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【小説】マリオネットとスティレット【第八話】

*残酷描写アリ

第一章 暗殺ギルドの愚連隊

 このパラクロノスの街で娯楽といえば三つある。冒険者ギルドのダンジョン探索への出立式、暗殺ギルドの管理する娼館、そして傭兵ギルドの管理する闘技場だ。どれもこれも庶民にとっては大切な楽しみであり、それぞれに等級が異なる文化だった。闘技場は、娼館のように罪作りでダークではないが、日によっては……それ以下の悪趣味のこともある。
 今日は、限られた会員しか入れない日だった。夜だったが、活気と興奮、いや、狂気と狂奔によって、むせ返るような熱が通りに満ちている。街中に建つ石造りの円形劇場は、篝火と魔光灯に複雑な彩りで染め上げられ、死人が出る可能性が大いにあることを示す赤と黒の旗で飾られている。今日は血の祭り。通りでは子供連れすらいるが、中には入れない。そういう者たちは、闘技場前に群れなす傭兵ギルドの獣人たちの屋台から、この日のための特別な食べ物だけ買って帰っていく。石壁に丸く囲われた、聖なる、いや邪悪なる空間の中に入っていけるのは、傭兵ギルドに一定以上の寄付をしたものだけの特権だった。内部には階段上に観覧席が設けられ……人々は汗と唾と獣の叫びさながらの、狂気を発散することに熱中していた。
「ガズボ! ガズボ! ガズボ! ガズボ!」
 観衆が闘技場の人気戦士の名を連呼する。それに応えるように、毛むくじゃらの丸太のような腕が、闘技場の露天の闇夜に突き上げられる。それは魔光灯を贅沢に使った照明演出に浮かび上がり、勝利のシンボルとなった。わーっと歓声が上がった。獣人の名前を呼ぶ声は大きなうねりとなって会場を支配した。
 大柄な者が多く2メートルに達する者さえいる肉食系獣人の中でも、彼の体格は規格外だった。2メートル50センチ、300キロ。肉食獣にルーツを持つ獣人というよりも、もはや肉食獣そのものだった。
「闘士ガズボの勝利ぃぃいいい!!」
 魔力拡声器による司会進行の声に、人々が沸いた。ガズボ。闘技場の戦士。キャリアは17年になる、歴戦の英雄だ。闘技場の闘士は、色々な理由で一年保たずに消えていくが……。彼は特別な存在だった。
「グヒャヒャヒャ」
 必殺の噛みつき攻撃で血まみれになった口から、大きな舌がベロンベロンと躍り出る。巨体の足元には、それまで彼と死闘を演じていた獣人の死体がある。ガズボは針金のような毛とカランビットナイフのような爪が生えた足で、負かした対戦相手の胸骨をグッと体重をかけて踏む。パキパキポキポキと、籠状の肋骨がチキンの小骨のように簡単に折れていった。
 闘技場では、日によって死者のあるなしが厳格に定められており、子供向けの遊戯が催される時は、幼い子を連れた貴族の親子すら入ることができるが、今日はその正反対。傭兵ギルドは一つの参考データとして、死者数に統計を取るが……毎年この日一日で、一年の十分の一の死者数を叩き出していた。
「楽なもんだぜ、男なんてナァよぉぉお……」
 ガズボが牙も舌も顕わに、唸るように言った。
「やりきれねえ思いも、拳に込めれば力に変わるからな……」
 ガズボを対戦相手だったモノを踏みしだいて、すっかりただの血袋に変えると、今度は一気にその胴体を踏み抜いて、闘技場の地面に広がる、わざわざこのために輸入している舶来の白砂を真っ赤に染める。魔光灯の滲んだ照明に照らされた真紅の大きな華。一際大きな狂気の歓声が上がった。ガズボは貴族がお忍びで仮面をつけて観覧している観覧席を見上げた。闘技場の最下部からは見えにくいが、そこにはガズボとほとんど同じ体格と毛色の獣人がいた。周りには、普通の人はまず信じないだろうが、貴族の婦人たちを侍らせている。無論、彼女らは周りに身分も顔もバレないように、フルフェイスの革の仮面をつけている。他には際どいという言い方すら当てはまらない、金鎖で装飾された露出度の高い肌着だけを纏っている。今日だけ、奴隷か娼婦のように裸同然の格好になって、獣人にかしづく。膨大な金をスポンサーとして傭兵ギルドに送る、倒錯した性的嗜好を持つ貴婦人の絶対にバレてはいけない危険なオアソビ……。肉体的に絶対的な強者である獣人に抱かれ、その熱せられ膨らんだような胸板に、自身の柔らかな肉体を押し付けられる喜びを、存分に味わっていた。ガズボはそれを憎々しげに下から見上げる。
「グフフ、今日は特別な日だぜ、ザドワンよぉ……」
