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【小説】マリオネットとスティレット【第五話】

 夕方になった。大時計塔の影の中に一日中篭ってなければならないこの救貧院だが、夕闇の不気味さと言ったらない。むしろ夜の方がまだ安心できるのではないかと言ったくらいだ。レカとテルとリリアは、なんとなく話すこともないまま、家路についていた。レカが前をふらふら歩いて、敷石がゴツゴツ盛り上がってるのを、バカみたいな踏みつける力で、少しだけ戻したりしている。その後ろを、談笑しながらテルとレカが歩く。レカは耳だけで後ろの様子を把握しながら、気ままに歩いていた。
(ケッ)
 そして内心毒づく。
(だよな、そうだよなあ)
 レカは、テルの帰るべき、貴族の住む最上層の街区の、アロエイシス家の有り様を思い返す。あまり華美に構えてはいないが、貴族の屋敷の最低ラインからは大きく上を行く、名実ともにこの街の支配者の一人である者の家。そして、リリアの帰るべき、ギルドの本部の塔が聳え立つ、最上層の手前の街区も心に描く。暗殺ギルドの屋敷は、他のギルドの長の屋敷とは違って、そこまで大きくはない。暗殺ギルドが一番後進であるせいもあるだろう。だが、レカの周りの、一夜の宿にも困って路上で寝ざるを得ず、凍死したり、物取りに寝たまま息の根を止められる底辺労働者たちを思うと、なんだか情けなくなってくる。彼女は、その微妙な立場ゆえ、街の中位層以上の、屋敷が並ぶ街区に、住むことはできなかった。
「レカ姉!」
 テルが後ろから声をかける。レカはそういう自己に潜りすぎるようなことばかり考えていたせいか、ついうっかり、後ろの二人を置き去りにしてしまったようだ。
「レカ姉は今日どこか……宿は決まってるの?」
 レカは暗く寂しい、廃墟ばかりの街の最下層の通りで、虚ろな目で二人を振り返った。テルの言葉。それは気遣いだったが、「ウチに来い」とも言えない以上、レカの情けなさを逆撫でする結果にしかならない。
「おー、あーしはどこででも寝られるから大丈夫だぜ。いざとなったら娼館の一室でも借りて寝るさ」
 テルもリリアも、レカの不機嫌さに気づいてはいたが、なかなかこういう時にどうすることもできないことも知っていた。レカはなんだか気まずくなって、廃墟の屋根に向けて地面を蹴り、一息で登った。人間離れした芸当だったが、テルもリリアも見慣れているため、今更驚かない。レカが上から声を張った。
「おーい! テル坊! リリア姫をちゃんと上までエスコートしろよ! 貴族に手を出そうとするバカは流石に夕闇の貧民街にもいねーだろーが、うちの姫様を攫われでもしたら承知しねーぞ!」
 テルはあまり声を張るのが得意ではないが、それでもレカに向けて声を飛ばそうと、両手で筒を作って、それを口のところにトランペットみたいに当てて、精一杯声を出した。
「わかったー! レカ姉も……気をつけてね!」
 レカはそれを聞き届けると、今いる屋根を蹴って、貧民街の方へ向かおうとする。リリアの、意外すぎるほどに大きな声がそれを押し留めた。
「レカさま!!」
 テルも相当驚いたようで、少しのけぞったりしている。レカも驚いて、暗殺者としての視力をフル活用して、薄暗いのを見通して遠くのリリアの表情を伺った。とにかく必死で叫んでいる。
「私たち!! まだまだ子供だから!! できること少ないけど!! それでもずーっと!! 永遠に!! レカさまの味方だからね!!」
 レカはそれにテキトーに「おー」とか返事しようかと思ったが、次の予想外な一言がそれを遮った。
「レカさまとテルさんが幸せになれますようにー!!」
 レカもテルもあわてた。レカはテルがリリアに対して何か弁明しようとしているのを見て、おかしくて照れが吹っ飛んでしまった。
「はっはは」
 なんとなく微妙で気まずいものになりそうだった別れが、一気に塗り替得られてしまった。
「ったく、敵わねーなあ、リリアには」
 レカはそう呟くと、貧民街へ向けて、屋根伝いに消えていった。

*****

 そういう青春らしい感傷があっても、仕事は仕事だった。夜になるまでに、貧民街の獣人の屋台で食事を済ませると、レカはまた最下層に向かった。無論目的地は救貧院で、ベルゼ司祭の容疑の、裏を取らなければならない。しかし……。
(そんなもんなくても多分、あの爺さん、死ぬの決定なんだろうな)
 レカはその確信を強くしていた。なにも知らない暗殺ギルドの令嬢リリアに近づく、政治的宗教的にヤバすぎる爺さん。あまり政治を気にしないレカでも、ヤバそうなのは明らかにわかった。しかし、それに正義があるのだろうか?

