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【小説】マリオネットとスティレット【第九話】

 闘技場から随分離れた。ここはもう、街の港に近い倉庫街。獣人よりもっと大柄で、もっと扱いの酷い、巨体だけが取り柄のオーク族が、向こうのほうで鞭打たれながら働かされている。もう深夜だというのに、ご苦労なことだ。こんなところをほっつき歩く物好きもおらず、レカは赤い煉瓦作りの倉庫と倉庫の間で、土の上に膝を突いて休んでいる。ゼーゼーぜー、と荒い呼吸音が聞こえ、汗ぐっしょりで暗殺者のスーツをめくって体を冷やしている。夜の外気はもう肌寒いを下回って冷たさを帯び、来月には霜が降りるのではないかという具合。それでも限界まで活動したレカの体を冷やすには不十分だった。魔力の血に加え、並どころではないキツさで鍛えている暗殺者レカだったが、流石に300キロを担いで街区数ブロック分走るだなんていうのは、人生初だった。
「オーツカレー!」
 ガズボが強めのハイタッチをしてくるが、ほとんど水平に突き出すようなそれをまともに食らって、レカが倒れ込んでしまう。
「ふぎ……お、お、お、めえ、ゼーゼー……ふ、ふざ、けんな、ぜー、ぜー、お、覚えてろよ」
 レカは息を整えながらかろうじてそれだけ言う。ガズボは調子に乗る。
「おうおう〜! 姐御ォ……いや、レカちゃんよお。いつもは敵わねえと思ってるし、さっきまで俺の巨体を担いでとんでもねえ速さで走ってたのも正直信じられねえけどよお。いっくら自分の部下だからってこーんな危険な野郎の前でそんな弱った姿を晒しちゃ、ダメじゃなーい?」
 レカは立ちあがろうとするが、ガズボが踏みつける。心底嬉しそうな獣人の唸るような笑い声。
「グァッハッハッハッハ! やっと願いが叶うかも知れねえぜ! このメスガキには随分煮湯を飲まされたからなあ! 簡単には殺さね……」
 ガズボが言い終わる前に、踏みつけて押さえ込んでいたはずのレカがするりと抜け出す。
「あ、あれ?」
 ガズボはそのあまりの手応えのなさに困惑し、思わず地面を見る。レカは、影も形もない。急に、首に違和感がくる。
「ふい〜、いい眺めじゃねえか、おめえの身長で見える世界はよお」
 いつのまにか、体重も感触も感じさせることもなく、まるで子供が肩車されているように、レカがガズボの肩に乗っていた。剣山のような針の体毛が生えた毛皮もものともせず、レカの鍛えられた足がガズボの石臼のような太い首に巻きついている。ガズボはしばらくじっとして状況を飲み込んだ後、
「じょ、冗談だぜレカの姐御ォ。でもまあ、そこからは降りて欲しいけど、なっ!!」
 いい終わる時に声を上げた勢いそのままに、自分の上に乗ったレカを、250センチの自分の身長そのままの高さから、土の地面に叩きつけようとした。もちろんそのためには、直立した今の状態から、お辞儀するなり、後ろへもたれかかるなり、腰を曲げてレカを勢いよく振りおろさなければならなかった。ならなかったが……。
「……っく……っ!」
 レカの自由な両手の指が、ガズボの黄色い瞳のその側の、白目の部分に当てられていた。瞼の裏側に入り込んでいる。それだけでガズボは動きを止められた。二つの眼球をくり抜かれることと、相手を地面に叩きつけること。交換としては、分が悪い。ガズボはレカの目論見通りにおとなしくなった。
「っち、ったく。よくもまあやってくれたぜ、レカの姐御ぉ……」
 レカはガズボの首に巻きつけていた足を解いて、地面にフワッと降り立つ。ホワイトゴールドの結った髪がフワッと踊った。
「にっしし! でもオメーも生き残れただろ?」
 立ち上がって得意満面といった様子で腰に手を当て、少女らしい笑みをガズボに向けるレカ。巨大で凶暴な獣人はそれで毒気を抜かれ、鼻息をフシュっと鳴らす。
「あのよぉ、お嬢ちゃん? 俺も三十超えて……歳だからな。そう何度もチャンスはねえ。今日こそあのふんぞりかえってるクソ野郎のザドワンの背骨をぶっこ抜けると思ったのに……」
 レカは首を傾げてうーんと唸った。呆れるべきなのか、何か策があると思うべきなのか……。ガズボとはこういう男だった。やることなすこと暴虐の極みといった有り様だが、どこかその企てには無邪気な幼稚さがあった。レカは、この快楽殺人鬼の身柄を預かる身として、さっきのああいう殺しさえしなければ、可愛げがあるとすら思っていた。ガズボはグチグチと言い訳のような物言いをやめない。
