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【小説】マリオネットとスティレット【第六話】

 夕刻の暗殺ギルド。娼館の主であることといい、暗殺業が夜に行われることといい、あまり夜にこの屋敷に近付く怖いもの知らずは少ない。なので、街の住民からの陳情は、夕刻に門戸が開かれていた。長引かないような配慮だ。誰もが、夜になる前に帰りたがった。この辺りは、治安はすこぶるいいが、暗くなると、魔光の街灯もどこか頼りない。隣り合う高級娼館の建物も、決してその売り上げに見合うだけの魔光灯の過剰な使用などせず、ひっそりと厳かに灯りを灯している。夜の暗殺ギルドの屋敷ほど、不気味なほど静かな場所もない。傭兵ギルドのように、日が沈まぬうちから毎晩、酒盛りの声が聞こえてくるなんてことは、ありえないことだった。
 タティオンの執務室もまた、薄暗くほとんど目立たない、落ち着いた照明と、夕刻の消え去りつつある陽光だけで仕事をしていた。今日は、成金同士のいざこざだった。掘り出されるアーティファクトの流用だの、魔法科学ギルドの発明だの、急に技術発展をもたらす存在が、この街には多い。中央ではいまだ金貨の両替にも困る有り様だというのに、この街だけ資本主義らしきものが成立していた。
「我々が売るのは死だけだ。暴力による脅しを買いたいなら傭兵ギルドへ行け」
 タティオンは、とりつく島もなく、今日の来訪者をあしらう。新興の実業家だったが、暗殺ギルドを、金を積めばなんでもしてくれる、汚い便利屋だと思っていたらしい。暗殺ギルドを、死を提供する畏怖すべき街の裏の支配者としてではなく、金でいくらでも誰にでも利用できる、傭兵ギルドの護衛のように思うこと。タティオンが最も嫌う連中に、よくある勘違いだった。よく肥えて、街の外の工芸品である見慣れない宝石を身につけた実業家は、何度頼んでも無理だと悟ると、タティオンの執務机の前の椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、捨て台詞を吐いて出て行こうとする。タティオンは気にしなかったが、部屋の闇に隠れていた大男は看過しなかった。
「ひいっ!?」
 スタヴロは、実業家の背後に音もなく一瞬で移動し、その肩を掴んだ。部屋の空気が一変するような冷気が、脂肪をまとった体を覆い、何も言えなくさせる。実業家は、恐る恐る振り返る。スキンヘッドの屈強な大男が微笑んでいた。
「出口はあちらです」
 金にも名誉にもならず、恩を売る価値もない、くだらぬ客が帰ったあと、タティオンは依頼を受けるのを終わらせた。まだいたはずの依頼者も、暗殺ギルドの屋敷の闇の中、いつまでも待つことを好むものは少ない。
 もはや夜の帳が完全に降り、窓の外は真っ暗だ。革製の大きな椅子に沈み込むタティオンの隣に、スタヴロが来る。父代わりに書類を整理して、今日の陳情や依頼の様子をまとめていく。タティオンは疲れきってはいるが、放つ光だけは力強い赤い目で、息子のたくましい腕が紙っぺらをめくるのをぼーっと見ていた。スタヴロが話しかける。
「最近、くだらない復讐の依頼が多いですね。依頼者に理がない」
 タティオンは肩をすくめる。
「本来は当然だ。復讐は女や酒より気持ちがいいものだ。自分の手を汚さぬ場合でもな」
 タティオンは椅子を回して、体を窓の外へ向けた。窓ガラスを挟んで、夜のひんやりした空気すら感じられる、しんとした夕べだった。この屋敷からは、大時計塔が大きく見えた。それは非人間的なまでに大きく、室内からでは窓枠のせいでてっぺんが見切れている。高さ数百メートル。未だ人類が手にしていない建築技術で作られた、古代からある超大型の魔法遺物。
