恋愛と暴力 〜奥灘幾多先生の漫画を読んで〜

https://twitter.com/hitotoseshiki/status/1565174803077955585?t=OT_vPjafJ6PHZPjCRF5jZQ&s=19

まず、性的欲望を現実の人間を使って満たそうとすること、それ自体はまず間違いなく暴力であるということ。それを「文明的な文化」は「婚姻関係においてのみ性的欲望を満たすことが許される」と権威で縛り付けた。しかしそこで困るのが婚姻を許されない同性愛である。よって、「婚姻平等を求める」運動が起きた。しかしこれは所詮、「婚姻関係においてのみ性的欲望を満たすことが許される」という権威による縛りに包摂されることを意味する。そうであるべきではない。そもそも、婚姻関係においてのみ性的関係が許される、とかうそぶいても、人はいくらでも婚前交渉してきたし、恋愛という暴力で遊んできた。いじめという暴力で遊ぶのと同じレベルにおいて。(恋愛強者のみが恋愛のメリットを受益し、恋愛弱者はデメリットのみを引き受ける、いじめ強者といじめ弱者の関係も同じ)そのことはある意味では許されており、ある意味では野放しになってきた。それが近現代において、より個人の行動への国家による把握が進み、「婚姻関係においてのみ性的欲望を満たすことが許される、そして寛容によるおまけで、婚姻関係においてのみ同性愛的関係も許される」という運動が欧米を中心に起こってきた。その結果として生まれた歪んだ倫理観のもたらす不幸な帰結をこの作品は描いている。人が本気で恋愛で遊ぼうとしたらもっと暴力的にならざるを得ないのである。しかし作中キャラクターたちはまるで牙を抜かれたように、物分りが良すぎ、相手を押し倒したりなんか一度もしない。恋愛つまり性的欲望の他人を利用した充足は本質的に暴力である、という、否定しようがない現実。その否認。これはLGBT運動がもたらした結果なのか。あるいは、我々は単に暴力を排除しすぎたのか。

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