 ガズボとザドワンの視線がかち合う。その顔はほとんど同じで、血のつながりがあることがすぐにわかった。一つだけ明確に違うのは、見上げる方の瞳は黄色だが、見上げられる方の瞳は赤かったということだけだ。魔力拡声器越しの声が響く。片目で傷だらけの女獣人の甲高い声だった。
「闘士ガズボは今日! チャンピオン・ザドワンへの挑戦権を得ます! チャンピオン・ザドワン! 無敵! 無敗! 最強!」
 観衆が独特のコールをする。ザドワン個人を称えるためにファンの間で自然と決められた掛け声だった。ここでは傭兵ギルドに金さえ納めていれば、誰もが熱狂の観衆として、大きな渦の一部になれた。被差別種族の獣人も、ちょっと小金を手に入れただけの貧民街の住人も、下級貴族も、ギルドの小役人も、犯罪者も冒険者も暗殺者もみんなみんな、ひとつの血の饗宴に熱狂できた。
 一際贅沢に七色の魔光灯で彩られた、貴賓席のど真ん中で、貴婦人の裸体を撫でていた巨体が立ち上がる。古代趣味の、真っ赤なマントが翻る。それは丸太か石柱か、神殿の柱のような腕が横に大きく開かれた。
「ウオオオオオオオオ!!」
 まさに、雄叫び。観衆の熱狂を、オス一匹の雄叫びが上回ったのだ。さらに観衆が熱狂を乗せて、チャンピオン・ザドワンを讃えた。彼は真っ赤な瞳で、眼下の闘技場に一人立つ、挑戦者を見下ろす。その視線を受け止める闘士ガズボ。無言で気炎の鍔迫り合いをしているようだった。
 女獣人がガリガリしたノイズが乗った口上を続ける。
「チャンピオン・ザドワンは傭兵ギルドの大英雄! たった一人で死の獣人部隊の名を中央にまで轟かせたぁ! その剛腕は野戦砲の砲弾すら片手で受け止めるぅ! ここ数年、あまりの強さに挑戦者はァ! 絶無!!!」
 会場の盛り上がりは最高潮だ。来場者たちは口々に囃し立てる。
「ザドワンは大型獣人にして魔族の血の覚醒者! 誰も勝てねえ!」
「それにしてもガズボとザドワンって似てるよなあ……血縁関係なんかい?」
「知らねーよ。本人同士も知ってるかどうか。獣人なんて家族バラバラに売り払われるもんだからな!」
 やがて、ガズボへのコールは、ザドワンへのコールへと変わる。
「ザドワン! ザドワン! ザドワン! ザドワン!」
 それに対し、ザドワンは直立し、無表情で腕を再び突き出し、答える。貴婦人が針のような獣毛が生えた足に絡みつき、柔肌が剣山のような刺激で傷つくのもかまわずに乳房を押し付けている。観衆の人気と、ザドワン自身の泰然としたい様子に、ガズボはザドワンを睨む目つきを益々鋭くあいながら毒づいた。
「っち、魔族の血……魔族の血ねえ……ほんっとーに、憎たらしーぜ」
 ガズボの牙が、ギリっと鳴った。
 ザドワンの名を連呼する中に、黄色い声が混ざる。ガズボを呼んでいる。
「ガズボ様ああ!!」
「ねえ!! ガズボ様ぁ!! こっちを見てぇえええ!!」
 数人の若い女性だった。フリルのついたスカート、ひだのついた肩
……。安いドレスを着た一団だった。
「私を殺して食べてええ!!」
「腕も足も内臓も全部あげるからああ!!」
「お願いだから骨を噛み砕いてええええええ!!」
 大口寄付者の大商人に連れられ、特別に入ることを許された娼婦たち。なんでも、中にはガズボを応援するためだけに金持ちに取り入るものもいるんだとか……。応援だけで済みそうには見えなかった。ガズボはそれを見て、自分の一番のファンもちゃんと来ているな、と嬉しい気持ちになる。
「おう、女ども! 今日も集まったなあ!? へへ……ザドワンの野郎をぶっ殺した後、デザートは誰にしようかな……」
 肉フックのような鋭い爪の伸びた太い毛むくじゃらの指が、品定めするように客席の娼婦たちに向いた。キャーキャーという声がさらに高くなった。女たちの歓声に応えようとガズボは分厚い毛皮の下の肥大化した筋肉を見せつけるようにポーズをとった。娼婦の中には、失神する者もいた。
ザドワンへの歓呼、ガズボへの狂喜。会場はまさにクライマックスを迎えようとしている。それに覆い被さるように、魔力拡声器がキーンとなって、宣言する。
「ではお待ちかね、チャンピオン・ザドワンに闘士ガズボが戦いを挑む……といいたいところですがァ……」
 観衆がブーブーとブーイングをする。ここで一呼吸置くことは、すでにわかっていることだった。女獣人は興奮したようでいて、それでいて淡々と仕事をこなすような調子で煽る。
「なぁーんかまだ血が見足りないんじゃないかぁーっ!? 今日という、すでに一線を退いたザドワンが久々に戦うめでたいイベントの日にぃ、闘技場を染める血がこれだけでいいのかぁーっ!!」