 タティオンが書類をまとめるのを終えた。
「父上」
 そして改まった態度で言う。
「レカは……」
 タティオンは片手をあげてそれを制し、椅子からやおら立ち上がって、もう上がって良いと言った。タティオンが言葉を制したのは、あの鋭い感覚を持つ、暗殺者の才能溢れる娘には、聞こえてしまうだろうと思ったからだった。タティオンは窓辺に立ち、ガチャガチャと久々にその鍵を自ら開け、取手を押した。窓が開き、一気に冷たい空気が部屋に入り込んでくる。タティオンは窓枠を跨ぐこともなく、身につけた黒いシルクのウェストコートを汚すこともなく、するりと隙間から体をバルコニーへと踊りださせた。夜のバルコニーは、小さな魔光灯がほんの少し光を用意しているだけで、ほとんど真っ暗だったが、そこに浮かび上がる影があった。影は、体育座りで縮こまっていた。タティオンはさっきの動作で乱れた髪を少し撫で付け整えると、威厳のあった雰囲気を少し崩し、澄んだ空気を深く吸って、大きく吐いた。暗殺者必須の、静かな呼吸でもなんでもなく。
「終わったぞ、レカ」
 そう言うと、黙って座り込むレカの隣まで来て、少し見下ろす。普通の街娘に見えた。格好も暗殺者のそれでなく、私服だった。昼間ならいいだろうが、夜は少し寒そうな、庶民の薄手のツイードジャケットと、荒いウールのズボンを履いている。おそらくこれで、昨日から今朝にかけて、仕事をこなしたのだろうと思えた。どんな表情をしているか、顔をずっと伏せているので、まとめた白い金髪しか目に入らない。タティオンはレカと同じようにバルコニーの埃まみれの床に座り込む。シルクのトラウザーズパンツの尻が汚れるのも構わず、コートも壁にベッタリくっつけてしまった。するとレカが、
「ん……」
 拳一つ分、最愛の父の隣に座っていたその身体を、タティオンに少し寄せると、もたれかかってその身を預けた。チャーミングさを強調した声にもならない声で、喉を震わせて。タティオンは手を回してレカの頭をポンポンと叩いた後、抱き抱えるでもなく、そのまま自由にさせていた。
「……救貧院の司祭が、天に召されたそうだ。病死だそうだ」
 タティオンがぽつりと言った。レカは力なく、
「そう」
 と言った。タティオンが続ける。
「まあ、ベルゼ司祭は歳だ。こういうこともあるさ。しかし、どうしたわけかわからないが、司祭の死の床に、孤児院で保護していた耳の聞こえぬ子供も、横たわっていたらしい。二人とも、とても安らかな顔でお迎えをしてもらえたようだ」
 レカは無言でタティオンに寄りかかっていた。
「明日、葬式がある。屋敷のシャワーを使っていけ。さっぱりして、行ってくるといい」
 それを聞くや否や、レカが吹き出した。
「アハハハハハハハ!」
 タティオンは首を曲げて横のレカを見て、じっとその様子を観察する。可笑しくて笑ったのでもなければ、おかしくなって笑ったのでもなかった。感情の爆発だった。
「アハ!アハ!アハハハハ!」
 ひとしきり狂ったような笑い声を上げた後、レカはタティオンのシャツに袖を握って、消え入りそうな声で言った
「やめてよ、おとーさん。それは罪なき者を巻き込んだ、あーしへのあてつけ……?」
タティオンは腰を浮かし、体をひねっと膝をつき、レカの顔を見た。さっきまで泣いていたのかもしれない。目が赤く見えるのは、ヴォルヴィトゥールの魔族の力の発現を示す、赤い瞳のせいではあるまい。タティオンが手を伸ばす。その指がレカの肩に触れ、頬の涙の跡に触れた。
「レカよ。殺しを生業とするとは、こういうものだぞ。罪悪感に潰されてどうする。お前は完璧な仕事をした。もし雑なことをして血が流れていれば、強盗の仕業にせねばならなかったろう。そうなれば、冒険者ギルドも、下手をすれば他のギルドも、嗅ぎつけてくる」