1、罪なきものを殺すなかれ。
2、殺しの依頼は十分に吟味し、正義を明らかにせよ。
3、依頼者の秘密を厳守せよ。
4、暗殺依頼者は数年間保護され、復讐から守られることを約束せよ。

 暗殺ギルドの鉄則である。どの暗殺者も諳んじることができるこの誓いだが、非公式な暗殺者であるレカは、この縛りの外にいる。
(おとーさんの判断は、間違っていない)
 その信仰だけを頼りに、公式の暗殺者ができない仕事ばかりをやってきたレカだが……客観的には、タティオンに血のつながりと愛を人質に、いいように使われているのではないか? ……というふうに見えるという、その自覚はあった。
「愛は返礼としてしか存在しない……か」
 なぜか、聖典の文句を思い出した。昼間リリアが朗誦するのを聞いたからだろうか。さっきの、リリアが大声で届けてくれた、甘酸っぱい青春の叫びも、レカの胸の内のモヤモヤを、消し去ってはくれなかった。
 そんなことを考えながら貧民街の屋根を飛び回り、最下層へ向かう。もうすでに闇夜は深まり、人々は魔光灯を消して、寝静まる頃だ。もっとも、貧民街ですら夜の便利な光は普及しておらず、魔力のパワーラインを勝手に引いて使っている現状、廃墟ばかりの最下層に魔光灯はないのだが。レカは、ベルゼ司祭が、工場ではなく鍛冶屋で作ってもらった錬鉄製の燭台に、ゆらゆらする蝋燭の炎を持って歩いている様子を思い浮かべた。孤児院の子供達一人一人のベッドを訪れておやすみを言いながら……。
(そんな人をこれから殺すのか)
 レカは久々に、仕事の前に憂鬱を感じた。そろそろ救貧院だ。レカは教会だった建物の屋根に取りついて、その上に上がった。
「あぁ? おやおやこれはこれは」
 意外な顔がそこにいた。
「レカ。少し、予想より遅かったな。待ちくたびれたぞ」
 スタヴロ・ヴォルフィトゥール。暗殺ギルドのボス、タティオンの長男にして、暗殺ギルドの後継者。レカが見慣れた、タティオンの執務室で着ているような、貴族を真似た黒い正装のコートではなく、皮の肩当てと体にフィットするスーツ、ギルドの暗殺者の標準的な装備を身につけている。大きな体を屈ませて、上がってきたレカを見た。
「お前……標準装備は身につけていないのか。私服で仕事に臨むとは見上げたものだ」
 レカはケッと舌を鳴らして、
「今まであんたの妹を護衛するっていうプライベートなお仕事してたんでね。いやー、スタヴロよぉ、お前がいるとは思わなかったぜ。最初お月さんが地上に落っこっちまったのかと思ったぜ。まさかお前のハゲ頭だったとは」
 と子供みたいな皮肉を言った。スタヴロは取り合わない。
「その件だが、今し方使いがあった。リリアは無事に家に帰り着いたよ。あの腹芸ばかり得意で、ケンカの腕はからっきしな痩せっぽちの貴族の坊やでは、護衛はあまりに頼りなさすぎるからな。父上がつけた影の護衛がいなければ、お前がエスコートすべきだった」
 正論だった。レカとて、テルを頼りに送り出したわけではない。リリアの「見守り」の上級暗殺者たちが、リリアを密かに追って、貧民街を抜けてギルドの街区に入るまで、ずーっと護衛してくれることを当然期待したのだ。レカは、誰からも信頼されていない出来の悪い少年の顔を思い返して、ため息をついた。
「で? ベルゼ司祭の方は?」
 スタヴロは頷いた。スタヴロの調べでは、ベルゼ司祭は完全に黒。暗殺ギルドが提供した資金が、中抜きされ、拝魔王教の活動資金へと流用されているらしい。
「なるほどねえ」
 レカは安堵した。気が乗らない殺しだった。しかし今回は、流石にどうしようもない。ギルドが弱者救済のために用意した金を、やばい団体に回しているなんて、擁護しようったってできなかった。スタヴロはレカが目に見えてリラックスするのをじっと見ていた。
「しっかし驚いたぜぇ」
 リラックスのせいか、レカの軽口がよく回った。
「あんたのガタイで屋根の上に登れるなんて。屋根が抜けて気づかれたらどーすんだよ、おい」
