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【小説】マリオネットとスティレット【第三話】

 貧民街には、多くの人間がいる。工場労働者、職人、逃げ込んだ犯罪者、各ギルドの下級構成員……彼らは皆、まともな住居も持たず、食事は獣人の屋台から買って済ませ、多くは結婚できず、娼館で一夜の夢を見ることだけを支えに働き続ける……。人間は多くても、彼らの幸福を足し合わせた量で言えば、貴族をはじめとする都市の富裕層のそれとは、まったく比べ物にならない。貧民街では皆、嘆きに満ちた深い谷底のような人生を、喜怒哀楽をめちゃくちゃにぶっ放しながら、束の間、生きていた。そんな区画でも、時折は、貴族が歩いていることもある。建材に使ったのか、喧嘩の武器に使ったのか、誰も知る由もないが、石畳がところどころ剥げた、歩きにくいことこの上ない、汚物だらけの道を、踏みしめるブーツが二人分。朝、労働者たちが慌ただしく他の街区へ出掛けていく喧騒をよそに、足取りはゆったりだった。
「ふっふっふ……フフ! ふっふっふ……」
「なにニヤニヤしてんだよ、レカ……」
 レカとテルだった。二人の身なりは、ここでは目立つことこの上ない。暗殺者用の革の肩当てや、ピッタリする生地の黒いボディスーツと、本人としては地味を追求したものの、いかにも貴族然とした控えめながらも品のある、深緑色に染められたウールの外套。墓から掘り出した死人から奪ったような、ボロばかりの貧民街ではあまりに不似合いだった。しかし当の少年少女二人は、まったく気にしていなかった。
「テル。嬉しいもんだな」
 レカが上機嫌で呟く。
「やっぱ、仕事が評価されるってのはヨォ……」
 テルは適当に、
「あ、うん、そうだね」
 と言った。そんな返事でも、レカの機嫌は崩れない。しかし、テルとしては少しモヤモヤするものを感じる。
(ほんと、仕事の話、どんなことをしてるか……話してくれたこと、ないよな……)
「しっかし」
 レカが汚い通りをすれ違う人の一団を見て、呆れたように言った。
「飽きないねえ、奴隷なんかもう値崩れしてるってのに」
 テルも気にはしていたが、努めて見ないようにしていた。街の外から帰ってきて、凱旋パレードを済ませ、市場へ向かう傭兵ギルドの兵たち。色とりどりの服や鎧を身につけた、歌舞伎者と言った風情の彼らの中に、貧民街の住人より見すぼらしい格好をした者たちがいた。俯いて歩いていく人間……いや、亜人種の列。傭兵たちがまるで護衛するように、いや、逃げないように、両脇を挟んで連れて行っている。今し方遠征で「狩って来た」ばかりの、奴隷たち……エルフに、ドワーフ、そして街に溢れすぎていて、売り物にならないことは明らかな、獣人。男は傷だらけで、女は衣服の乱れが著しく、乱暴に扱われて来たことは明白だった。
(むごい……)
 ぼーっと日常の風景として眺めるレカを見つつ、テルは心の中でそう呟いた。およそ、自分の家の周りでは見ない光景だ……。奴隷だけなら、貴族の屋敷にも、メイド服だの、執事の制服だのを着た、とてもお行儀の良い、しつけの行き届いた者たちがたくさんいるが、「ナマ」の奴隷を見る機会など、テルにはそうそうあるものではなかった。
 亜人種たちは、取り立てて縄で縛られているわけではないが、抵抗せずに、俯いたまま歩いていく。おそらく、少しでも抵抗すれば殺されると理解しているのだろう。そういう現場を目の前で見せつけられたから。