「完璧?」
 レカが上擦った声を出した。
「完璧って言ったぁ? どこが……? どこが……」
 タティオンはレカの体を引き寄せた。押さえつけることなど不可能な、究極のバネのようなレカだったが、すんなりタティオンの腕の中に収まる。
「レカ。落ち着け。罪なき者を殺すなかれとは、このギルドに伝統的に掲げられてきた謳い文句だが……罪なき者などそもそも存在しない」
 レカはタティオンのウェストコートの肩で泣いた。その臭いの中に、安心と愛を嗅ぎ取る。
「でもケンはまだ子供じゃん……。何も知らずに……あーしを……見ていた……それを、それをあーしは……」
 レカは完全甘えモードだった。タティオンはそれを受け、
「その子はケンというのか。名前を知っていたとは……」
 と言って、レカの話を聞いた。貧民街でのスリとの間に起こったこと、リリアのケンへの愛情、ケンが笛を吹く癖があること、など。タティオンはとても真剣な顔で、膝を折ってレカの顔に自らの額を近づけ、真剣に話を聞いた。レカは、幼子が親に今日あったことを話す穏やかな幸福と同じものを感じた。今日あの子と喧嘩しちゃったんだけど、仲直りできるかな? そんなのと、同じ気持ち……。
「なるほどな」
 話通しだったレカが息も詰まるくらい話して、そして話し終わり、ふうと言って口を閉じた。タティオンが目を瞑り、まるで頭の中でゆっくり今の娘の話を転がしたような仕草を見せた後、レカへの、慈愛に満ちた優しい父親らしい目を向けて、頷いた。
「なるほどな、レカ。辛かったな」
 タティオンの赤い瞳も、こうなると温かみを感じる。レカは少しはにかんで、それから悲しそうな顔をした。
「おとーさん、あーし、今回……長く暗殺の仕事をしてきて、初めて失敗しちゃった」
 タティオンはコクリと首肯する。
「失敗は誰にでもある。キャリア七年のお前の場合、最初の一回が遅すぎたくらいだ」
 レカは少し驚いた顔で、七年? そんなに!? と大きな声を出した。タティオンは笑って、そうだぞ、もうベテランだ、と頬を緩ませた。
 レカが、仕事で何か思うことがある時は、いつもバルコニーで話をすることになっていた。仕事に大成功して窓から元気よく入ってくるか、何か気になることがあってバルコニーでいじけているか。そうやってあからさまに態度で示すことは、タティオンに対する最大の甘えで、そういう風に可愛げを示せば、なんでも優しくしてくれると、レカは知っていた。殺しの仕事さえこなしていれば、タティオンは世界で一番、優しいお父さん。……まあ、仕事を無視したら即用済みで殺される、なんてのもいくらなんでもない話だろうが、レカとしては父を試すより、父の期待に応え続ける方が、ずっと楽で楽しかった。しかしその手は、洗っても落とせない血に塗れていくのだが……努めて気にしないようにした。たまたま、今回、意識してしまった。それだけだった。だから、少し、甘える方向に踏み込んだ、こんな発言も出た。
「ねえ、おとーさん。あーし、初めてこの仕事を辞めたいと思ったかな」
 タティオンは驚いた顔を見せる。
「ほう?」
 しかし驚きはそれほどでもなかったのか、おどけたような調子。本気で驚いているのかいないのか、わからない。レカは座り倒した。ゆったりとあぐらをかいて、両手の指を合わせて、親指だけが落ち着かなげにクルクルしている。
「いっや、あー、なんつーか……。ねえ、おとーさん。おとーさんのためだとか、おとーさんがいつも言ってる、街のためだとか。そう思えば今までやれてきたことだけどさ。ちょっと今度のはダメージデカかったっつーか……」
