際に展示を見た者、そしてアート好きおばちゃんとして子供と一緒に様々な芸術祭に行ってる者としては

「祭はそこに住んでいる人が一番楽しい思い出になるとように配慮すべし」

を声高らかに主張したいと思います。

街中エリアでは近所の商店街で綺麗な七夕祭が行われていました。あいち芸術センターや名古屋市美術館でも子供の遊ぶコーナーが充実してます。特にこの時期の名古屋は灼熱ですから室内で楽しい思い出ができる場所はとてもとても貴重です。

色々な議論は必要だと思います。ただ、そこに住む人、祭に訪れる人が笑顔で祭りに関わり、近所の家に帰れることをまず重要視してほしいです。祭りは、そこに集う人が最優先です。

だって子供達にとっては「その年の夏は1度しか来ない」のですから。