「あーあ。冒険者ギルドの警察気取りのイイコちゃんどもめ。闘技場のイベントにすら茶々入れやがったか。……馬鹿な奴らだ。流石に傭兵ギルドも黙ってねえぞ」
 レカも同意見だった。もしかすると、この街でまた一波乱あるかも……。だが今は暗殺ギルドの仕事の話が優先だ。
「ガズボ、さっきのぁ予想外のハプニングだったが……でもこれでもうしばらく闘技場の仕事ねーだろ? 冒険者ギルドとの折衝が終わるまで、おそらくあそこは閉鎖だ。だったらあーしと一緒に仕事しろ。次の仕事にはダメージ担当としてオメーが必要だ。うまいもん食わせてやっから」
 レカは自分の倍近い年齢の巨漢獣人を、まるでテルのような弟分としてみなしている。ガズボの方もガズボの方で、レカに甘えた態度を示す。
「レカの姐御ぉ、勘弁してくれよ〜。俺のホームで邪魔しねえでくれよ」
 レカはそんなゴタクを許さない。ずいっとガズボの方に迫った。ガズボは少し身を引いて、降参の意を示す。しかしそんなしおらしい態度にも関わらず、レカの怒号が浴びせかけられた。
「あーしがいなきゃ殺されてたくせに! おいオメエ! 勝手に死ぬのも誓約違反だからな!? わかってるよなあ! ボスとの誓約!」
 レカのまっすぐで白く、鍛え上げられた人差し指が、ガズボの肥満が進みつつある腹に突きつけられた。ガズボはニヤニヤして答えた。
「しゃーねえなあ。あんたのとこのボスにゃあ、借りがあるからな」
 レカの赤い瞳がガズボを睨み、鋭くさらに釘を刺す。
「……今日、お前へのボスの温情の貸し、お前の命ごと消えちまうところだったぜ。うちのボスがオメーをチャンピオン・ザドワンに殺されるところから救ってやったのは、もういつだっけなあ」
 流石のガズボもいきりたって反抗の意思を示す。
「うるせー! 今日こそあいつに勝つのは俺だったはずな……グフウ!?」
 握り拳を掲げて強く宣言しようとした瞬間、腹に突きつけられていたレカの指がズン! と臍の上あたりに突き刺さった。肉体にめり込む瞬間、指は畳まれ拳になり、ガズボの腹筋を引き裂くことなく衝撃だけを内部に伝えた。なかなかうまい、苦しみだけを味合わせる一撃だった。でかい体を折り曲げて苦しむガズボ。レカは同じ目線の高さになったガズボの顔に幼児を可愛がるような優しい笑みを浮かべた顔を近づけて、優しく言った。
「赤い目の魔の血の覚醒者には勝てない。常識だろ? 体格ではザドワンにはるかに劣るあーしにすらいいようにされるってのに、どうしてあんな化け物に勝てる気でいるかねえ。ザドワン……戦場では鬼神だっていうじゃねえか。中央の軍隊は、魔法科学ギルドのアーティファクトの兵器があろうとなかろうと、ザドワン一人だけいるせいで、この街を攻められねえって話じゃねえか」
「う、うるへー」
 ガズボは殴られた腹を押さえてどうにか痛みを誤魔化す。体を起こして大きな体に威厳を回復すると、何もなかった風を装って、こう言った。
「ククク、女にゃあわからねえさ。男の気持ちはな」
 レカは腕を組んで呆れてため息を吐いた。
「ああ、女性を痛ぶって殺す気持ちは、全くわからねえなあ」
 それを聞いたガズボは、ニヤーっと嫌な笑みを浮かべる。レカは少し眉を顰めて嫌悪感を示す。その理由はガズボの牙を見て怖気付いたからではなく、悪趣味な思いつきを思いついてついニヤけてしまったという、子供じみたその精神性を察して吐き気を催したからだった。
「ククク、果たしてそうかなあ、レカちゃんよお」
「ああ?」
 レカは久々のこの殺人鬼に怒りを感じた。二年前、タティオンがとらえたこの男の面倒を見ることを命じられた時、あまりにカジュアルに弱者の命を弄ぶこの男に、いちいち怒りを感じていたものだった。しかし最近では、どうやって手なづけるかも大体理解してきたから、そんなに頻繁に本気の怒りを向けることはなくなっていた。腕力と暴力性さえ押さえ込んで仕舞えば、怒っても仕方がないような、しょーもない男なのである。しかし時々、馬鹿なフリをして本質だけは見抜くようなガズボの言葉には、驚かされることがあった。とりあえずレカは部下から投げかけられた無礼な物言いを叱責する。
「誰にクチきーてんだタコスケ! オメーなんかあーしの手にかかりゃあ……」
 しかし次の言葉は、久々にレカの感情を掻き乱すのに成功した。
「レカちゃんよ。オメーも殺しを喜んでるくせに」
 レカは、頭にざわっと血が昇るのを感じた。ガズボが急におどけて、不気味な笑い顔を崩して、爪の生えた両手をヒラヒラさせて言う。
「あー怒った怒ったぁ? ごめんにぇえ〜、ガズボおいたんは正直だからホントのことしか言えないのぉ〜」