 タティオンは白い髭の生えた顔に笑みを浮かべ、笑みを見せた。レカは照れたように俯いてバルコニーの床を見つめている。
「そうかレカ。じゃあやめるか?」
 驚いたのはレカだった。その顔が弾けたようにタティオンに向く。
「えっ」
 意外すぎる言葉だった。タティオンは優しく微笑んだまま続ける。
「レカ、やめてもやめなくても……。そうだな、しばらくの、長めの休暇でもいいぞ。年単位の」
 レカは体を起こしてタティオンに向き直った。すっかり快活な少女らしさを取り戻している。
「いいの!?」
 昨日のリリアの笑顔より少女らしい。まるでこれまでのハードでシリアスな仕事ばかりの生活で、失ったものを今取り戻したように。
 タティオンは頷く。
「いいとも」
 レカは嬉しくなってしまう。はしゃいだように、捲し立てる。
「じゃあさ! じゃあさ! あーしさ! ちょっとの間でもいいから、田舎の牧場に住みたい!」
「ほう!」
「そんでさ、そんでさ、みんなで助け合いながら穏やかに平和に暮らすんだ。血を見ることなんか一切ない。そんな生活でさ……」
 タティオンの穏やかな微笑。友達と遊びまわる孫を見るような。その笑みがレカの望みを受け止める。
「牧場なら用意できるぞ」
 レカはいよいよ感極まって、
「ほんと!? いいの!?」
 と、ほとんど叫ぶように言った。
「もちろんだとも」
 タティオンは首肯する。レカの笑顔はタティオンだって見たことないくらいで、踊りださんばかりだった。タティオンは、
「可愛い娘のためならば郊外の牧場の一つや二つ……なんなら、安全な地方の開拓地、まるまるお前のものにしていい。新しい村の開拓をやってみるか?」
 と言って、レカは思わず立ち上がる。
「嬉しい!!」
 そして膝をついているタティオンの老いたが、なお壮健な体を目一杯抱きしめる。今までの人生で、こんなに喜んだのを見せたことのないような幸せそうな様子だった。タティオンも両手をレカの背中に回して、立ち上がってレカを持ち上げる。二人で二回ほど、クルクル回った。レカの足が宙を舞った。
 ストン、と、レカがバルコニーに着地する。その顔はすでに、何かに気づいたようで、笑顔が少し曇っていた。
「あ、でもだめ。みんな、あいつら……。あーしの部下のあいつら……。あいつら、多分、殺しや売春以外では生きていけないから……テルやリリアは、連れてったって大丈夫だろうけど」
 タティオンは眉を歪ませて見せる。
「そうか。そうだな。おそらくそうだ」
 レカの全身から元気が抜け、表情がみるみる沈んでいく。
「そうだよね……おとーさん」
 タティオンは微笑むことを崩さずに、相変わらずそれを抱きしめる。しばらく、抱きしめ合ったまま、二人は沈黙する。再び口を開いたのはレカだった。タティオンの胸板に手を添えて、そっと抱擁から抜ける。今度は、たくましい、不適な笑みのいつものレカに戻っていた。
「ねえ、おとーさん。ありがとう。気が晴れたよ」
 レカは言った。タティオンが頷く。
「そうか。ああ、例の金鎚級冒険者の件は忘れろ、スタヴロの……l
 レカは首をゆっくり横に振った。
「ねえ、おとーさん。あーしも、あーしらも、戦っても誰にも負けたりしないよ」
 タティオンはレカを肩に手を置く。そしてこう優しく語りかけた。
「勝つ必要なんかない。我々は殺すだけ……殺すことが我々のやり方だ。戦いではない。勝ち負けでもない。背後から、頭上から、ナイフを使い、毒を使い、あらゆる手で標的を死に至らしめる。それが我々のやり方だ。誇るほどの技術ではないが……お前に関してはそれ以上のものを教えているつもりだ。お前は戦ったとしても誰にも負けぬだろう。それでも、勝ちを求める必要はない。いいな? 気にするんじゃないぞ。スタヴロと今度組み手をする時は、関節技を教えてもらえ」