 レカはスタヴロの、革の肩当てすら突き破ってはち切れんばかりの肩の筋肉をこづいた。並みの人間の鍛えではなかった。スタヴロは鼻を鳴らして言い返す。
「あまり舐めるなよ小娘。俺は一線は退いたとはいえ、まだマスタークラスの腕は維持しているつもりだ」
 レカはどーだか、とでも言うように、肩をすくめる。
「しかしまあ、おとーさんも過保護だねえ。帰り道だけならいざ知らず、娘のボランティアの最中も手下に監視させるたぁなあ」
 スタヴロは眉を寄せて、ぐいっとあげた。額からスキンヘッドにかけて、シワがよる。
「ハッ。殺しても死なないお前と違って、妹は舶来品の陶磁器のティーカップより高価で壊れやすい。暗殺ギルドのボスの娘だぞ? わかっているのか?」
 レカはあたりを見回す。もうスタヴロの部下は、透明化しているものも含めて、一人も見当たらない。屋根の下の死角の様子も、その場に居ながらにして、彼女なりに鋭敏な聴覚でサッと走査して無人を確認すると、おどけた様子で自分を指差して言った。
「あのー、あーしも一応さ……ボスの娘……」
 スタヴロは呆れて怒ったような鋭い目線をレカに向ける。
「お前……政治的に微妙な存在の庶子のお前を、追放や殺しもせずに父上がそれなりに目をかけて側仕えさせてやってる身分で、あまり調子に乗るなよ」
 レカはそんなスタヴロの態度は慣れっこでいるから、いちいち怯まない。
「へえへえ。そういうイキリは組み手であーしに勝ってからにしてくれや、筋肉バカ」
 スタヴロはもう相手にしないことにしたらしい。
「さあ、口を動かす暇があったら、行ってこい。中抜きの証拠の書類を盗って来るか、ベルゼを殺してこい。盗賊のようにやるか、暗殺者らしくするか、選ばせてやる。だが老人一人殺すんだぞ? 魔法すら使えるかもしれない冒険者の暗殺とは違って、簡単な仕事じゃないか。俺が行ってもいいが……。父上は……。レカ。お前の手ですることをご所望だ」
 レカは少し真剣な口調になる。
「……ちょっと金に手をつけただけでそれか。私利私欲でネコババするたぬきジジイには見えなかったが……。暗殺ギルドらしくねえな。ちょっと脅して改心させるのが今までのやり方だったはずだが?」
 レカは赤い瞳に少しだけ殺気を宿してスタヴロを軽く睨んだ。スタヴロは、気圧されないまでも、感情は動いてしまう。
(どうしてこんな正妻の子ですらない品のない小娘が、父と同じ紅玉のような瞳を…… )
 スタヴロは、自分がタティオンの魔族の血の才能を、ほとんど受け継げていないことは、ずっと気にしていた。気にしていたが、血の滲むような鍛錬でそれを補い、立派な自尊心に鍛え上げて、見事、実力だけで上級暗殺者として活躍し、父タティオンからの信頼も勝ち取っていた。
(それなのにこの小娘は才能だけで……)
 レカのほんのちょっとの反抗の視線に、スタヴロはわりかし本気の憎しみの視線をぶつける。レカは怯まない。
「なあ、お兄ちゃんよお。大方、リリアに邪教の思想を吹き込んでるのがやべーって話だろ? あの説法聞いてれば誰でもやべーって思うよなあ。それもあって、ベルゼ司祭を消す。そういうことだよな」
 スタヴロは感情を抑えるためのアンガーマネジメントとして、スウッと息を吸って吐くと、負の感情を消して、立ち上がった。
「裏まで読めているならいい」
 そしてレカの肩に手をポンと軽く置いて、
「俺とて鬼ではない。お前を……リリアの五十分の一くらいには大事に思っているぞ」
 と言った。レカは流石に吹き出す。
「すっくねえなあ……まあリリアはあーしの五十倍大事にしてほしいけどよお」
 レカの肩に置かれた手に、少しだけ力が入る。嫌な力の入り方ではなかった。身体的な才能の突出したレカには、その触れ方の意味がわかった。
(これは……同情? いや、もっと純粋な……慈愛? この嫉妬と暴虐の筋肉ダルマが、あーしに対して?)