 傭兵たちは、奴隷を自慢するように見せびらかしつつ、時折こう叫んでいる。
「魔王軍の侵攻は近い! 魔王軍の侵攻は近い!」
「勇者も魔法も無用なり! 銃とパイクがあれば良い!」
「傭兵ギルド万歳! 傭兵ギルド万歳!」
 それを聞いて、レカは横を歩くテルにだけ聞こえるくらいの声で、
「っへ、好き勝手言ってらぁ」
 と呟いた。何せ傭兵ギルドの傭兵ほど、トラブルに縁のある存在もいない。レカからすれば、銃を向けられようが集団で剣を向けられようが、あしらうのは訳もないことだが、テルにはあまりそういう場面を見られたくなかった。
「ねえ、レカ姉……」
「んん? なんだい? ボーヤ」
 心細くなったテルは、つい子供の頃からの口癖の、「レカ姉」という呼びかけをしてしまう。それをからかうようにボーヤ呼びをするレカ。いつもなら、テルはムキになってバカにされたことに抗議するが、今はそんな気分ではなかった。
「レカ、その……大丈夫なのかな。魔王って……」
 レカは吹き出した。
「ぷっはっは! 何を言い出すかと思えば!」
 傭兵たちの一団は、もうすでに後ろの方だ。今ならもう、ハッキリ言っても大丈夫だろう。
「魔王とかマジで言ってんのかよぉ! おいおいテル坊〜、勘弁してくれヨォ〜、ここ貧民街じゃ、誰も魔王が実在するなんて信じてねーぜ! やっぱ所詮、貴族の坊ちゃんだよなあ、オメーは」
 流石のテルもムキになって白い顔を真っ赤にする。
「だ、だって仕方ないだろ! そりゃあ、魔法科学ギルドの見解としては、魔王存在なるものは公式にはもう滅びたことになってる! ……でも、貴族のパーティがちょっと盛り下がった時には、必ず話題になるんだ。魔王の恐ろしい歴史の蛮行が……」
 レカは鼻を鳴らして小馬鹿にした。
「ッケ、くっだらねー。貴族のそういうビビりがあるから、傭兵のクソどもに金を流すアホがいて、その金でまた奴らが魔界に遠征して奴隷を狩ってくる……。まったく、この街の仕組みってやつぁ……」
 テルはそう言われて、初めてそのシステムに思い至った気がして、少し恥ずかしくなった。そうだ。言われてみれば、自分たち貴族が冷静じゃないから、街に悲劇が絶えないのだ……。
「魔王ヨトゴォル万歳!」
 あまりの突然の大声に、レカもテルもびっくりしてそちらの方を見た。道の真ん中に、焦点の定まらない目で、酒瓶を握りしめながら、汚いローブを振り乱して叫ぶ男がいた。
「魔王存在ヨトゴォルは! その偉大なる役目を終えられ! 異世界へとお隠れになる時! 我々全ての存在の福音となる! リミナルダンジョンをのこして下さった! 我々は大時計塔の内部! リミナルダンジョンに帰るべきなのだ! あれこそが救いの方舟だ! 冒険者ギルドにだけ独占させてはいかん! リミナルダンジョンは楽園の異世界に通じている!我々はそこへと帰還しなければならないのだ!」
 レカやテルは、こう叫び続ける男の明らかに普通ではないオーラに、すっかり脅かされてしまって、しばらく無言で歩いて距離をとった。声が十分遠くなった頃、振り返ってみれば、男を中心に熱心に話を聞こうとする貧民の人だかりができていた。テルはそれを見て、全く訳が分からないという顔をした後、レカの方を向いて言った。
「……貧民街では誰も魔王存在を信じていないだって?」
 レカはバツが悪そうに咳払いをする。
「ま、まあ、いろんな奴がいるさ、貧民街はとにかく、いろんな奴がいるから……」
