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【小説】マリオネットとスティレット【第七話】(序章完結)

 魔光灯のランプが一個あるだけで、ベッドの質だけが目立つ部屋だった。来客用ではもちろんなく、装飾は簡素を通り越して、内装はほぼないに等しい。隙間風を防ぐために大きな窓すらない。唯一、暗殺者だけが身を縮めてスルッと出入りできる、壁の小さな穴があり、それはいつもは隙間風防止の皮革と紙でできた風防で覆われている。断熱のために、壁は分厚く、木材がそのまま剥き出しになっていた。
 レカは久々にふかふかのベッドで寝ることができた。来客用のそれではなく、毛布の一番上に毛皮をかけることができた。獣人による憎悪や破壊行為の対象となる毛皮は、その高い防寒性能に比べ、街での使用の機会は少ない。獣人を含む部外者が誰も入らないここなら、存分に使用できる。水道もまだまだ珍しいこの街だが、備え付けのシャワーは問題なく、アーティファクトで清められた清潔な水を提供した。久々に人心地ついた彼女は、沸騰する魔界の沼が、やっと冷えて固まったかのように、ドロリと眠っていた。
(おとーさん……)
 彼女はこの夜、本当に久々に幸福を感じたのだった。仕事をして、その失敗を許され、眠りにつく。疲労が、オーブンの熱でじんわり溶けるバターのように消えていく。目の奥の重いつかえが、やがて軽やかな爽快感へと入れ替わっていく。これ以上ない幸福だが……やっと、その幸福の裏から、忘れてはならない存在が這い出てきた。
 笛の音だった。暗いところにいたレカに、笛の音が聞こえてきた。聞き覚えのない、ピーっという、ともすればヤカンのあげる沸騰の悲鳴のような音だった。レカは走った。身につけているものもわからない。自分の手足が動くのだけは信じられたが……。いつもの精緻な動きは望むべくもなかった。真っ黒な粘り気の強い、魔界の沼の泥のような空気の中を、なんとか進んでいるような……。また、ピーっと鳴った。ついにレカは思い出す。
「ケン!」
 声にならない声だった。呼んでいるのに、届いている気は全くしない。同時に、これは夢だという強烈な気づきも意識した。そして、自分の肌を取り巻く黒いドロドロが、罪悪感と呼ばれているものであることも。レカは叫んだ。海に落ちて肺にしこたま水を飲んだ者が、ホオジロザメが迫ってくるのを見て、水を押し出して恐怖と窒息で死ぬ時の、破裂するような悲鳴だった。
 次にレカが気づいた時、彼女は地上にいた。貧民街の街の通りだった。あたりを見回す。人、人、人。さまざまな階層や種族の住人が、祭りの時よりも多い人数でごった返している。まるでこの街はもう人が満杯だとでも言うように。レカは自分の体を確かめる。もう服を着ている。暗殺任務の時に着る、皮の肩当てとぴっちりするボディスーツ。しかし、異変があった。
 ぬるり……。
「ヒッ!?」
 レカが腹のあたりにやった手に、油っぽい液体を感じる。これは知っている。手触りでもうわかる。手のひらをひっくり返して見てみると、真っ赤だった。
「うわあぁ!?」
 そういえばこの夢はモノクロだった。商業地区の張り紙のように、強調したい部分だけを赤く塗る技法。そのように、レカの目に鮮血の赤だけが目立つ。人が避けていく。レカはそれを見て、親に手を引かれる幼児が、逸れて置いていかれる時の気分になった。レカは血まみれを手を差し出して助けを求める。その時、天から声が響いた。
「レカ! レカ! 仕事だ! 始末しろ! 殺せ殺せ殺せ!」