 レカは困惑する。そんなレカに、目を合わせもせず、スタヴロはこう言った。
「……レカ。お前、父上からの愛情に……おそらく俺の予想以上に依存しているようだが、くれぐれもこれだけは覚えておけ。どのギルドのボスでも、正妻の子でないものを大事にすることは……ありえないのが当たり前だ。そしてそれは内面的な情愛の面でも同じだ。お前、リリアの五十分の一でも愛されてると思ったら、大間違いだぞ」 
 今度は、感情を揺さぶられるのはレカだった。スタヴロの思いがけない言葉に、自分でも予想しなかったくらい血がブワッと沸騰して、ブチ切れた。
「テメエっ!」
 今日仕事をする対象が寝ているかもしれない場所の上で、少し音を立ててしまうくらいには冷静さを失った。レカは神速で立ち上がると、スタヴロの服の襟を掴んで引き寄せた。体格差が嘘のように、スタヴロは為すすべなく、レカの方に引き寄せられる。
「てめえ、クソハゲダルマが! おめえ、もういっぺん言ってみろ……っ! なんだって? あぁ? おとーさんの愛情が……」
 ……嘘だとでも言うのか。
 唇が震えた。息が詰まった。レカはその言葉を実際に口に出してみることはできなかった。なぜならそれは、レカがこの世で一番恐れていることだったから。スタヴロが、レカの握力が一瞬緩んだ隙をついて、手首を捻り上げる。技が決まる前に、レカは人外の速度と力で回避することもできたが、敢えて何もしなかった。手首固めの立ち関節技が成立し、関節を極められると、流石のレカも逃げられない。
「は、離せよ!」
「レカ、少しは血のつながった兄として言っておく」
 スタヴロは、レカの極めた手首を気遣いながら、言葉を続ける。
「リリアへの五十分の一程度の愛情に由来する警告をさせてもらおう。……それでもなかなか俺にしては人を気にかけている方だから、そこは安心して欲しいものだが」
 スタヴロの強い目線が、だんだんと押さえ込まれ、膝が屈しつつあるレカの顔に降り注ぐ。嘘は言っていないと感じたレカは、手首の痛みに耐え、誠実に視線をぶつけ合わせ続ける。スタヴロの言葉が続く。
「レカよ。しっぽをふるなら、あのテルーラインとかいう小僧にやれ。父は……あと十年は大丈夫かもしれないが、その先は本当にただの老人だ。魔族の血の超人的身体能力も、エルフのような長命をくれるわけでもない。レカ。父がいなくなった後、お前はどうするのだ?」
 レカの真紅の瞳が泳ぐ。十年後だって? レカは考えもしてみなかったことを言われて、心底困惑を覚えた。彼女はまだ18歳だが、10年後も父の指示のもと、暗殺者を続けているのだろうか? 