 魔王への恐怖を煽って政治に利用する者がいたと思ったら、魔王を崇めて辻説法をする者がいる。まだ若き少年少女にはなかなかこの貧民街は捉え難い。少々刺激が強すぎる場所だったが、この辺境のダンジョン都市自体がそういう場所。慣れるしかないのはよくわかっていた。
 目的地の救貧院が近づいてくる。貧民街とは言え、比較的……少なくとも、いきなり道端で刃物を使った殺しが繰り広げられるわけではない程度には……治安のいい地区に差し掛かる。レカもテルも、なんとなく一息ついた。……かと思ったら、商人の小間使いだろうか、荷物を持った、少しは身なりを整えた者が、目の前ですてんと転んだ。また足腰も弱る歳には見えないし、放っておくかとテルは思ったが、レカは見るともなしに注意を向けていた。彼女の訓練された暗殺者の目は、確かに、すれ違い様に足を引っ掛ける者がいたのを見逃さなかった。レカは人混みでもつねに気を張っている。人もまばらなこの区画であれば、一人一人の歩調、緊張感、体格や目つきなどから、おおよそその者の意図までよみとることができた。
(スリか……)
 どうやら、一瞬の隙をついて、荷物袋に気を取られて腰の巾着袋への注意がおろそかになっていたのを、スろうとしたものらしい。レカはそこまで見抜いていながら、特に気にもしない。テルにわざわざそのことを伝えたりもしない。見て見ぬ振り。圧倒的弱者への強盗殺人でもなければ、あえて手を出してトラブルを招いたりしない。何せ、スリ程度なら、この街にはちゃんと仕事として管理している、盗賊の組合があるのだ。街の政治に関わるお互いにその存在を認め合ったギルドにはなっていないし、むしろその規模を縮小させつつはあるが……レカとしては、準職業くらいの位置付けのスリ行為を、いちいち咎めはしない。
 しかし、小さな影がちょろっと、さっきスリをしようと足を引っ掛けた者の側からやってきて、転倒から起き上がって袋を確認し、内部の品物が壊れていないかしきりに気にしている小間使いの背後から、スッと、巾着をナイフで切って持ち去っていった。
(なるほどねえ……)
 レカは感心した。二段構えのスリの手並みに。今し方スリに成功したのは、10歳程度の子供だった。小間使いは袋の中身が無事なのを確認したのか、フウと息をついて、急ぎ足で商業区画の方角へ向かっていった。スリの子供は、寄ってきた大柄な髭面の男に向けて駆けていって、盗んだ巾着を見せている。
 流石に鈍いテルとて、子供が盗みに成功するところだけはハッキリ見ていた。
「その……」
 育ちのよろしい穏やかな口調が、信じられないほど汚いものを見たような震えで、歪んでいた。
「なかなかに、きつい仕事だね。子供の頃からあんな……」
 レカはケッ、と吐き捨てるように毒づく。
「これが貧民街の日常だぞ、テル。お坊ちゃんには刺激が強かったかにゃあ……」
 まるで自慢するかのようなレカだったが、テルは子供と大男の様子から目を離さない。
 ぱしん!
 その音に、テルは「あっ!」と声を上げた。
「てめえ! このクソガキ! これしか入ってねえじゃねえか!」
 平手打ちだった。他の通行人は、ちっとも気にしないで、今日も街は平和だ、とでも言いたげに、それぞれの仕事へ向かっていく。通り過ぎる人々。道端の屋台で、自分で調理する暇も気力もない労働者に売ろうと、クズ肉を煮込んでゼラチンにしている獣人も、まったく知らん顔である。
「仕事もろくにできねえのか!」
 ばしん! ばしん!