 レカはじっと赤い瞳を目の前の部下に向けていた。ガズボはひょうきんに踊っている。レカはフーッと息を吐いた。暗殺者の静謐の呼吸法とはまるで異なる、怒りで熱くなった腹の中の熱気を吐き出して調整するような吐息だった。
「ガズボ、てめえ……今回の任務で死にかけても助けねえからな?」
 ガズボは笑った。
「っはは! ザドワン以外で俺を殺せる奴がいれば是非教えて欲しいぜ」
「金槌級冒険者パーティ」
 レカがそれだけ言うと、ガズボはピクっと反応した。それまでのおどけた様子をひそめて、黄色い目を鋭く尖らせて、不敵な笑みを浮かべる。
「へえ。なかなかいい相手じゃねえの。冒険者ギルドに対しては今回の件でムカついてたんだ。いいぜ。やるぜ。メンバーは? 全員参加か?」
 レカは頷く。
「もちろんだ。相手が相手だからなあ。シャルトリューズにも伝える。決行時刻はこれだ。その日の夕刻に『悪食』集合」
 レカがガズボに、魔法的処理を施された、肉体から一定距離離れると燃え尽きる紙片を渡す。ガズボはその紙にさっと目を通すと、すぐに地面へ放って燃え尽きさせてしまう。レカは苦笑した。暗殺者としてはガズボが正しいが、自分はいまだに物覚えが悪く、直前まで司令書を保持する。実際の任務での動きは自分が圧倒的に上だという自信はあったが、こういう姿勢においてはガズボを評価し、ある場合においては尊敬もしていた。
(地頭はいいんだけどなあ、このデカブツ)
 ガズボは腕を広げて見せる。大きなリーチ。槍と両手剣の戦場では無敵かもしれない。
「レカの姐御ぉ、シャルのアマに会いに、こっから街の反対側の娼館まで行くのかよお、夜が明けちまうぜえ?」
 レカは肩をすくめて見せる。
「あーしなら屋根の上を高速移動して、大時計塔の長針が半分回るより先に到着できるね」
 ガズボが鼻を鳴らした。
「羨ましいことで」
 そして天を仰ぐ。夜空には、倉庫街の暗さのおかげか、星々の瞬きが見えた。魔光灯がビカビカと夜空を汚す娼館街では、こうはいかない。
「まーた姐御に命を救われたと思うべきかねえ……。あーあ! あいつの赤い目玉をくり抜いて首飾りにして……初めて俺は自由になれるのになあ!」
 もう毒気が完全に抜け切ったのか、ガズボは星を見ながらセンチメンタルなことを言っている。そしてレカは、一人の人物の顔を思い浮かべた。独り言のように、ガズボに語りかける。
「魔族の血への…嫉妬?」
 スタヴロも、似たようなことを言っていたような……。そう思い至ったのだ。ガズボは、驚いたようにレカを見て、一瞬笑った後、凄んで見せた。
「ガキが大人のジェラシーに踏み込んでくるんじゃねえよ!!」
 そして、倉庫街の闇に消えた。集合は二日後。冒険者ギルドの金槌級パーティ、『アカツキ団』の詰め所付近……。大時計塔基部から数キロの、富裕層の地区にポツンとある、冒険者ギルドのテリトリーで……。

*****

 夜でも客の賑わう、活発な商業地区の市場。日々の稼ぎにこだわらなくていい、安定した自営業者の居住区。所々にある、冒険者ギルドの詰め所と、傭兵ギルドの徴募係の受付所。レカはそんな街並みを見下ろしながら、屋根を駆けていた。河向こうの、ギルドと貴族が支配する中央街区。その穏やかな灯りは、こちらの岸の活気とは違い、落ち着きすぎていて面白みがない。むしろ、あまりに巨大すぎる大時計塔が、時計盤ばかり目玉のように爛々と輝かせて、藍色の夜空に真っ黒くそびえ立っているのを見ると、不気味ですらある。大時計塔という、物理的にも象徴的にも街の中心の存在の周りに、へばりつくような屋敷を、こんもりと山になるほど建てている、貴族とギルドの権力者たち。テルもタティオンも、そこで寝入っているはずだったが、なんだか今のレカには親近感は湧かない。自分たちこそ、この街の支配者だとばかりにふんぞり返っている憎たらしい姿しか浮かばない。この街の河の向こうとこちら側では、残酷なまでの差が演出されていた。街の中心の大時計塔を中心にした、穏やかに眠る富裕層と、決して眠らずに夜通し活気づく労働者たち。まっすぐ行く河の外側、中流階級の区画や貧民街。その間の格差を誤魔化すのは、なんと言っても魔光灯だった。この街の技術発展は歪だ。数十年前、いち早く魔光灯の技術が導入されたのは、貴族やギルドの屋敷のある、大時計塔の麓の富裕層の街区。街の中心部は、初期に作られた、抑えた光量の魔光灯に控えめに照らされている。次いで導入されたのが、闘技場と歓楽街で……。とりわけ夜の街であるパブや娼館の集まる街区は、ネオンサインこそないものの、今ある技術で思いつく限り、色とりどりにライトアップされていた。