 スタヴロが手首を離してくれた。レカは少し離れて、手首を摩って確認し、仕事に支障がないことを確かめる。反抗的な目でスタブロを見る。背が高い、父タティオンよりも大柄な体が、月を背景に見下ろしてきた。
「愛されることを諦めろ、レカ。そして冷静に自分の置かれた状況を思え。なにも知らない部外者から見れば……お前は我々暗殺ギルドの正式なメンバーですらない。事情を知る俺から見ても、お前は血が繋がっているのをいいことに、ボスにいいように使われる、便利な暗殺短剣(スティレット)でしかない」
 レカは歯軋りした。血縁のある、しかし普通の親族関係ではないこの大男を睨みつける。レカはスタヴロの言葉に真正面から答えられない。少しの愛情と大きな都合、そして否定しようのない正論が混ざった言葉。それが、いつもは軽んじているが、大事なところでは敵いそうもない、半分しか血のつながらない兄から言われると、どうにも反抗できないのだ。スタヴロはなおも言葉を続ける。
「スティレットでいることを続けてもいいんだぞ? だが、誰の持ち物であるかくらいは、きちんと自分自身の意思で決めてほしいものだ。父上も、いつまでもお前を便利に使うわけでもあるまい。俺が父上の地位を名実ともに継いだら、お前を魔法科学ギルドへの贈り物にしてやろう……」
 レカは口を歪めて、ハァ?? と素っ頓狂な声を上げた。スタヴロは冷静に、直立不動のまま、重要な法的宣言でも伝えるように言った。
「アロエイシス家のテルーライン専用の暗殺者だ。あの将来有望な若者の命令以外、聞く必要がなくなる。どうだ? 幸せな未来だろう?」
 レカは今まで一切考えたこともない未来を今初めて聞かされて、受け止めることすらできなかった。ポカンとするしかなかった。しかし……。ただ一つ、どれをとっても自分にとって最大限都合よく未来が描かれているのに、一つだけ、強く感じることがあった。強烈な思いだった。「違う!」という魂の叫びだけが、熱く感じられた。
「……いや、知らねーし」
 しかし、今し方初めて直面した「現実的に到達可能な自分の幸せの最大値」と、それに対する自分の訳のわからない嫌悪感を、成人年齢ジャストの小娘が、いきなり言語化して処理することなどできるわけもない。レカはそれ以上、何も言えないでいた。スタヴロは仕方ないとでもいいたげに、少し溜め息を吐いた。
「まあいい。そういうことも考えられるというだけのことだ。我が暗殺ギルドの誇る、父タティオンの次に鋭い、最高品質のスティレットよ。俺が俗物でなくてよかったな。たかが、まだまだなにも知らない小娘でしかないお前への嫉妬に……我を忘れていじめるような大人気ない男じゃなくて」
「ッケ」
 いつもの態度からすれば信じられないくらい素直で誠実な、半分しか血が繋がらない、歳の離れた兄の言葉。少し口が悪く、そして厳しくても、気遣いを感じさせる言葉。レカは生まれて初めて、思ってもみなかった方面から無償の気遣いを向けられるという……こそばゆい幸せを感じていた。だが……。それに対する拒否感がどんどん大きくなってきて、レカは自分で自分がわからなくなっていた。
 その様子を見て、スタヴロは少しだけ口角を上げた。彼にとっては、レカも可愛い妹ではある。目に入れても痛くないくらい可愛いリリアと比べると、五十倍の違いがあるというだけで。
「少しはお前の将来くらい、考えてやれているということだ。すぐに答えを出す必要はない。この仕事が終わったら、適当なタイミングで、父上と話すといい。それとなく、このプランを伝えたということは話しておく」
 そう言うと、スタヴロは音もなく救貧院の屋根から降りて行った。残されたレカは、空を見上げて、月を見た。この街の象徴である大時計塔の尖塔に突き刺されているような位置に浮かんでいる、死んだように青ざめた月を。肺に夜の冷たい空気を目一杯に取り込み、タティオンの教え通りの、細く長く、そして気取られづらい息にして吐き出す。赤い瞳が、ゆっくり瞼に覆われ、そして開いた。もう、動揺や困惑の色は一切ない。研ぎ澄まされた、スティレットの静かな煌めきだけがあった。
「ったく。案外……愛されキャラなのかにゃあ……あーし」

*****

 大体、内部構造の把握は済んでいた。レカは屋根から、ベルゼ司祭のものと当たりをつけていた部屋に入る。窓は簡素で、布の覆いがあっただけだから、窓ガラス付きの富裕層の街区の建物のように、音や痕跡に気を遣って苦労することはない。屋根から落下するエネルギーを身体を捻って横方向に変換し、窓枠に触れることなくするりと潜り抜ける。
 もうすでに就寝するはずの時間を過ぎていたが、すでに屋根の上にいる時から、レカの感覚では、部屋の風の動きや温度は、無人であることを示していた。その証拠に、部屋の中のどこからも寝息は聞こえなかった。
(不在……こんな時間に?)
 レカは訝しんだが、寝台の毛布に手をやり、その温度を確認する。すぐさっきまでここに居たのだ。
(便所か……?)