 何度も何度も、10歳……いや、もしかしたらもっと年齢はいっていて、単に栄養失調で背が低いだけかもしれない子供が、大柄な男に打ち据えられる。子供は、殴られ慣れているのか、絶望と悲嘆で泣き叫ぶことすらせず、亀のように丸くなって、ダメージを最小限にしようとしている。
「ひどい……」
 テルが呟く。男の手下にされた小さな子供が、スリを手伝わされる。ここまでは、ギリギリそういう世界なんだ、で納得できていた彼の心が、ふつふつと憤りに燃え上がる。その子はちゃんとやったじゃないか! どうして殴るんだ! ……もはや、彼の倫理観を超えた事態だった。レカのため息が聞こえた。
「ケケケ、終わってんなあ、この街は」
 テルはレカを見る。睨むとまでは言わないが、強い視線だった。咎めるような、失望するような。そう。この光景ですら、ここでは日常。あまり貧民街に来ないテルでも、そんなことはわかってる。毎回毎回、手を変え品を変え、この街区は人を絶望させようとする。だが……。テルは強い少年だった。レカの肩にポンと手を置くと、こう言った。
「……あんまり気軽に絶望するのは良くないことだよ」
 レカは、あぁ? と呻いて、訳のわからないことを言った年下の幼馴染を振り返るが、彼がズンズンと子供を虐待する大男に近寄っていくのを見て、びっくりする。
「ちょ、ちょ、ちょ! オメーに何ができんだよ! やめとけって!」
 レカが止めようと声をかけても、テルは止まらない。一度だけ振り返って、覚悟で静かに燃える青い瞳をレカに向けた。
(止めてもいいよ、レカ。どうせ君のほうが力が強いんだし。でも、でもね、そんなことしたら……一ヶ月は口きかないからね)
 レカは、あちゃー、という顔をした。
(こりゃ本気だわ……)
 流石に幼馴染だけあって、数秒、視線を交錯させただけで、お互いの考えと、覚悟のほどがわかりすぎるほどにわかった。レカは前へ出る。力ずくで男を死なない程度に吹っ飛ばして、子供を救貧院に併設された孤児院にぶち込む! それで責務を果たしたことにする……つもりだった。しかし、その目論見は意外にもテルによって挫かれることになる。
「やあやあ! おじさん! どうしたんだい、そんなにイキリ立っちゃって……」
 レカはガックリきた。あの貴族のかわいいテル坊やにしては、あまりに素っ頓狂な、街のダウンタウンのオヤジのような声だった。
(こ、こいつこんな芸をどこで覚えたんだ……?)
 唖然とするレカだったが、シリアスな場面が解決されたわけではない。
「あぁ!? なんだテメーは! 貴族のガキかぁ!? 失せろ失せろ! こっちは今ガキのしつけで忙しいんだ!」
 レカは瞬時に、相手の下がった手が、懐の得物をいつでも取り出せるようにスタンバイしているのに気づいた。ナイフか、何か……。少なくとも致命的な武器であることは確かだ。レカは直立したまま、重心を調整していつでもトップスピードで前へ出られるように準備する。彼女の本気の速度なら、弾丸だって避けることができる。テルに危険が迫ったら、いつでも対処できる自信があった。
「いやいやいや、邪魔なんかしないよぉ」
 だが、だが……
(こ、こいつ、本当に大丈夫なのか……?)
 長年の付き合いのレカですら見たこともない一面を見せるテルに、半ば唖然として事態を見守るしかない。まさか想定を超えるほどヤバいことにはならないと信じたいが……。レカはどんな暗殺の任務でも感じなかった気色悪い緊張を感じた。テルは両手を広げて、大男に近づいていく。殴られていた子供は、まだ縮こまって、震えることもなく次の折檻の一撃に耐えている。通行人は、今まで興味の一つも示さなかったのに、まさか貴族の少年がつっかかっていくだなんて想像もしなかったのか、人だかりになって事態を見届けようと集まり始めた。
「チッ」