 会場のみんながおお、と歓声を上げて答える。無論中にはザドワンとガズボの死闘を早く見せろとゴネる者もいたが……大半はこの闘技場の「仕組み」がわかっているから、空気を呼んで司会にあえてノセられる。
「今日闘技場の白砂を赤く染めてくれる生贄はぁーっ、中央からやってきた冒険者候補、セクシー女騎士! ギャラクシー・レディー!!」
 客席からギャハハ、という声が起こる。事情を察している者も、察していない者も、これから何が起こるかだけは知っている。ザドワンが見下ろし、ガズボが腰に手を当ててニヤニヤする中で、一人の女が連れて来られる。身につけているのは鎧だが……脛も腕も、普通は真っ先に守るべき部分は白い素肌が露わで、金属の鎧は胸と腰の、最低限度を遥かに下回る面積しか覆っていない。いわゆるビキニアーマー。興行用の衣装だった。戦闘の専門家の傭兵ギルドの人間は、冗談でもこんなものは戦場で身につけない。明らかにこの闘技場のイベントのための、戦闘服ではない、単なる衣装だった。女は、露わになった割れた腹筋や、脂肪の下に太い弾力ある筋が浮き上がっていて、体は鍛え上げられていることが一目でわかった。赤く長い髪は裏方によってセットされ、その顔は高価な化粧でメイクがされていたが……それは顔の大きなあざを隠すためであった。女は一振りの片手剣を持っている。しかし、切れ味が落ちていて、切先も半ば欠け、この闘技場の恒例イベントの剣闘士の戦いですら使われないシロモノ。明らかに、「試合」を意図するイベントではなかった。
「くそ、どうしてこんなことに……」
 女は小さな声で悪態をつく。元はと言えば自分のヘマだが……この事態は想定していなかった。魔力拡声器が鳴る。
「この女騎士はぁ……故郷を飛び出し! しかし! まともな能力もなくぅ! 街へ転がり込んでギルドの厄介になってもぉ! 返せる金もなかった!!」
 女獣人の解説に、会場は今までのシリアスな興奮から、別の色を帯び始める。血と、暴虐への期待、興奮。ザドワンを讃えていた声も、今やガズボへの要求とお願いに変わっている。
「血を! 血を! 血を! 血を!」
 闘技場の最も刺激的で違法なイベントが、今から始まろうとしていた。
「この女騎士の罪はァ!! この街を舐めたことぉ!! 冒険者ギルドでものにならずぅ、暗殺ギルドで娼婦になれずぅ、商人たちに借金をして我らが傭兵ギルドに転がり込んだぁ! そしてこう泣きついたんだぁ〜! 『どうかお金を肩代わりしてくださいぃ〜、なんでもしますからぁ〜』会場がどわっはっは、という笑い声に包まれる。近年、街で天体観測が話題になったせいか、ギャラクシー・レディーとかいうふざけた名前を付けられた女は、怒りを込めてなまくらの剣を握りしめる。
「出鱈目を……!」
 彼女は、実際は借金など全く関係なく、ただの中央のスパイだった。貴重な事務処理能力を買われ、傭兵ギルドの内部、会計処理にまで食い込んだが、魔法かアーティファクトの能力か、彼女が把握できない経緯で、完全に秘匿していた本来の身分がバレた。彼女は中央王権の騎士団所属、特殊工作を命じられるのは恥とも思っていたが……潜入して三年。街の傭兵ギルドの実情を、密かに中央王権に知らせることに、やりがいと手応えを感じ始めた頃だった。……その辺の事情は、観客の中にも察しのいい者がいて、大方そんなところだろうと想像はしていたが……誰も、それを暴いて見せて、傭兵ギルドを怒らせるような真似をしたいと思う者はいない。慈善事業でいい子ちゃんぶる暗殺ギルドなんかより、実際に民衆に恐れられているのは、傭兵ギルドなのだから。
 白砂の闘技場で巨体の獣人と対峙するギャラクシー・レディーの顔が、極度に真剣な血の気のない緊張を帯びた。
(絶対に生き残ってやる……)
 彼女が提示された条件は、「闘技場で勝てば無罪放免」。まさか本気にしてはいない。どうせ自分は惨たらしく殺されるだけ。それはそうだ。当然それが唯一の未来。しかし、一発殴られただけであとは紳士的な取り扱いや、答えたくない質問には答えなくていい尋問や、この闘技場の沸騰するような雰囲気に、女騎士は呑まれていた。ここでどうにかすれば、生き残れる。なんだかそう思えてきて、そこに自分の命の残り全部を、賭けるしかなかった。剣を一際強く握りしめ、数年間忘れていた剣技を思い出そうとする。
「お〜〜っと! ギャラクシー・レディー! やる気まんまんだァーーーっ!」