 娼館や飲み屋は全て、暗殺ギルドの管轄下である。旧態依然とした、商業的互助組織として、新規参入を阻み、利権を貪る。そうすることでしかまだ、この街の人々は経済の保護の方法を知らない。貧民街に隣接する、娼館の集まる、一際魔光灯の彩りがどぎつい区画に、それはあった。老舗の娼館「朝日楼」。道を行き交う人は、獣人が多い。彼らは飲食やインフラ、肉体労働を支える重要な労働者ながら、いつもは奴隷からやっと抜け出た程度の被差別民として日陰を歩く彼ら。ここでは大手を振って、酔っ払って豪快に振る舞ったり、彼らの言う「毛皮無し」、人間相手にぼったくりのような商売もしていた。「朝日楼」は、獣人の経営する数少ない娼館で、客をとっているのは、亜人ばかりだった。狼や猫の獣人の女、小柄なドワーフの女性、人間との混血でよくわからない普通の人間種に見える女性……。しかしエルフは見ない。エルフは高級品である。暗殺ギルドの本部横にすらある高級娼館にいるのが通例だ。もちろん、「廃棄寸前」が流れてくることはあるが……。そういうのは、「朝日楼」の女獣人の店主が、固く断っていた。うちでは……数年以内に葬式を出す前提の娘は、引き受けられないと。そういう堕ちた娼婦は、もっと街の外側、いわば下層の、貧民街の中にある娼館に送られた。
「あの、あの、も、もういいっす。もういんすけど……」
 「朝日楼」の窓の一つ、ある部屋の中から、獣人の若者の声が聞こえてきた。
「……えー? ……いー……じゃーん……? せっかく……なんだしぃ……とことんまで……やろうよぉ……」
 何やら不穏な雰囲気だった。客の獣人はもう勘弁してくれという雰囲気なのに、女性の声の方は随分盛り上がっている
「もう、やめ……」
「あっ! ……ついで……に……身体中の……毛を……溶かして……脱毛して……あげるね♡」
「うう……脱毛……? 脱毛!? っは!? ちょ! 待て! 獣人の俺にとって体毛は命だ! やめろ!」
 客の声が切羽詰まるのとは裏腹に、女の声は艶やかになっていく。
「えー……? もうおそーい……ごめんねえ……普通の……人間用の……脱毛コース……始めちゃったぁ……許してえ?」
「ああああああああ! 俺の毛皮がああああああああ!! いや違うアツイアツイアツイいいいい!! ぎゃあああああ!!」
 客が尋常じゃない叫び声を上げる中、女は大して焦った様子もなく、
「え……やべやっちった……これ……皮膚も……溶けてるわ……」
 そんな恐ろしいことを言った。しかし客を回復不能なやり方で傷つけている自覚すらなく、
「ま、いっかあ……」
 と呟き、
「感度数千倍の……快楽粘液を使えば……こんな状態でも……幸せだよね……?」
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!!」
 獣人の叫びは、もはや聞くに耐えない絶叫であり、流石に事態を察したした「朝日楼」の用心棒が、部屋の中に踏み込む。
「シャルトリューズ! また客に怪我させ……うおぉっ!? なんじゃ、こりゃ……ゲホゲホ」
 肉の溶ける臭いが、部屋に充満していた。そのなかには、人間よりはるかに赤い皮膚をした、鱗を纏って、タコの触手が体の至るところから生えた、触手族の生き残りの娼婦がいた。もう助かる見込みのなさそうな獣人の若者の、骨が見えつつある死体にキスをしながら、彼女は言った。
「へへ……へ……また……やっちった……」
 触手族の女は、客を相手していた格好のまま、店の外に放り出される。獣人たちが自由に振る舞う大通りとは裏手の、魔光灯の薄暗い、娼婦の方がよく通る裏道だ。暗殺者を引退した後のキャリアを順調に歩んでいるはずの、「朝日楼」の用心棒は、店の裏手の、ゴミだのなんだの積み重なってるスペースの間に、シャルトリューズを放り投げる。
「ぎゃんっ! ……いっ……たーい……」
 用心棒は、魔界産のモンスターの皮膚から作った、鱗の残った分厚い革手て手首まで覆っている。そうしなければ、興奮したシャルトリューズに触れることはできない。
「テメエ……」
 何度目だ、と言いかけて、もう無駄だと悟る。この狂った娼婦は、きっと何もわからないままだ。
「シャルトリューズ……っ! この前客を発狂させたと思ったら、今度はこれか! 客を溶かして殺す娼婦がいるか!? どうしてくれる! 今度は賠償じゃ済まない! もし相手の名が傭兵ギルドに登録でもされてたら、最悪この店が潰れるだけじゃ済まないんだぞ!!」