 レカは昨日、救貧院の屋上で、スタヴロに技をかけられたことを思い出した。つい吹き出す。
「あー、そのことまで……ハハっ」
 屈託なく笑う。タティオンは、レカの頭を撫でると、静かに語り出した。
「なあレカ。我々は、大時計塔のダンジョンに頼って生きてきた。アーティファクトと呼ばれる超常の遺物。それを掘り出すことができる、世界に轟くダンジョン都市、パラクロノス。おかげでここには重税を取っていく中央の役人もいない。比較的、というレベルだが、ワシはここうぃ世界で一番マシな街だと思っている」
「そうだね」
 とレカは言ったが、父と違い、何せこの街から出たことがないので、テキトーな返事だった。しかしタティオンは気にしない。
「うむ。だからこそ、下手にこの街は平和になってはいけない。下手にギルド間で結束を強めてはいけない。中央王権に、完全に対抗できる姿勢を整えてはいけない。陰謀。暗殺。そういう汚いやり方で、ギルド同士がドロドロと争っていなければならない。もしこの街に和平が訪れたら、その瞬間、中央王権はここを脅威なる敵と見做し、軍を送り、ひいては、この国全体を内戦の炎が焼き尽くすだろうから」
 レカはゴクリと喉を鳴らして頷いた。自分の仕事は世界の安寧へと繋がっている。その自覚ほど、仕事人間の自尊心を強固にするものはない。タティオンはレカの肩に置いた手を、スッとバルコニーから見える景色の方へと向けた。
「見たまえ。ここから見上げると、大時計塔はまったく馬鹿げた大きさじゃないか。信じられない。とてつもなく縦長の山が目の前にそびえているようだ。ここより上の区画に住む貴族どもは、下ばかり見るから、中間層の最上位である、我々ギルドの屋敷に住む人間が、一番、大時計塔を間近で見る習慣がある」
 レカも大時計塔を見上げた。ゴーン、ゴーンと、人間が決めたわけでもないタイミングで時計は鳴り、それに合わせて人間が始業と終業のルールを作った。神か、悪魔か、あるいは魔王が作った時間に、この街の人間は、勝手に十二時間労働という意味を与えた。タティオンの手がゆっくり下がって、大時計塔を下へとなぞり、その基部を指差す。周りの貴族の大邸宅も、大時計塔の側では、へばりついたミニチュアに見える。
「その基部には、魔王存在が滅ぶ時に作ったと言われる、リミナルダンジョンが広がり、冒険者ギルドがそこへと進入し、魔法の宝物を回収してくる。
 そんなことは貴族の学院か、ギルドメンバーの子弟向け初等教育でやるような内容だった。街の歴史。講義第一回目。レカは皮肉たっぷりの声色で言う。
「ッハ! それだけで出来上がった鉱山街みてえなモンなのに、なんでこうも複雑な事情ばかり絡んでくるかにゃあ。このパラクロノスの街ってやつは……ねえ、おとーさん」
 すっかりいつもの調子に戻ったレカの言葉を、タティオンは受け流す。それに正面から答えることはせずに、抱き寄せるくらいの距離でレカを見下ろし、優しくこう諭す。
「なあ、レカ。このゴミ溜めよりも腐った、悪臭満ちる街を、ワシはほんの少しだけマシなものにしようと頑張ってきた。ワシはたった一代でこの暗殺ギルドを、盗賊ギルドから分離した、傭兵ギルドなどと同等の規模にまで盛り立てる事ができた。昔は現場で皆と同じように人を殺していた。だが今ではこうして執務室に人を呼びつけ、あれこれ小言を言うばかりだ」
 レカはタティオンに縋るように、ウェストコートの胸板に両手を当てる。
「おトーさんはすごい、おとーさんはすごいよ。あーし、おとーさんのためなら、なんだってできる。この街のために働くよ」