 会場の熱気が一層高まった。傭兵ギルドが、禁止されて久しい公開処刑がわりに、この闘技場を利用するようになって十数年。逃げ回る者もいれば、武器を捨てて泣いて許しを乞う者もいた。いかにこの街や傭兵ギルドが腐っているか、大声で訴えかける者も……。興醒めというほどではないが、やはり獲物は、全力で抵抗してこそ面白いものだった。
「ん〜……」
 ガズボは吟味するように、自分より遥かに小さい赤毛の女を見ていたが、ノシノシと無造作に歩み寄った。
「あっ、っく……」
 女騎士はそれだけで気圧されてしまう。近づくな! なんて、情けない声を上げそうになるのを、すんでのところで堪えた。何せガズボは2メートル半……。立ち上がったクマのようなもの。怖くないはずもない。だがそれでも、その接近はなんだか良き隣人が挨拶の抱擁のために歩み寄ってくるように殺気がなく、女騎士はつい油断してしまった。
「えっ?」
 気づいた時には、分厚い腕の一閃で、剣も手首も、吹き飛んでいた。
「ぎゃああああっ!?」
 バランスもクソもなく、両手が千切れた勢いで吹っ飛んだ女騎士は、白い砂の上に、顔も体も転げてしまい、口にも砂が入った。ガズボはフフっと笑ってしまう。平手打ち一撃でこれか……。本命との死闘の前の、準備運動にもならなかった。ガズボファンの娼婦たちが嫉妬でキャーキャー叫んだ。
「っ!? っは、はあ、はああ」
 女騎士は何が起こったか分からず、手をついて起きあがろうとするが、敵部の激痛に気づく。骨が折れたのか? だとすれば最悪だ……。吹き飛んだ剣を拾おうと探すが、伸ばした手に違和感がある。
「……え?」
 体を起こすことに成功して、膝立ちにはなれたが、そこまでだった。信じられないという顔で、手首から先が両方とも抉れ飛んで消えてしまった自分の手を、呆然と見ていた。観客がみな、本当におかしそうな声で笑った。女騎士の驚愕に見開かれた目が、ただのマヌケに見えたのだろう。
 ガズボはそんな女騎士の驚愕にもお構いなしに近寄って、その長い赤毛をむんずと掴み、引き上げた。
「い、痛い! いたたた!」
 頭皮が引き裂かれそうな、いや、実際ベリベリ引き裂かれて大量出血する女騎士にもかまわずに、ガズボは女の顔を引き上げて自分の顔に近づけてこう言った。
「おめえ、一応中央の騎士団所属だって聞いてたけどよお、ちょっと、弱すぎない?」
「ひい!?」
 肉と血のにおいがする吐息が顔にかかり、女騎士は震え上がる。一分前には彼女の心を満たしていた闘志も、生への渇望も、今はもう銀河の彼方へ飛んでいってしまった。今彼女の心には、恐怖だけがあった。
「た、たすけて……」
 手首のない腕を振り回してどうにかしようとするが、どうしようもない。ガズボはケッと悪態をついて、女の髪を放った。頭皮が剥がれてブサイクになると、自分も観客も興醒めなので、力を加減した。んぎゃっ、と、小動物が潰れる時の声を上げて白砂の上に放り出された女騎士は、手首のメチャクチャな傷口に砂がついて痛むのもかまわず、這いずって逃げようとする。生き残る1%の確率を掴もうとする騎士としてのプライドから、確実な死に備える覚悟ある騎士のプライドへの、スイッチング、転換、マインドセット。それはかつて教えられており、拷問椅子に縛られながらであれば、それをする心の準備もあったが……。もう無理だった。絶望的な生き残りの可能性も、確実に訪れる残酷な死も、直視することかなわず、ただ、生き汚く這いずり回る。それが、彼女に残された選択だった。
「ギャラクシー・レディー! がんばれー!」
 観客の誰かが冗談めかして、必死さを装った演技っぽい調子でそう叫んだ。その途端、会場は爆発するような大笑いに包まれた。女騎士は、剥き出しの背中も、筋肉の上に脂肪を乗せた豊かな尻も、隠すことなく露わにしたまま、凶暴な大型獣人から逃れようと這いずり続ける。その爆笑を浴びて、情けないやら怖いやらで涙が出てきた。頭皮が裂けて流れ出た血と相まって、化粧が溶けて顔が汚れた。
 ガズボが剥き出しの足を掴んで引きずって闘技場の真ん中まで連れて行き、持ち上げて宙吊りにした。
「あうう……」
 女騎士は、逆さになった世界で、ガズボの顔に目をやる。初めて、冷静な気持ちで捕食者の顔を見た気がした。泣きながら、ついこんな懇願が漏れ出るのを止められない。
「こ……殺して……せめて……楽に……」
「嫌です」
 ガズボはそうきっぱり言うと、宙吊りでのびきった女騎士の白い腹筋の、筋になっているところに、鉤爪のようになった爪を当てて、引き下げた。
「ぎゃあああああ!」
 垂れたハラワタが女騎士の逆さの顔に当たるのと、ガズボが吹っ飛ぶのは、同時だった。
「ぐう!!??」