 シャルトリューズは一緒に放られたシーツを体に巻き付けて乳房や陰部を隠した。しかしそれでいてくねくねと用心棒を誘惑するように艶かしく体を動かした。
「えー……だって……かわい……かったんだもん……あの若い子……」
 用心棒は、すっかり頭髪の少なくなった頭に、つい革手袋をしている手をやって、もうお手上げだとばかりに呆れた顔をする。しかしすぐに自分の間違いに気づく。
「テメエ、いい加減に……ぬあっ!? あっつ!!!」
 それは若い獣人の客を物理的に溶かしてしまった触手族の酸ではなかった。感度増幅薬。もちろん、そのような類は特殊なプレイの道具として、たいていの娼館では用意がある。触手系モンスターはいくらでも魔界で獲れ、傭兵ギルドが持ち帰ってきて、港から輸出する分すら確保される。。しかし、シャルトリューズの体が分泌するそれは、質が大きく違っていた。
「あがっ、あががが……シャ、シャルトリューズ……」
 用心棒は額についた粘液を必死にハンカチで拭き取りながら問いかける。数ミリリットルが付着しただけだが、すでに脳の中まで痺れるような快楽が、ビリビリと侵入してきていた。
「こ、今回は……か、感度何千倍だ……?l
 触手族の女、シャルトリューズは、ヌラヌラと粘液に塗れたタコのような体をくねらせながら、なんとか誤魔化そうとする。
「えー? ……わっ……かんなーい……」
 暗殺者崩れの用心棒は、わりと本気の殺気を発して怒鳴りつける。
「正直に答えろ!!」
 シャルトリューズはぷっくらした唇からふふっとイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「……三京倍♡  楽しんで……ね?」
「京ってなんの単位だボケえええええ!!」
 用心棒は手当たり次第に布を使って額を真っ赤になるまで擦り続ける。そんなことをしても、もう浸透してしまった媚薬粘液は、とれたりしない。用心棒は納得するしかなかった。そりゃあ、こんなレベルの快楽を全身で浴びてしまったら、この前のお忍び貴族は発狂して死ぬわなあ、と。
「んぐおおおおおお!! 今度こそぶっ殺すぞシャルトリューズううううう!!」
 用心棒が顔を真っ赤にしてシャルトリューズに向かう。流石に度を越した不真面目かつお調子者のシャルトリューズも身の危険を感じ始める。
「やん……やさしく……してえ……」
「死ねやああああああ!!」
 その時、ぺちーん、という音がして、用心棒のハゲて広がった額がうたれた。用心棒はその場に尻餅をつく。訓練を受けた先頭危険豊富な暗殺者で、もう一線を退いたとはいえ、いきなり平手で打たれて腰がすとんと堕ちて尻餅など、普段の自分であれば考えられないことだった。しかし何より驚くべきことは、もう額の耐え難い快感の疼きがおさまりつつあることである。
「あ、あれ? どうなって……」
 店主は、立ち上がることも忘れて、シャルトリューズの危険の粘液のついた手袋を脱ぎ捨て、素肌で恐る恐る額に触る。ヒリヒリと痛い。さほどの勢いで叩かれたわけでもないのに、赤い血が少し滲んでいた。今度は手の方に快楽が移ったが、なんとか我慢できるレベルだった。
「オイオイ、粘液の臭いがひどいから裏手に回ってみりゃあ……」
「ああ、レカさん!」
 用心棒は慌てて立ち上がる。そこには暗殺者のコスチュームに身を包んだレカが、色素の薄い金髪の房を垂らし、呆れた様子で立っていた。男の額を叩いて粘液の毒素を染み出せた手を、パタパタ払って薬液を飛ばしている。レカより小さい中年の小男である用心棒は、ペコペコしながら、
「いいところにきましたよ!」
 と先ほどの怒声とはまるで違う声で言った。屋根の上から前のやりとりを見ていたレカは、ため息をつく。
「ボスの指示だからこそ、この触手女を引き受けたんだ! 確かに客の評判はおおむね良かったよ! 客を何人もリピーターにしたのはこの女のおかげさあ。しかし好みの男を発狂させたり溶かしたり、そういうのは商売にならないよ! どうするんだよ!」
 レカはうーんと首をより深く傾げた。レカのくせだった。後ろでまとめた長い金髪が揺れる。
「あーん♡そんなに……褒め……ないでぇ……うれしく……なっちゃうぅ」
 触手女、シャルトリューズ。その全体的なプロポーションは、触手を多数生やしているとは言え、桃色の肌の魅力的な女性という姿であり、艶かしい。所々の鱗や吸盤も、エキゾチックな亜人趣味を引き立てており、むしろチャームポイントだった。亜人フェチの貴族なら、屋敷を抵当に出してでも買い上げたかもしれない。もっとも、その意思を示していた初老の貴族は、この前他ならぬこの触手族の粘液によって死んだのだが。用心棒もレカも、まるで反省していない彼女の様子を見て、ため息を吐いた。いちおう、レカも、これが問題であることは重々承知だ。レカはあまり期待していないような声で、自分よりだいぶ歳上の、ベテラン娼婦である、触手も胴体もくねらせて続けている彼女に訊ねる。