 タティオンは、レカの髪を優しく撫でる。白金の金糸のような、美しいかみを。二人の赤い瞳が向き合う。とうに滅びたと言われる、魔族の血がもたらす赤い瞳。殺意を宿せば恐ろしく、慈愛を纏えば神秘的。そんな色だった。
「レカ。お前はワシにスティレットとして鍛え上げられた。あとは、その切先を誰に突き刺すか、だ。お前は思い悩む必要はない。おそらく、今日のような出来事は、これからのお前の暗殺者としての人生で、何度もあることだろう。その美しい鋭さで、この街の闇に風穴を開けてくれ。どこに突き刺せばいいかはワシが指し示してやる。だがワシももう歳だ。すぐにいなくなるだろう。そうしてワシがいなくなれば、あのテルーラインくんの言うことを聞きなさい」
 レカは照れて下を向いた。やはりスタヴロの言った通り、そういうことになっているらしい。何も言葉が浮かばない。タティオンはふっと笑って、レカに畳み掛けるようなことを言った。
「テルーラインくんのことは好きか?」
 レカは後頭部を掻きむしって、まとめた髪を揺らした。
「あー、その……。いや、お、幼馴染ではあるよ……な……? そういう意味でなら、好きだけど……」
 タティオンは今度は真剣な目をして、はにかんだ少女を見つめる。
「レカ。お前の年齢なら、普通は恋愛にうつつを抜かすものだ。その権利が大いにある。青春は楽しむものであって、誰かに邪魔されていいような、非行ではない。だが……お前は少々立場が特殊だ。スタヴロのいい案は昨日聞いたな? お前は最良にコトが運べば、魔法科学ギルドの特殊諜報要員になる。だがただの使い捨てのコマではない。名門アロエイシス家の次期当首に、大いに気に入られた存在としてだ。この意味がわかるな……?」
「えっと……」
 レカはため息をついて、右を見たり、下を見たり、落ち着かなげな様子でいる。頬まで垂れたホワイトゴールドの髪を忙しなくこねくり回したりしてる。タティオンは黙ってその様子を見守っている。だがレカはそれにプレッシャーを感じる。その圧力は、レカが勝手に感じているだけなのか、そうでないのか。
「あー」
 タティオンはふっと笑った。
「なあに。急がぬ。来年にでも答えを出すといいさ。お前が決められなくても、ワシらが父親のロドヴィコと話をつけてやる」
 なんだかレカは真っ赤になってしまう。白い肌がピンクに染まる。タティオンはその可愛らしい有り様を崩すのは忍びなかったが、仕事の話に入った。
「レカ。次の任務、やるというのなら、近日中に、愚連隊を招集せねばならんな。対象はすでに知っている通り、街の秩序を乱そうと反乱を企てている金槌級冒険者だ。容赦するな。今度は情けをかけなくていい」
 レカはすぐに仕事モードに入って、鋭い暗殺者の目になって、コクリと頷いた。
「お前にとってはレカ、精神的にその点では安心だが……。問題は別にある。奴らの戦闘力はかなりのものだ。奴らの装備と経験は、リミナルダンジョン内での探索に特化しているから、対人戦闘に関しては、我らに分がある。しかし時と場合によっては、返り討ちに遭う可能性がある。愚連隊の部下二人と共に、気を引き締めてかかれ」
 レカは微妙な困った顔をして見せる。
「いやあ、しっかしあいつら言うこと聞かなすぎで……。勝手に突撃して死ぬかも……」
 タティオンはぶっきらぼうに、
「その際は捨て駒にしろ。愚連隊のメンバーは、寿命が短いのは知っているだろう? お前の部下は本当は、もっと多かったじゃないか。部下とはいえ、命を賭けて守る必要などまるでない。いつでも見捨てていいんだ」
 レカは、ぅん……と曖昧な返事をする。それを見て、タティオンは笑ってレカの頭を撫でた。子供のようにされるがままのレカは、目を瞑って癒されている証拠の柔らかな笑みを浮かべる。