 それだけで、大柄な男は目に見えて焦り始めた。やはり、スリ自体はここでは立派な職業とは言え、脛にある傷は、それだけではないようだ。あまり注目されて、落ち着いていられる立場ではないようだ。レカは少し緊張を緩める。これだけのギャラリーの前で、ただの一般人ならいざ知らず、まさか貴族の少年を刺したとあっては、彼は相当に難しい立場に置かれるだろう。コトの成り行きによっては、盗賊組合が貴族に大目玉をくらい、自分のせいで大規模なガサ入れがあるかもしれない。
(なるほどねえ)
 レカは感心した。そう考えると、テルの大袈裟な仕草と、この貧民街には到底似つかわしくない、上等なウールの外套も、どんな武器より効果的に見えてきた。スリの男はもう、詰んでいるようなものだった。だが……。
(そこで引き下がれねえのがチンケな意地の小悪党ってもんよ)
 レカが思った通り、大柄な男の手には、もうすでに煌めくナイフが握られていた。どよめくギャラリー。流石に近寄る足を止めるテル。スリの男はうめくように唸り声を上げた。
「て、てめえ……貴族だかなんだか知らねえが、あんまり調子こくなよ……?」
 レカは動かなかった。男のスタンスも踏み込みも構えも、到底ナイフで人を刺すことを意図したものではない。明確な脅しだった。テルの様子を見る。後ろ姿からは、怖気付いているようには見えないが、これからどうするかのプランもよくわからない。レカとしては、スリの男の精神状態にだけ目を向ければいい。男自身の悪党としてのチンケなプライドと、「貴族を刺したら大変なことになる」という予想の、危ういバランスが崩れ、ナイフを握ってテルに突進する事態になったら、動けば良いだけだった。
(さて、こっからどうすんだ? テル坊)
 レカとしても大変興味があった。昔は、よく自分に殴られて泣いていた弱虫坊やが、どう成長しているのか……。ギャラリーと共に、「この後、この貴族の少年はどうするのか?」という熱気に飲まれることにした。
 テルが動く。
「ちかよるんじゃねー!」
 男がうめく。あまりに予想外にこんなハードな事態になってしまって、どうしたらいいかわからないようである。テルは先ほどよりもゆっくりと、男に近づいていく。
 スッ、と、取り出されたものがあった。
(んん?)
 テルが外套から出した手には、何かが握られている。棒? 武器ではない。レカはそう直感した。
(なっ、あれって……まさか…)
 それは、貴族の婦人が持っているような、扇であった。竹と象牙と、何か魔界の生き物の体の一番いいところを、骨組みとしてこれでもかというくらい贅沢に使った逸品。およそ、若いとは言え、男の貴族が持っているとは思えないような。テルはそれを、うやうやしくバッと、広げて見せた。骨組みに貼られた絹には、とある紋章が…… 。
 途端、どわっはっはっは! と、周りを取り囲んでいた人々が大笑いの声を上げた。レカは呆気に取られて、今までのシリアスさが嘘であるかのように和気藹々とした雰囲気に一気に変貌した現場を、まったくの傍観者として見ていた。気づくと、先ほどスリをしていた男ですら、テルに笑いかけ、握手をしている。どんな魔法か、あるいはカリスマなのか、レカにはまったく見当もつかなかったが、とにかくテルはこの場を収めたらしい。扇を掲げて、踊り子のように踊って見せている。それを見て、明らかに拳のおろしどころがわからず、ナイフをしまうタイミングすら失っていたスリの男は、涙を流して大笑い。ギャラリーも、すっかり祭りかというぐらい人が集い、見知らぬ貴族の坊主にもっとやれ、とか、いいぞいいぞ、とか、囃し立てている。
 束の間の奇跡のような平和は、貧民街を巡回する冒険者パーティが、何事かと咎め立てて、終わった。反乱のための周回だと思われないように、貧民も、商会の遣いも、獣人も、休暇を持て余していた傭兵も、みんなバラバラと散っていく。テルとレカはそれに紛れ、面倒を避けるためにそそくさと回り道して救貧院に向かった。

*****

「オメー、あれ、他の都市からの輸入モノの扇だろ? どうしてそんなもの持ち歩いてんだよ」