 観客もガズボも、あまりに予想外の事態に、言葉を失った。乱入者だった。だが、ガズボと比べて明らかに小さい。ホワイトゴールドの髪に、革の肩当てのついた暗殺者のコスチューム。
「何やってんだテメエこういう殺しはすんなっつったろーが!!」
 一括。レカは、本気の怒りを自分の部下にぶつけた。レカの神速の、パンチなのか、タックルなのか、それも分からないくらいの一撃で吹き飛んだガズボは、白砂の上に倒れた体を起こす。
「あ、姐御……なんでここに……?」
 一瞬意識が飛んだのか、状況が飲み込めない様子で、レカが白砂の上を歩くのを見守るしかない。レカは女騎士に近づいた。瀕死だった。ハッハッハッ、と、極めて短い間隔で呼吸を繰り返しているが、きちんと肺が膨らんでいないのか、酸素を取り込むことができていない。腹は裂け、真っ赤な腸が、マフラーのように垂れ下がり、新しい鮮血がじわじわと滲み出て,白砂にどんどん染み込んでいく。
(助からねえ)
 レカは一目でそう判断すると、しゃがんで女騎士の首を突いた。迷走神経の化学的状況を一変させる一撃は、女騎士の脳に、電気が走るような感覚をもたらし、その意識を永遠に閉じさせた。バイタルパート、つまり首や頭部、胴体であれば、レカやタティオン、そしてスタヴロなど、暗殺ギルドの最上級暗殺者は、触れるだけで穏やかな死に至らしめる方法を学んでいるのだ。女騎士、いや、ここに至ってまでその名を明かさないのは、あまりに酷い。ドレミ・レピュセルは、その26年の短い生涯を、少なくとも死の瞬間には苦痛を感じず、一瞬で天に召された。中央王権から課されたその秘密の任務は、半ばだったが……。
 女の物言わぬ顔に手を当てて、その目を閉じさせ、立ち上がるレカ。あまりに衝撃的な侵入者に、しんと静かになっていた闘技場内がざわつき始める。
「あの赤目の女、覚醒か? 大型獣人の巨体を吹っ飛ばしたぞ?」
「なんだか知らねえ。だがときどき狂獣ガズボをひっぱって行くから、ただ者ではねえはずだ。今の一撃も、人間の速度じゃなかった」
「魔族の血の覚醒なら、女でも巨漢の獣人を圧倒できるな」
「アイツ! 冒険者ギルドの訓練所で格闘を教えてるのを見たことがあるぞ……っ!?」
 それまで静かにしていた貴賓席ですら、ヒソヒソと困惑の声が聞こえ出す。にわかにザドワンが立ち上がり、ほとんど全裸の女たちを脇に退けると、一気に飛び上がった。300キロの威容が宙を舞う。
 ドズン! 着地と同時に、観客も感じる揺れが起き、血飛沫が大いに飛び散った。女騎士の体の上に着地したのだから。観客席にも血がたくさん跳ねて、前の方の席からも、壇上の上の席からすらも、悲鳴が上がった。甚大な量の血を被ったレカは、顔についた血を手の甲で拭った。
「ザ、ザドワン!」
 ガズボがいきりたった。しかしレカの空気を通じて壁すら振るわせる怒声がそれを制する。
「黙って座ってろ!!! このすっとこどっこい!!!」
 闘技場全体が気圧されて静かになる。ガズボはニヤリと牙を見せ、腕組みしてどすんと腰をおろした。また闘技場内に小さな地震が起きた。
 ザドワン。闘技場のチャンピオン。レカは初めてこの男を間近で見た。目の前に、血まみれの足元など気にも留めない様子で巨岩のように聳え立っている。針の山のような茶色い全身の毛は、闘争本能の昂りと共に逆立ち、高い体温のせいか、湯気すら立っている。見た目は履いている闘技場の正式な腰巻きの色以外、ガズボとほとんど一緒で、見間違えそうだった。だがその目つき……。百戦錬磨のレカですら、ごくりと唾を飲む。ガズボの黄色い目が無邪気な大量殺人鬼だとするなら、ザドワンの赤い目は暴力の邪神だった。ザドワンの口が開いた。
「……オマエは闘技場の聖なる空気を汚した」
 レカは吹き出して、
「あっ、セーなるっすか、ハイハイ。傭兵ギルドの自己満大会も立派になったもんだナァ。まっ、今回のは凄惨なリンチだったけど。全てが紛い物の嘘じゃねえか、なあガズボ?」
 レカはザドワンが手を伸ばせば一瞬でその首を吹き飛ばされそうな距離で、後ろにいるガズボの方を向いた。ガズボですらヒヤリとする、大きな隙……。ガズボは冷や汗を垂らしつつ、レカに言葉を返す。
「……挑発はやめとけ、姐御……いくらあんたでも……勝てねえ」
 レカは後ろを向いたまま、心底疑問というふうに大袈裟に首を傾げてみせた。
「あれれー? じゃあなんでこれから挑もうとしてたんだ? あーしが勝てねーんだったらオメーが勝てるわけねーじゃん」
 ガズボはレカを睨んだまま、ペッと唾を吐いた。
「……ウルセー、男にはそういう時があるんだよ」
「オイ、女」