「お前はよくやっている。本心からそう思うよ、レカ。あの人手なし二人を、完全な外道のなる前に、ギリギリのところで手綱を握っているのだから」
 レカは目を瞑ったまま、
「へへっ、そーかなー」
 タティオンは優しく語りかけ続ける。
「これに関しては、ワシにも、スタヴロにも、絶対にできないことだ。あんなどうしようもない奴らと関わって、仲間として扱う。そんな芸当ができる時点で、お前の本当の良さが現れている」
 レカは目も瞑ったまま、満面の笑みで顔をくしゃくしゃにした。
「しししし! なんかめっちゃこそばゆいっす!」
 そしてタティオンから体を離す。もうすっかり元気そうで……
「おとーさん!」
 懐っこい笑みで言う。
「あーし、これからも任務を続けるよ! それが、あーしの、あーしたちの、存在の証明だから」 
 タティオンはにっこりとした微笑みでそれに応えた。
「レカ。今日は貧民街のセーフハウスではなく、ここに泊まりなさい。この前教えた、隠し部屋の一角を使いなさい。あ、そうそう」
 タティオンは人差し指をピンと立てた。
「くれぐれもリリアとすれ違うような事態は回避しろよ。今のお互いの精神状態だと……」
 レカは手を広げてみせた。
「わーってる。わーってるよ、おとーさん」
 バルコニーからスルッと降りて行こうとするレカに、タティオンは最後に、
「レカ、頭痛は大丈夫か?」
 と言った。レカはバルコニーに手をかけたところで、心配させまいと平気なフリをしたかったところ、不意を突かれて正直に言ってしまう。
「あー、大したことないよ、一番ひどい時に数秒動けなくなるだけで……」
 タティオンは一気に心配そうな顔つきになる。レカはその心情を察して、申し訳ないやら、心配して欲しいやら、複雑な気持ちになった。タティオンに、まっすぐ目を向けることができない。タティオンはあえてレカに歩み寄ることもなく、言った。
「レカ、お前が心配なんだ。この大きなヤマが終わったら、その時こそ休め。お前にはその権利と義務がある」
「へーい」
 ーー本当に大丈夫なんだけどなあ。レカはそう思ったが、素直に従うことにする。まだ若すぎるほどに若きレカは、疲れを自覚しなかったが、タティオンの言葉に従って休む、ということに、少しワクワクするものを感じていた。
 レカはそのままバルコニーの手すりをぴょんと飛び越えると、必要最低限の力で壁を掴み、内部の人間に決して悟られぬよう、アスレチックのようにスルスルと窓を避けながら、目的の部屋へ向かった。

*****

 窓を跨ぎ、もう一つ二つの魔光灯の照明以外、真っ暗になった部屋に戻ったタティオン。ふと、スタヴロがいるのに気づく。
「部屋に帰っていなかったようだな」
 スタヴロは部屋の中の来客用の長ソファーで、グラスを片手に父を待っていたようだった。タティオンは疲れた様子で、自分より大きな息子の横に座る。ふかふかのソファーに沈み込むその体から、疲労が伝わってきた。スタヴロは黙ってもう一つのグラスを取り、トングで氷をカランと入れ、ボトルから酒を注いでやった。父とのこういう時間は、大きな仕事が終わった後によく用意される、今回は、レカの進路が決まったその祝いだった。
「父上。レカの奴は、テルーラインへの『譲渡』を受け入れましたか?」
「うん」
 タティオンは息子からグラスを受け取り、一口含む。カランと氷が小気味よく鳴った。ラム酒だった。港で海外領土と繋がるこの街の、最高級の酒だった。スタヴロは気遣って、
「父上、結構長く話していましたが、バルコニーの寒さは少し応えたのでは?」
 とたずねる。タティオンはグラスを持っていない方の手を、鬱陶しそうにひらりとさせた。