 レカは部屋に隠れ潜み、待ち受けることにする。どのような方法で殺すかは、一任されていた。スタヴロが言っていたことには、暗殺ギルドの仕業に見えなければ、なんでもいいそうだ。レカは、少女の可憐な手に見えなくもないが、少し注意深く見れば、鍛え抜かれていることがわかる指に力を込める。本気で突けば、カラコール騎兵の胸甲すら貫手で貫いて、人体をフォークがケーキを貫くように難なく破壊するだろう。
 その時、石積みを漆喰で固めた廊下に、足音が響いた。まだ遠い。だが近づいてきているのはわかった。ベルゼ司祭か? しかし、なんだか足音が多い。レカは警戒し、咄嗟に身を翻して窓の外へ飛び出し、布の隙間を通り抜け、石の窓枠に指を引っ掛けた。指一本でも、レカなら一晩中だってぶら下がっていられる。レカは三階ほどの高さの壁面にへばりついて、誰がやってきたか様子を見ることにする。足音から判断するに、歩くのに困難を感じている老人と……夜中にバタバタと大きな音を立ててしまうことに無頓着な子供。明らかに、ベルゼ司祭とケンだった。
(う……まさか……)
 右手の指一本で窓の縁にぶら下がりながら、もう片方の手で口を覆う。レカは一つの、おぞましい可能性に思い至ったのだ。レカはケンのことを思い返す。美しいウェーブした茶髪、小さな体、そして、自分の被害を訴えることもできない、その障害。……老人の、鬱屈した欲望の吐け口。
 レカは迷った。ケンを助けることと、暗殺ギルドの任務を優先することと、一瞬、頭の中の天秤に乗せる。しかし、天秤はすぐに雲散霧消してしまう。どうあっても、任務の方が優先だった。第一、どうやってもベルゼ司祭を排除するのを、ケンに見られてしまう。いや、それでもいいか? どうせ話せないのだし……。 レカは流石にその思考を頭を振って追い出す。ケンにこれ以上トラウマを与えるつもりか!? 流石にレカも、こういう汚い仕事をしているからこそ、清廉であろうとした。レカは音のない深呼吸、腹腔でも胸骨でもなく、背部を緩く使った隠密の呼吸を極限まで静かに行う。タティオンからの教えを実行したのだ。心が静まっていく。
(落ち着け落ち着けレカちゃんヨォ、あーしは今まで失敗なんかしなかっただろ?)
 冷静に、冷徹に。暗殺仕事の現場でまで、あれこれ考えてはいけない。これも、タティオンの教えだった。
「さあ、ここで一緒に寝るとしよう」
 ベルゼ司祭が、ゴソゴソやって、粗末な木組みのベッドがギシギシ言った。レカの想像からすると、いやらしくも生々しい音だったが……。しかし、もう何も聞こえなかった。寝息すらも。ケンもベルゼ司祭もまだ起きていて、しかし黙っていて、規則的な呼吸が、窓を挟んで外にいるレカの耳に届いている。
「ケンや」
 ベルゼ司祭の言葉だった。ケンに聞こえないことなどわかっているはずだが……。
「仕方ない仕方ない。眠れなくとも、仕方ないぞ。ただ、お前が眠れないでいると……周りも困ってしまうからな……本当に、神様魔王様は罪作りなお方よ……耳が聞こえなければ、周りを音で苦しめてしまうなんて……」
 レカはなんとなくバツが悪かった。聞いてはいけないことを聞いている状況に、罪悪感があった。奇妙な罪悪感だった。これから殺す可能性が高い相手に対して。ベルゼ司祭の声は、語りかけるようでいて、独白のようでもあった。やがてそれは子守唄になり、寝息になった。寝息が二つ、聞こえ始めた。
 レカは胸が詰まった。こんな優しい老人を殺すのか……。しかし、仕事は仕事。窓枠から冷たい夜風の中へ身をさらしつつ、平和そのもののように子供を抱きしめ寝息を立てる老人へ、殺気を向ける。そんなことは、過去にだって似たようなことをしてきた。初めて父から殺しを教えられた十一歳の時から、毎年のように。
(フゥー)
 無音で細くした息を吐き出す。やはり殺すしかない。昼間の様子を思い返しても、ベルゼ司祭の説法は、中央の教会の教義から見れば異端もいいところで、邪教認定されている拝魔王教そのものだった。この街は昔から、中央王権からは独自の距離を置き、独立自治を守ることができている。そして教会の権威からも。何せ教会が異端審問を本気で行おうとしても、中央王権とこのパラクロノスの街が戦争になれば、おそらく、勝つのはこちらだろう。そういう見立てがあった。今や、傭兵ギルドは膨れ上がりすぎるほどに大きくなり、中央は、露骨にこの街に恐怖と敵意の視線を送ってきているくらいなのだ。火種が小さくても、摘み取る必要はあった。