「シャル……オメー、わかってるか? お前の催淫液は……マジで無駄に強力すぎるんだよ。普通の人間は発狂するわけよ。わかっててやってるだろ?」
 シャルトリューズはニヤニヤしながら、触手ばかり生活に用いるせいでろくに使わない両手で自分の顔を挟み、さらにクネクネと甘ったれた態度を見せる。
「えー……だってえ……」
 一応、言い分はあるようで、シャルトリューズは小声だったが、反論しようとする。声が小さいのは仕方ない。その粘膜からは、常に強力な催淫・幻覚作用のある液体がどんどん揮発しながら分泌されているのだ。その口からも、例外ではない。あまり大きな声で話すと、周りの人間を皆おかしくさせてしまう。
「だっ……てぇ……レカちゃあん……私……ちょっとでも……好きだなって思った……男の人は……だいたい……発狂させちゃうし」
 用心棒は思わず怒鳴る。
「なんとかならんのか! ……うっ、眩暈がする」
 怒ったり喚いたりで、血行が良くなりすぎた娼館の用心棒は、シャルトリューズの毒気に当てられつつあった。これを客に密着しながら浴びせかけるのだから、シャルトリューズの接客は、ほとんど違法薬物で虜にするようなものだった。
 用心棒が額を押さえて目眩に耐えている様子を見てしめしめとほくそ笑むシャルトリューズ。このままごまかす算段である。しかし、それを許さない者がいた。布で隠したシャルトリューズの尻を、レカが叩いた。ぱしーん! と、娼館街全体に銃声みたいな音が響き渡る。だがそれも、「朝日楼」や他の低価格の娼館があるこの貧民街では、よくあることだった。誰も窓から顔すら出さない。お楽しみを中断してまで確認することではないからである。実際に窓に銃弾が撃ち込まれても、その部屋の人間が逃げ出すだけだろう。狙われる身に覚えがなかったなら、悪態をつくだけかもしれない。
「いったーい! 何すんのこのガキぃ!? ウチの方が十歳上だって覚えてないのこいつぅ!?」
 シャルトリューズが、抑えた口調を忘れ、本気でキレて見せるが、レカは動じない。側にいる用心棒は、シャルトリューズが抑え込むのを完全に忘れた媚薬粘液から成分が揮発して、あたりに立ち込め始めるのを、数歩下がって回避する。レカも、呼吸は止めている。そしてもう何も言わんとばかりに、シャルトリューズの触手を一本掴むと、痛がるのも構わず、粘液でぬらぬらしたそれに紙片を貼り付けて、突き飛ばす。人間と同等の骨こそあれ、豊かな脂肪層で守られた体は、ちょっと娼館の石壁にぶつかった程度では、何もダメージがない。シャルトリューズは、憎たらしいものを見る目でレカを見返すが、紙片を見て、少し落ち着いたようだった。
「いやーん……レカちゃん……から……プレゼント……もらっちった……」
「バカ、黙ってろ!」
 用心棒は訳がわからない様子。それはさておき、レカに向けて小言を言う。媚びたような態度だったが……正直彼としてもこの触手ばかり生えた、もう娼婦としての歴が長いのに一向にプロ意識を持たない問題児には、手を焼いているのだ。
「レカさぁん。あんたがこの娼館地区全体の面倒を見て、色々やってくれてるのはわかりますよ。でもね、限度ってものがあるじゃないですか。ボス・タティオンは何をお考えなのか……。シャルトリューズ、こに触手族の最後の生き残りを託されても、性格が性格だから、困りますって。最近聞いたはコトですけどね、話によると、こいつ、奇形だって言うじゃないですか」
 それを聞いてレカはピク、と薄い金色の眉が持ち上がる。シャルトリューズはすっかりいじけてしまって、触手でぬらぬらにした紙片を何度も見て弄んでいる。魔法で焼失するそのメモは、インクも特殊性。シャルトリューズ粘液程度では消えない。用心棒は本当に困ったように話を続ける。
「レカさん。あんたがどれだけ話を聞いてるか知らないですけどね。この触手女は、感度倍増物質も、触手の生え方も、すっかり奇形そのものですよ。奇形だって聞いた時は、わたしゃあ、ああそれでねえ! と膝を打ったもんですわ。引退の理由になった膝の古傷が痛みましたが、それくらいつい強くぶっ叩いちまうくらいには、合点がいったんですわ。どの種族の間にも子をなせないこいつをちょっと訝しんではいたんですけどねえ。そりゃあ、娼婦としてはその点はいいですけどねえ」