 ザドワンが、無視されていることへの苛立ちも顕わに、グルル、という肉食獣由来の獣人らしい唸りをあげた。レカはきちんとザドワンに向き直る。
「オマエ……我ら傭兵ギルドの興行を邪魔するのか?」
 レカは肩をすくめて笑みを浮かべる。
「さあね。でもさあ。このままこの茶番が進んだら、こいつ死ぬだろ?」
 レカは拳を挙げ、後ろのガズボを親指で指す。
「こんなバカでクズでゴミ野郎の札付き快楽殺人者でも、一応は死なれると困るんだわ……なんとかなんねえ?」
「暗殺ギルドめ」
 ザドワンはそれだけ言うと、深く深く、深呼吸をした。レカの周りの空気がいっぺんになくなり、血と獣と何かの薬品の匂いになって吐き出される。レカはその中の、タバコにも似た薬品臭を気にしたが……詳しい化学物質の名称までは思い浮かべられなかった。暗殺者として毒に精通する彼女だが……それでも最近の科学と魔法の進歩は著しい。知らない物質があっても不思議はない。だがとにかく、目の前のヤク中と話をつけなければならないことは確かだった。
「知っているぞ」
 ザドワンが威厳たっぷりの調子で言う。
「ガズボは暗殺ギルドの……」
 レカは慌てて反応する。
「あーあーあーあー!……それ極秘なんだけど……頼むわ、黙ってて?」
 気まずそうな顔で口に一本指を当ててシーっという仕草をする。観客たちを見渡すが、皆ざわざわと口々に今の状況について語っていて、事態を飲み込めないようだ。女騎士の血がドバッといった方は、まだ掃除と着替えであたふたしている。レカはふうっとため息をついてザドワンに向き直る。ザドワンも、先の一撃を見ているから、レカの神速の攻撃は警戒している。隙だらけに見える態度も、舐めてかかったりしない。
「我はお前ら……暗殺ギルドと本気でコトを構える気はない。だが、興行の頂点であるこの良き夜の、夜劇(ソワレ)を意味もなく邪魔されて黙っているわけにはいかない」
 レカは首を傾けてうーん、と悩む声を発する。白っぽい金髪の房が頭から垂れてゆらゆらした。
「んー……どうしよっかなあ。そこまで怒るんだったら……」
 後ろで呑気に座ってる獣人の方を向く。
「ガズボ? 死んどく?」
 ガズボは大袈裟な驚き方をする。
「ええっ!? 姐御、俺を助けてくんねーの!?」
 レカは呆れる。
「……さっきまで死ぬ覚悟あるっぽいこと言ってなかったっけ」
 ガズボは白砂の上に背中を投げ出して、子供のように手足を振り乱していじけてみせた。
「ええーっ! 姐御に見捨てられるのはやだやだー! 死ぬよりヤダー!」 レカはもう見るのも嫌になって、首を戻して心底嫌そうな引き攣った笑みを見せてこぼす。
「……やっぱ見捨てようかなあ……」
 ザドワンが太い声を出した。
「ゴタクはいい!」
 威圧的な声に、ピリッとした空気が戻り、ガズボもふざけるのをやめて座り直す。レカの赤い瞳と、ザドワンの赤い瞳が、真紅の光線の火花となって、押し合いでもするように向き合った。
「女。貴様、暗殺ギルドでも相当な腕ではないか? その目……あの老人と同じ……暗殺ギルドにはほとんど魔族の血の覚醒者はいないはずだったが」
 レカは屈託のない少女の笑みで笑う。
「へへっ。希少種なんで」
「……面白い。名は?」
 レカは一瞬口籠る。どう答えるべきか。
「レカ」
 結局、一番シンプルに答えた。そして、予想された反応が返ってくる。
「ファミリーネームはナシ、か。我ら獣人と同じ、奴隷の子か……あるいはもっと下の……」
 ピリッとした空気が、巨体の獣人と暗殺者の少女の間に流れる。典型的な挑発だったが、レカには刺さったようだった。
「……デカブツ。テメエの名は?」
 傭兵ギルドのチャンピオン・ザドワンと言えば、街の中間層だろうと貧民街だろうと似顔絵入りのチラシが配られ、誰もが知る有名人だ。傭兵ギルドの先触れによって、徴募兵の誘い文句と一緒に、戦場での数々の伝説も何度も何度も語られ、この街でザドワンの存在を知らない者を探す方が困難。しかしレカは、挑発のお返しとして、その名を改めて要求した。直立不動の二人の魔族の血の覚醒者の間の、パチパチと電撃が弾けるような緊張が、一層高まった。
「ザドワン」
 巨躯の獣人が無造作に言った。そして構える。腰布を巻いた大きな要塞のような腰を落とし、足を大きく開いた構え、前へ出した右手の、鉤爪のような、曲がったナイフのような、そんな爪が生え揃った5本の指が、傭兵部隊の長槍パイクの槍衾よりも危険なオーラを放つ。にわかに監修がざわめいた。そうだ、チャンピオン、俺たちの血の饗宴を邪魔したクソ女を殺せ!