(なんにせよ、街のためなら……)
 街のため、街のため……。レカはタティオンの顔を思い起こした。そしてその口癖も。街のため、街のため、街のため……。それからリリアの顔も。弱者救済も結構なことだが、拝魔王教の司祭と懇意にして、その説法の後に登壇して、中央の聖典を読み上げるというのは……。ちょっと危ない道に逸れつつある自覚を持って欲しかった。
(そりゃおとーさんもリリアに近づく文屋を排除したりするんじゃねーかな……知らんけど)
 その可能性に思い至って、すぐにその気づきを無かったことにする。街の平和を影から守る、正義の暗殺ギルドのボス、タティオン・ヴォルヴィトゥール。父は正しい。常に正しい。罪なき人を自分の都合で殺したりなんかしない。そうだって貧民街のストリートチルドレンですら知ってる。そうだ。そうに違いない。それは絶対に正しいんだ。なぜなら大事な大事な、ただ一人レカを愛してくれる、愛おしい愛しいおとーさんだから……。瞬時に彼女の脳内を駆け巡った自己正当化の火花は、明らかに彼女の歪みを……。
 しかし、それすらも仕事をする上では必要のない思考だった。レカは中にいる老人と幼な子の寝息が一定になり、深い睡眠に落ちるのを待った。レカは窓に引っ掛けた一本の指を大きく曲げ、その力だけで体を引き上げると、空中足を振って勢いをつけ、無音で室内にぬるりと滑り込んだ。音もなく両手両足でふわっと床に着地する。ちゃんと、ベルゼ司祭とケンは、完全に夢の世界にいた。レカは立ち上がり、ケンを抱きしめるベルゼ司祭の方へ歩み寄る。これまでどれだけの労苦に耐えてきたかわからない、枯れ木のような腕。シワがより集まってできたような細い首。来年にも、倒れて亡くなってもおかしくなかった。レカはその体の哀れさでなく、脆さを見てとった。レカは天才だ。個人個人の人体の構造、神経や血管の走り方、弱い部分、足取りはおろか指の強張り具合からも、その者の体の弱点を推察できた。ベルゼ司祭の場合は……血管の脆さがもう……。
 レカは少し目を閉じ、また開く。真っ暗な部屋に、レカの赤い瞳が怪しく光る。研ぎ澄まされた、スティレットの切先のような殺気が現れた。レカとしては、すでにプランは決まっている。レカはその、柔らかでありながら力を込めれば鋼よりも硬くなる指を、ベルゼ司祭の首に当て、頸動脈と、頚部大動脈のドクドクという鼓動を感じる。老人のそれはむしろ、普通の人間より強いくらいだ。血圧の異常を示している。レカはすーっと精神統一すると、体重と勢いを込め、一気に腰を落とした。その力は、床ではなく、全てがベルゼ司祭の首に伝わる。しかし伝わる先は、骨でも筋肉でもない。血管と、迷走神経。レカの超人的な力が全て、老人の体の脆い内部へと完全に伝わった。体内血管のあらゆる硬化した部分で出血が起き、神経が甚大な衝撃に機能不全を起こし、心臓はショックで止まる。
(眠れ……偉大で愚かな拝魔王教の司祭よ)
 その一撃は、ベッドを揺らしもしなかった。衝撃は完全に、ベルゼ司祭のボロボロになった体内を、ズタズタにしただけだった。レカは静かに、暗殺者流の呼吸法で息を吐いた。
(おとーさんみたいに、今のをもっと鋭く打てれば、全く苦しませず意識を奪えて、脳内出血だの、心停止だの、細かな死因までコントロールできるんだろうけどな。まだまだ修行が足りないぜ……)
 そんな、いまは関係ないことをつい思ってしまった油断のせいだろうか。レカは、全身の毛が泡立つような衝撃を得る。
 ケンの目が開いていて、寝転がったままレカを見つめていたのだ。
「あ……」
 レカは思わず、名うての暗殺者らしくもなく、情けない呻き声をあげてしまう。技に自信はあった。衝撃はベルゼ司祭にしか伝わらず、例え横で誰が寝ていようと、絶対に気づかないはずだった。翌朝、ケンは、自然死にしか見えないベルゼ司祭を見て、救貧院の住み込みのボランティアを呼びに階段を降りていく……。それで済んだはずだった。全てが瓦解した。
(無関係な奴に見られた!)