 シャルトリューズは聞こえないふりをして、石畳に寝っ転がり続けている。叱られた子供がするような態度で、二十代後半の女性とはとても思えない反応だったが……。レカはそれを守ろうとする気持ちが沸き起こってくる。
「おい、それくらいにしとけよ、おしゃべりがすぎるぜ」
 用心棒は顔を歪め、手のひらを出して、言わせてくれと言わんばかりのポーズを見せた。そのまま言いたいことを言ってしまうつもりだ。
「なんだかねえ、触手族最後の女の生き残りとして、ほんのわずかばかり残った同族に大事にされたらしいっすけどね。それがお笑い種だ。奇形で子供を成せないとわかると、みんなしてこの女を殺そうとしたって話ですわ。いい気味ですなあ。そんでこの女、殺しにかかってきた親兄弟含む、触手族の最後に残った同胞を、みーんな殺し尽くして、正真正銘の最後の触手族になったってわけでさあ。レカさん、あんたは知らなかったでしょうが……こいつは親殺しの真性のどクズ……」
 レカの鉄の鉤爪のような手が、その口をふさいだ。用心棒の顎の骨を的確に捉え、鉄球にすら指痕をつけられる人外の握力でがっちり掴む。
「あががぁ!?」
 娼館の用心棒は、恐怖と痛みで呻き声を上げた。レカは、本気の怒りを抑え込んだ少し震えた声でこの下品な小男に語りかける。
「オイ、あまり舐めた口をキクなよ、三下ァ……。仕事でヘマしてギルドメンバーが何人も危険に晒されたって話じゃねえか……それでもテメーがボスに始末されてねーのは、これまでのギルドへの貢献を評価されたからだぜ? その温情に報いるくれえは……きっちり仕事やれや。自分のところのキャストを……軽んじるんじゃねえ」
 それを言い終えると、レカは手を離す。シャルトリューズが、触手同士をパタパタとぶつけ合わせて、拍手の真似をしたが、粘液まみれでブヨブヨの軟体なので、音はしなかった。強制的に爪先立ちにさせられていた小男は、禿げつつある頭を下げてうずくまり、顎が砕けそうだった今の痛みが消え去るのをなんとか早めようと、手で顔をさすっている。レカに虫ケラを見る目で見下されながら、しばらくそうしていたが、やがて体を起こし、怒りというよりも、憎しみの目でレカを見て、言った。
「な、なんだってんだ! たかがギルドの便利屋風情がぁ! ボス・タティオンのお気に入りだかなんだか知らねえが、デカい顔しやがってえ……俺はお前の年齢より長く現場で仕事してたんだ! 何人始末したか……。おめえみてえな小娘にいいようにされて黙ってねえんだよ!」
 レカは、その言葉については、真摯に受け止めるつもりだった。そりゃあ、18歳の小娘にペコペコしていい気持ちがするはずはない。暗殺ギルドに所属しながら、公式には暗殺の実行部隊ではないレカは、他ギルドとの関係改善や、娼館の揉め事解決などが日々の仕事、表の仕事だ。父子関係を明らかにできないタティオンの指示のもと、便利屋呼ばわりされつつやってきた。小娘が特命を帯びてあっちこっちに顔を出す形になるから、当然、反感も買う。レカとしてはその反感を、現役の上級暗殺者でも抵抗できないその覚醒した魔の血の暴力で黙らせるか、好きに言わせるかで解決してきた。まだ若いが故、それしか方法を知らなかったのだ。しかし、鬱屈したプライドを抱える、この引退した元暗殺者の娼館の用心棒の中年親父の扱いは……少し間違えたかもしれなかった。用心棒は、立ち上がって、シャルトリューズとレカを順番に指差して、まだ何か言おうとしている。
「この小娘が……ボス・タティオンがなんでテメエなんかに目をかけるかわからねーぜ……赤目のハンパモノが……ボス・タティオンは確かにすげえぜ!? 真紅の目の持ち主に相応しい殺しの神だ……だがお前はどうかな? お前のその魔族の血の覚醒能力が、冒険者ギルドの訓練指導要員や、娼館のトラブルバスターなんて、つまらん仕事だけに浪費されてるなんて、俺は信じねえぜ……おおかた、暗殺ギルドの裏の仕事でも任されてるんじゃねえか? ええ? オイ……仕切ってんのは多分、あの出来の悪い才能ゼロのバカ息子、スタヴロだろう……? どうだ! 図星だろう? 若すぎて気付けねえんだろうが……テメエは使い捨ての捨て駒さ! その触手の出来損ないと同レベルのな!」
 流石にシャルトリューズも頭に来たらしく、立ち上がっていつにないシリアスな目でいきりたった小男に迫る。彼女の身長はレカより高い。本気ですごめば160センチ程度の小男はほとんどの場合ビビって怖気付くが……。そこは流石に歴戦の暗殺者、全く動じない。よくない雰囲気だった。レカは二人の間に割って入る。用心棒の方を向きながら。そして優しく言った。