 人通りが少なくなってきた。貧民街でも寂れた方、そろそろ目的地に着くかという頃、レカがテルに尋ねた。テルは上機嫌で答えた。
「母さんの形見だよ。言ってなかったっけ?」
「ふーん」
 それを持ち歩いてるのか、すごいな、と言いたかったが、レカとしては面白くない気持ちの方が強い。ブスッとしていると、テルがぼそっと言った。
「ねえ、もっと肩の力抜けよレカ」
 レカはイラついた様子を隠さず、
「ああ? あーしはテキトーにやってるだろーが」
 とトゲトゲした声色で返す。数拍、間があった。レカはテルを振り返る。立ち止まっているテルと目が合った。レカはなんとなくドキッとしてしまう。幼馴染みでも、改めて心の中を見定めるような瞳を向けられると、どうしていいかわからない。レカはむっつりした様子でテルにずいと身体を寄せ、その顔を見下ろす。レカの方が背が高いが、来年はテルが抜いているかもしれない。18歳と17歳の、十年来の、擬似的な姉弟のような幼馴染み関係。ずっと姉さん肌のレカが主導権を握ってきたが、だんだんとテルの方が堂々としてきた。それがまたレカの心をかき乱した。テルはレカの顔がおでこ同士をぶっつけても不思議ではない距離にあっても、動じない。むしろ彼女の赤い瞳をじっと見据えながら、
「そうは見えないけどね」
 と言った。レカは動きもしなければ喋りもしない。そうやって威圧すればテルがビビると思っている。ビビらせてどうなるものでもないが……。テルがレカの両肩を優しく掴んで、適度な距離に押しやる。
「あれが僕なりの解決の仕方さ。この街では誰もがイライラしてるんだよ。あんまりシリアスになっちゃだめさ」
 レカは肩を動かしてテルの手を振り払った。武術の心得のあるレカには、肩の捻りだけでテルを投げ飛ばすことだって可能なのだが、これまでの関係の中で、そういう風にフィジカルでマウントを取ってきたやり方が、今はすごくカッコ悪く思えた。
(ったく、かわいくねー)
 レカはこの年下の幼馴染に、完全な敗北感を感じていた。そりゃあ、暗殺者として訓練を受け、父タティオンの特別な血の恩恵すら受ける自分は、力ではテルを圧倒できる。そしてテルがさっきの事態を、貴族であることだけを利用して、あのスリの男に合理的取引を持ちかけて事態を収集させようとしていたら、それでも何も感じなかっただろう。ハイハイ貴族様のやり方はそんな感じねえ、と、小馬鹿にすることができたからである。しかしこれは……。
(忌々しい!!)
 内心そう叫んで、目的地へとズンズン歩いていく。テルは無言で追いかける。格下だと思い込んでいた少年が、身分も使い、自分の才覚も使い、機転も効かせてここまでうまいことやってしまったら、レカとしては立つ瀬がない気持ちだった。ジェラシーをあらわにするしかなかった。
 レカが前を行き、テルが追いかける。無言の二人。すれ違う人もほぼいなくなり、人の住んでいる廃墟の街並みも、人の住んでいない廃墟の街並みに変わりつつある。目指す救貧院は、中央の大時計塔へ向け、なだらかな勾配を持つこの円形の街の、最下層。貧民街の一番外側にあった。そのさらに外側は、外部からやってきた流れ者たちが作った、もっと賑やかで少しは治安のいい、新市街だ。今二人が歩っているのは、最も古く、もっとも見捨てられた、そんな地区だった。
「ハァ……」
 ついにレカがため息をついた。テルはちょっとビクッとする。今までの擬似姉弟関係においては、絶対に何か八つ当たりされる時の仕草だった。テルは身構えるが、意外にもレカは、別の話題を持ち出すようだった。レカは肩越しに親指でクイっと後方を指した。
「ところでアレ、どーする?」
 テルは後ろを振り返る。早朝の眩しい日光も、大時計塔の影になってまったく届かないこの区画で、なかなかレカが何を指しているかわからない。しかしやがて、片付けられないままの瓦礫の影に、茶色の髪をした男の子が隠れて、じーっとこっちを見ているのに気づいた。
「あ! あの子!」