 レカの心臓は早鐘を鳴らした。レカのような非公式な暗殺者でも、暗殺ギルドの正式な暗殺者でも、現場を無用に目撃されてしまうことほど、本能的に恐れるものはない。レカは数秒、何もできずにケンを見下ろした。ケンの方も、黒い瞳で、じっとレカを見た。まさか、司祭が死んでいることも、レカが殺したことも、気づいていないはずだった。ベルゼ司祭の体はまだ温かく、呼吸が停止しているだけで……。
(振動か……っ!)
 レカはケンの、鋭敏な感覚を想像した。耳が聞こえないなりに、発達した他の感覚を。ケンは、レカの打った、暗殺術に一撃は感じられなくても、ベルゼ司祭の呼吸が止まったことは感じたかもしれない。わからない。わからないからこそ、レカの心に恐怖が沸き起こってきた。
(もし、あーしのことを伝えることができたとしたら……)
 ない可能性ではなかった……と言えるだろうか。わからない。だが少なくともその時、レカの心をその危惧が支配したことは確かだった。ケンの黒い瞳がレカを映す。レカの望遠鏡のような視覚は、暗い中、差し込むわずかな月明かりを反射した、自分の顔がそこに映っているのを見てしまった! それは暗殺者の間では、タブーとされることだった。仕事の最中、直前直後は、鏡や水たまりを見るべきではない。戒律ではなく、経験則としてそれがあった。しかしレカは、あまりに今までが優秀すぎて、なんの失敗も犯さなかったからか、初めてのしくじりに対し、無力だった。何重にも失敗を重ねてしまう。目撃者がでたことも、自分の精神のマネジメントも。
 その時、ケンが毛布の中から取り出すものがあった。笛だった。
「えっ……」
 レカはあまりの予想外に困惑する。レカがぼーっと見ている前で、その笛はケンの口もとに運ばれていき……音を鳴らすことはなかった。ケンがそれに息を吹き通し、音にする前に、レカの掌底がコーンとケンの額を叩き、脳を機能停止に追い込んだからだった。笛は、コトン、と、ベッドから転がり落ちた。ケンの脳は、もう少しだけ軽い力で震盪させられたら、なんとか障害が残る程度で済み、ケンは永遠の眠りにつくことはなかったかもしれない。だがレカは、目撃者が大きな音を出すかもしれないという、あまりに危険な状況で、冷静になることができなかった。ベッドの上の二人は、二体の死体となって、眠っていた。まだ夜ふけであったから、違和感はなかったが、朝になれば、誰かしら起こしにくるだろう。そして、二人の死に気づく。
 しばらくレカは呆然としていた。絶望なのか、困惑なのか、諦めなのか……歪んで空いた唇には、その全ての色が載っていた。自分は任務に失敗したのか? ノー。標的は殺した。自分は暗殺ギルドの戒律に違反したのか? これもノー。非公式な存在であるレカは、ギルドの縛りとは無関係だ。ではレカは……自分は許されるのか? ……ノー。
 ノー。
 ノー。
 ノー。
 ノー!!!
「ウッ!?」
 レカは激しい頭痛を感じ、ヤバいと思った。最近、任務を終えるといつもこうだった。だが現場でこうなったのは初めてで……もうミスをしないと自信を持てる体調でいられる間に、救貧院を離脱し、廃墟の屋根から屋根へ飛びついて、何処かへ消えていった。
 老人と少年の遺体は、とても穏やかな顔で、死んだように眠っていた……いや、眠るように死んでいた。だが、そう言い間違えるほどには、まるきりわからなかった。穏やかな死と、穏やかな眠り。そこに違いはあるのか。暗殺者であれば、知っているかもしれない。その部屋に、一切の動きがないまま夜は明け、朝のお祈りに姿を現さなかってベルゼ司祭を心配に思った周辺住民の信徒が、部屋まで上がってきた。階段を登り、廊下を歩く。その最中、もちろん心の片隅で、一抹の危惧は感じてた。高齢のベルゼ司祭のことであるから、もちろん、「そういう」可能性は考慮して、覚悟していた。
 その中年の地元女性が見たものは、おそらくは病によって、天に召されたであろう、二人の聖なる子羊が、幸せそうにベッドで寄り添っている姿だった。

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