「言いたいことはそれだけだな? いい。いいよ。オメーが言ってることはまあ……当たらずとも遠からずだ。ボスへの尊敬だけは欠かさずに、侮辱しないんなら……聞き流してやるよ」
 用心棒はペッと唾を吐いて、シャルトリューズに向けてもう今日は上がれと言った。「朝日楼」のオーナーには伝えておくとも。

*****

 シャルトリューズは、レカの隣を半歩下がって歩いている。シーツを巻いただけの触手付きのピンクの体は、かなり艶かしい雰囲気を放っていた。娼館街の裏通りを通り過ぎる通行人たちの視線をあらかた奪っても、レカも本人も気にしなかった。酒びんを握りしめ、あおって、それが胃に流れ込むはしからゲロにして吐き散らかして歩っている爺さんが通る。すれ違う時、シャルトリューズに何か種族差別的な言葉を投げかけたが、よく聞こえなかった。おそらく、まだ他の触手族が生きているのを見たことがある世代かもしれなかった。
 レカはため息を吐き、後ろを行くシャルトリューズを振り返る。
「なあ、これはわりとガチ目の質問なんだが……なんで客を発狂させたり溶かしたりしちまうんだ? やっても時々だけどヨォ。流石にそれは……」
 シャルトリューズはクネクネしながら、ピンクの顔を赤らめ、照れ臭そうに答える。
「だって……あなたが好き……他の何も……いらないって……言うんだもん……」
「あっそ」
 客の娼婦への愛の告白の返礼が、致命的な粘液攻撃とは……。レカはため息をついた。
「オメー、いつか幸せになれるといーな」
 そんなセリフを無責任に吐いた。しばらく二人は、両側の娼館やパブの建物に挟まれた、帯のように細くなった夜空を見上げながら、トボトボ歩いている。レカは、おしゃべるな触手女のわりには静かだな、と思って振り返った。シャルトリューズは、ピンクの顔を、少し俯かせて歩いている。いつもと違う様子に、レカは困惑した。度重なる人間との混血でできた奇形児。問題児。本当なら処刑されているはずの犯罪者。先ほど用心棒が語ったそういう背景は、レカは聞かされている。その程度のこと、もっと酷い性格の犯罪者を部下として預かった経験のあるレカとしては、気にもしていなかった。立ち止まって、シャルトリューズに声をかける。
「どしたい? シャル。さっきあいつが言ったことなら、気にすることねーぜ」
「ねーねー、レカちゃーん」
 その声は抑えたものではなかった。媚薬粘液のむせ返るような香りに、レカは注意しようとしたが、シャルトリューズのいつにない真剣な様子に、息を止めるだけにする。
「ウチはねえ、ウチはねえ、幸せになんかなれないんだよ。『そのままでいい』としか言われなかったんだよ。『あなたはそのままで美しい』としか言われなかったんだよ。残酷だよねー、このままでいたいだなんて思ってないのにー」
 そう言って、自分の体が憎悪の対象であるかのように、触手の一本を掴み、本気で握る。彼女もまたそれなりに力のある人外の存在だから、触手ではなく、ピンク色であることと鱗が少しあること以外、人間そのままの手であっても、握力だけで通常の人間を殺すことはできた。そんな力が今、自分の触手に向けられている。レカはそんなさまを見ても、面食らうことはない。彼女に自傷行為を見るのは、初めてではない。それに彼女は……。
「ふんっ!」
 シャルトリューズが触手の一本を本気で引っ張った。それはブチっとちぎれて、石畳の上に落ちる。そして驚くべきことに、そのちぎれた傷跡から、すぐにもう一本が生えてきて、元通りになってしまった。シャルトリューズは、悲しげな緑色の瞳を、レカに向けた。
「ウチは……『そのままでいい』としか、言われたくなかったんだよ。こんな……触手族としても異常な体を抱えてさあ。『あなたを幸せにする』とか言われちゃってさあ。そりゃあ、殺したくもなるよねえ」
 レカは黙って頷いた。それは、粘液の蒸気を肺に入れないためではなく、本当に、なんて言ってあげればいいかわからなかったからだった。
 その夜は、シャルトリューズを、貧民街と商業地区の境界の、少しは治安がマシな住宅まで送った。一棟丸ごとシャルトリューズに与えれたそれは、彼女の稼ぎが尋常じゃないことを示していた。レカはしばらくその住宅を眺めていたが、唯一の住人が中に入っても、魔光灯の光は、一度も点かなかった。

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