「引退がどうだの話題になった途端に気遣いか? あまり舐めてもらっては困る。今でも、レカがやるような仕事を、あいつより上手くできるつもりだ。舐めてくれるな」
 そう言って、酒の心地よさを感じてくると、白い、芸術的彫刻についた霜のような顎髭を撫でた。
「そうだなあ、スタヴロ。とりあえずレカの処遇は、ワシが引退した時にあいつ自身とよく話し合って決めるがいいさ。ロドヴィコのせがれの、テルーラインくんのところへ『譲渡』するのは、全く反対ではない。むしろ、そういう可能性も考えて仕向けてきたのがやっと成就すると思えば……。
「父上、引退はどのくらい先をお考えで……?」
 タティオンはラム酒をやりながら唸った。力なく……。老人。老人ではある。まだギラギラとした雰囲気は残っているが、66歳という年齢は誤魔化せない。スタヴロは、生涯現役とばかりにバリバリ仕事をする父ばかり想像していたものだから、少々動揺した。
「……なあに、来年すぐと言うわけじゃないさ。だが、来年遅くというわけにもいかない。あいつを、20歳の行き遅れにするのは、可哀想だからな」
 スタヴロは見たくなかった。ただの駒と自分に囁いて憚らなかった小娘の将来を、本気で案じているように見える。
「………史上最強の暗殺者である父上が、70にもならずして引退するなんて……」
 そういう嫌味も言いたくなった。タティオンは本当におかしそうに笑みを浮かべる。
「おいおい。ワシをあんまり買い被るなよ。確かに歴代の暗殺ギルドのボスは生涯現役だった。ワシもそうするつもりだったが……今までは魔族の血がたまたま活性化していただけさ。少しそれに頼りすぎた。歴代の達人のように、段々と老いていく体に合わせて、仕事のやり方を変えるという人生を歩めなかった。おそらくあと数年で、ワシの体はガクンと性能を落とす。それに対応するのは、あまりにしんどいのだ。遺伝だかなんだか……ロドヴィコのする話はさっぱりわからんが……この血のことは、ワシが一番よくわかっている。そして、レカもこの性質を色濃く受け継いでいるという話だ。
「魔族の血ですか」
 スタヴロはラム酒をぐいっと飲み干した。はーっと息を吐く。
「なぜ俺にその力がないのか……」
 タティオンは息子の大きな肩をがっちり掴んで言った。
「お前も並みの人間からすれば、十分に超人の域だ。しかし今後は、暗殺ギルドはあまり超人的な能力を持つ個人に頼るべきでもない。お前の功績のおかげで、忠誠心の高い上級暗殺者を、安定して訓練する土台が整った」
 スタヴロはそれでも納得しない。グラスをテーブルに置いてむっつりスキンヘッドを晒している。タティオンは息子の大きな体を揺する。
「本当に優秀なのは、お前だよ、スタヴロ。お前こそ暗殺ギルドの次の時代を作るのに相応しい」
 スタヴロは父を見た。酒に酔っているのか、レカの将来への責任と罪悪感から解放されつつあるせいか、かつてないくらい穏やかな嬉しさを感じているようだった。スタヴロは、自信なさげに、らしくもなく、呟くように言った。
「私に、父のようにやれるでしょうか」
 タティオンは、息子に肩から手を離し、ラム酒をぐいっとやって、言った。
「ワシのようにではなく、お前らしくやれ。ワシはそれを望む」
 窓の外は、雨が降ってきた。夜の冷たい雨が。冬も近い。貧民街では、また路上の孤児が何人か死ぬだろう。救貧院と孤児院は、長を失った悲しみを、夜通し火を焚くことで癒そうとするかもしれない。雨がそれを消し去るほど強く降らなければいいが。タティオンはそう思い、スタヴロにカーテンを閉めさせて執務室を後にした。

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