「や、やれ……!」
「やれ、やれ、やれえ!」
「ザドワン! ザドワン!」
 最初は控えめだった声も、ザドワンが構えたことによって、だんだんとまとまっていく。やがて、
「女を殺せえ! 女を殺せ! 殺せ殺せコーローセ!」
 狂気めいたものへと収束していく。先ほどの、ギャラクシー・レディーとかいうふざけたリングネームの女騎士のことは、すっかり忘れられてしまったようだ。ザドワンが腰を落とした時に、粉々になった彼女の体が、白砂に混じってわからなくなってしまった。レカも臨戦体制に入る。
「これが」
 先に構えたザドワンが言った。
「この興行に水を差した罪への償いだ、小娘。我と戦え、暗殺者レカよ」
 レカも構える。腰をさほど落とさずに、両手を少し横に開く。笑みこそ消えたが、軽口は続く。
「……あっそ。勝ったら、あのバカ、持って帰っていい?」
 いつもは堅物のザドワンも、それを聞いて流石に愉快そうに口角を上げ、牙を見せた。
「言っておくが、この闘技場に黒い旗がかかる日は、夜劇(ソワレ)の日。どちらかの死だけが決着だ」
 レカは馬鹿にしたように笑った。
「へー……っま、殺さずに無力化する方法なんざ、いくらでもあるかんなー。暗殺者として訓練受けてるんで。穏便に済ませましょーや」
「姐御ぉ!」
 そこで叫ぶのはガズボだった。
「やめとけって! 流石にあんたでも無理だって! 姐御が俺以外に殺されるとこ見て、それで下がったテンションでザドワンの野郎と戦いたくねえ!」
 レカはため息をつく。
「勝手なこと言いやがって」
 そしてスーッと息を吸うと、次に吐いた息は……暗殺者の息吹だった。
(ほう?)
 ザドワンは構えた手を越し、数歩先で立つ女暗殺者に素直な賞賛を感じていた。特殊な呼吸法。ザドワンは暗殺者の刺客を何人か撃退したことがあるが、誰もこんな芸当はできなかった。まるで呼吸していないように見えるのに、間違いなく力を漲らせている。静かの中の動。その理想形。
(我がまだ個人との戦いに楽しみを見出せるとは……)
 ザドワンの足が動く。手が動く。
(本当に素晴らしい敵だ。感謝……)
 それがレカの間合い、制空圏、攻撃をすればギリギリ届く距離に、触れるか触れないか……そのタイミングだった。
 闘技場の外の動きにレカとザドワンが同時に気づき、そしてその直後に彼らが雪崩れ込んできた。
「冒険者ギルドだ! 全員その場ぁ! 動くな!」
 悲鳴、怒号、ざわめき。次々と闘技場に入ってくる男たち。唐突に魔光灯の照明が全て消え、ほんのわずかな演出用の篝火と、侵入してきた冒険者たちの魔力の光だけになる。暗くなった客席で、人々が押し合い、将棋倒しの危険も生じたが、冒険者たちは構わないようだった。少数の女の冒険者が、クリスタルが闇の暗さに仄かに光る、魔法の杖を掲げる。望まぬ来客に対応しようとする獣人の傭兵を、魔法のリングで傷つけることなく捕縛する。強制捜査のリーダーか、中年男性のよく通る大きな声が聞こえた。
「この闘技場ではアーティファクトの無断使用の疑いがかかった! 使用されている魔力道具を全て供出してもらう!」
 片目の女獣人が、悪態をつきながらも抵抗虚しく縛り上げられ、魔力拡声器が取り上げられる。もはや白砂の闘技場は闇世の暗闇に支配されている。そこで腕を組んで立ち、真っ暗な客席で魔力の杖の光がチラチラしているのを眺めていたレカは、少しまずい事態が進行しているのではないかと勘ぐった。
(思い切ったな、冒険者ギルド……)
 アーティファクトの無断使用。その罪状で、魔法科学ギルドからの依頼を受け、冒険者ギルドが動くことはある。だが流石に傭兵ギルドの本丸とも言えるこの闘技場に、あまりに街の環境に大きな影響を与えるアーティファクト……例えば、魔光灯のための魔力供給用パワーラインを使えなくさせてしまうとか……が、あるとも思えず、レカの闇夜を見通す視覚で司会進行がいたあたりの席を見るに、冒険者たちは魔力拡声器を弄っている。こんなモノ大したものであるはずもなく、明らかにそれを口実としたガサ入れだった。大半の聴衆は、あたりを冒険者たちが制圧していくのを、座ったままブーブーとブーイングをするだけだった。貴賓席にいた裸のような格好をしていた貴婦人たちは、もうどこかへ逃げ隠れてしまったようだった。もはや闇夜同然の暗さの中、大捕物の怒号だけが聞こえる。レカの肩に誰かが手を置いた。大きな分厚い、鋭い毛が生えた手だった。