 スリをしていた、いや、させられていた子だった。
「ついてきちゃったんだ! おーい!」
 テルは駆け寄っていく。高価な外套と濃い金髪を振り乱して、脇目も降らずに。レカはため息をついた。なんだか、ジェラシーも落ち着いた。テルの天真爛漫な、人の良さ。なんだかんだ、レカは幼馴染みのその性質に……。
「大丈夫かい? キミ。さっき置いていってしまって、気になっていたんだ。冒険者たちに捕まったら、一日事情聴取コースだったからね、ごめんよ」
 テルがひざまづき、茶髪の男の子の体のホコリを払い、男の子にしきりに優しい言葉を投げかけている。外套の裾が地面に擦れ、深い緑のウールが白っぽく汚れていく。レカはそれを見て、全てを許せる気持ちになった。勝手にイラついていただけなのだが。
(ん? しっかしこのガキ……)
 子供の背丈は十歳ほど。決して、幼すぎるとまでは言えない。貧民街では、厨房で灰に塗れたり、パンを一日中こねたりして、働いている姿をよく見る年齢だ。行ったことはないが、工業区画では、もっとひどい奴隷労働をさせられているという話も聞いたことはある。歳上にこれだけ話しかけられていて、まったく受け答えもできずに、じーっと心配そうにしてくれるテルを見ているだけというのも、解せなかった。
「なあ、テル。このガキ、多分耳が……」
 テルはしゃがんだまま、驚いてレカを振り返った。無垢なまでに純粋な驚きの表情で、レカは内心苦笑する。
「え、ほんと……レカ?」
 レカはその子供に気づかれないように、ブーツで瓦礫の破片をふんで、器用に勢いよく弾き飛ばし、元々割れている廃墟のガラス窓にぶち当てた。ガッシャーン、と、テルもビクッとするほどの音が響いたが、少年は無反応だった。通常ならありえない反応だった。
「ああ、そんな……」
 テルは茶髪の男の子を抱きしめる。懇願するような哀れみの声は,すでに涙色に濡れていて……。レカは一瞬、胸が詰まったが、すぐに気を取りなおす。
「ッケ! なに泣いてんだよ、オメー……! このくらい貧民街じゃ普通だ! ウチのギルドが管理してる娼館の地区に行こうか……? もっと悲惨なもんが見られるぜ」
 テルは少年を抱きしめて泣き続けている。うっ、うっ、と、幼い頃レカに殴られて泣いたよりもずっと哀れだった。レカはハアとため息をついて薄い色の金髪をかきむしった。ポニーテールがイラつきを表すように揺れた。
「だー! もう……テル。オメーはこのクソみたいな街で誰よりも優しい。機転も効く。地位も約束されてる。だからヨォ……涙をあんまり今のうちから流してると、後の人生にたりなくなるんじゃねーの?」
「だってぇ……」
 レカは幼馴染みの擬似的な姉として、テルに厳しい言葉をかけなければならないと思った。
「ったく! 器用な芸当でトラブルを収めたかと思えば、ガキ一匹に情けなくメソメソしやがって!」
 レカはテルから耳の聞こえない茶髪の子を引き離すと、その手を取った。背の高さはギリギリレカの手が届くくらいだった。
「ちょうどよかった。孤児院へ連れていくぞ。リリアも歓迎してくれるはずだ」
 テルが高そうなビロードの袖で涙を拭きながら、ハハっと笑った。
「そうだね、それが一番だ」
 レカとテル、二人で男の子を挟んで、両手を握って、歌を歌いながら孤児院併設の救貧院へ向かった。レカはバカみたいな調子を外した歌だったが、テルのお上品な教育を受けてそうな歌と、なぜかリズムだけは噛み合っていて、男の子の手をぶらんぶらんと、同じタイミングで揺らしていた。
 レカは思いもよらず、幸福を感じていた。男の子の手を通して、テルの手をぎゅっと握りしめている気がした。なにか、こう、レカの人生に足りなかった、とても暖かな感情を意識した。
 始業を知らせる、大時計塔の鐘の音がゴーン、ゴーンと鳴る頃、三人は救貧院に着いた。

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