「姐御ォ! なぼーっとしてんだ! 冒険者ギルドの鉄錠級はやべえ! わけわかんねえ魔法で捕縛されちまう! ずらかるぜ! 姐御!」
 レカはそれには応じず、目の前のもう一人の大型獣人を見た。目下、自分の主催するイベントがめちゃめちゃにされているのに、この男は微動だにしない。
「おい、ザドワン。これでいいのかよ」
 とレカが声をかけるが、獣人のチャンピオンは無視して違う話をする。
「我ら傭兵ギルドとしても、まだ暗殺ギルドとは戦いたくない。今回のオマエの乱入は、この冒険者ギルドのガサ入れの一環の、撹乱作戦ということにしてやる」
 レカは金色の眉を片方あげて訝しむ気持ちを露わにした。後ろでガズボが迫ってきた鉄錠級冒険者を唸り声で牽制している。レカは冷静にザドワンに返答する。
「そりゃどーも。まあ、ちょっと流石に入るタイミングとか申し訳なかった……とは、今は思うわ。すまんかったね」
 ザドワンは笑みを浮かべたようにレカには見えたが、流石に暗さのせいではっきりしなかった。
「そうか。ところで……」
 レカは去ろうとしたが、この腹の底の読めない大型獣人が、何か大切なことを言おうとしていると気づき、まだ耳を傾けることにする。
「そのガズボという男……間違いなく、我が弟ではあるのだが。それは真正のクズだぞ」
 弟。レカにとって、意外でもない情報だが、興味はなかった。
「あー、それについてはよく知ってるぜ。っま! とりあえず今のところはあーしが預かっとくぜ。ガズボのおにーちゃん。傭兵ギルドを獣人として登り詰めるのは大変だろーが、あんたみたいなのは好きだぜ」
 それはレカの本心から出た言葉だった。闘技場に乱入して闘士であるガズボを連れ去ってしまうというのは、どうせ冒険者ギルドの乱入でこうなってしまうとしても、悪いことをしてしまったという気持ちは拭えない。
「ふふっ」
 そんな下手に出るつもり十分だったレカだが、ザドワンが漏らした声に不快感を覚える。
(あぁ? どういう笑いだ? なんか不気味だな……)
 ザドワンがレカをまじまじと見た。これまで冒険者ギルドの動きばかり見ていたのが、急にレカに向いた形。その時、レカは久々にゾッとする感覚を得た。浴びせかけられた赤い視線は、狂気を爛々と放っていた。単なる興行を邪魔された怒りとは到底思えない、名うての暗殺者であるレカを心底ビビらせるに足る視線だった。
「では、また我と会えるかな? 暗殺ギルドの若きスティレットよ」
 だが射すくめられるレカではない。ケッ、と興味なさそうな声を漏らすと、踵を返しながら、吐き捨てるように、
「機会があればにゃあ」
 と言った。ガズボが唸り、暴れ、冒険者の中の何人かが吹き飛んだ。防御魔法が発動し、怪我には至らないようだった。その方が都合がいい。こんな場所にたまたま暗殺ギルドの人間がいて、非公式の裏部隊のメンバーが冒険者ギルドの人間に危害を加えたことが知れたら、自体がどう複雑になるかわからない。レカはガズボの腰巻きを引っ掴み、自分の五倍の体重を持ち上げ、肩に担いで走った。
「ちょ、ちょ、ちょ! それだけはやめてくれって言ったろ! クソ姐御ぉ!」
「言ってる場合か! ずらかるぞ!」
「ザドワンの野郎とイチャコラチンタラ話してたのは姐御だろぉ!」
 「大型獣人を持ち上げて走るホワイトゴールドの髪の女」という、言い逃れできない目撃証言が生じる可能性……。それを極小化するため、ガズボの肉と毛皮をカモフラージュにして、レカは闇夜を低く走った。邪魔する者は、冒険者だろうと観客だろうと、ガズボの尖った毛の生えた巨体をぶつけて進む。闘技場を囲む冒険者の陣が見えたが、受けるダメージは全てガズボに任せ、即席のバリケードを含む包囲網を壊しながら、本気で走り抜けた。冒険者たちはあまりに一瞬のうちに猪突猛進の茶色い毛の塊の存在が走り抜けたので、事態を把握できなかった。翌朝になってから、闘技場で飼育していた魔獣が逃げ出した可能性アリとか、そういう見当違いの報告を上げた。

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