 タティオンの声のようにも、そうでないようにも思えた。レカはいつものように戦闘モードの心境にスイッチを切り替えるように移行して、周りの人間たちを殺しまくった。あるものは鋭く固めた指先で胸を抉り、あるものは脱力して勢いを増加させた手のひらでぶっ叩いて首を飛ばし、あるものは蹴りで腰の骨をぐしゃぐしゃにした。モノクロの景色の中で、レカだけが赤い色を咲かせることができた。それは生命の、生きた証でもあった。レカにはそう思えた。レカは、群衆を進む。殺し切れたものも、殺し切れなかったものも、無傷で逃したものもいる。だんだん赤い色の方が増えてくる。この世にはいらない人間も獣人もエルフもドワーフも貴族もギルドメンバーも冒険者も錬金術の科学者も商人も暗殺者も傭兵もみんなみんな貧民街のゴミ捨て用の通りのゴミみたいにぎゅうぎゅうに集積されていて、レカはその間を殺しの技術で肉をかき分けて泳いでいるような気分になった。
 そんな暴力的な夢に苛まれて、レカは目を覚ました。窓はなかったが、レカは勘で寝過ぎてしまったことを意識した。毛皮の布団の中で、ぐっしょり濡れた肌着を変えて、簡素な街の娘の服を着る。工場労働する女性のための、動きやすい服装……。あまりそういう格好でギルドの本部がある中層や、貴族の住む上層を歩くと、娼婦に間違われるような……。暗殺ギルドの屋敷の者には見つからずに、すぐに去ったほうがいいということだ。タティオンがそれを織り込み済みで用意させたものだろうし、それは気にならなかった。
 レカは、暗殺ギルドの暗号のサインを残していく。タバコの吸い殻や食べ残しの骨、棒状のものが複数あったなら、どんな素材でも描くことができる図形のコード。日々変わる乱数で管理された数十種類のサインの中で、レカはあるものを使用する。部屋にあったマッチ棒で、十字を組み合わせた図形を作った。暗殺者の世界の感謝の印で、下級の暗殺者が、任務中に、自分では存在を知ることすら許されない上級暗殺者の支援を受けた際に使う。同じ暗殺者以外の誰にもバレずに感謝の意を示す方法だった。
 隙間風を防ぐ風防を開け、狭い窓を曲芸さながらの動きでスルッと通って外に出る。その途端に思った。
(あちゃー……あーしにしては……やっちったなあ)
 空の眩しさに耐えながら壁を登ると、屋敷の屋根から見た太陽は、大時計塔の尖塔の、横を掠めるくらいに位置していた。寝過ぎたにしても、ちょっとやってしまったな、とレカは反省した。
(そんなに疲れてたのか? そこまで動いてねーけどなあ)
 まだ、精神的ショックによって心が倦み疲れていた、という可能性を自覚できないくらい、彼女は若かった。寝慣れないフカフカのベッドで調子が狂った体を、お日様に浴びせて伸びをすると、レカは貧民街へ向かった。途中、獣人名物の屋台で、何を買おうか思案しながら。ベルゼ司祭のことも、ケンのことも、リリアのことも、考えなかった。それがレカの、生き方だった。非公式の正義でない暗殺者として、罪悪感の泥沼にハマらないための……。

*****

 その罪悪感を濯ぐためだろうか。タティオンが葬式に出ろと言ったのは。レカに父の真意はわからない。ただ、言われたことに従うまでだった。これまで彼女は……殺した標的を思い返す機会に恵まれたことはない。
 貧民街で腹を満たした後、レカが救貧院に到着したのは、昼を大きく回っていた。すでに棺が運び出されるところだった。大きな黒いものと、小さな急拵えの、何も塗られていない木材そのままの生成りの箱。
「レカさま!」
 棺を担いでいたこの救貧院の地元ボランティアたちを先導する、喪服の一人が、鈴のような声をあげた。しかし、それはいつもの調子ではなく、引き裂けそうな危うさが……。
 救貧院の敷地の入り口で、レカは立ち尽くしていた。やっと、頭が動き始める。
(あーし、どんな顔をしてるんだろう)
 当然の疑問だった。父に似た端正な顔。赤い瞳。銀のパーティクルが美しい豊かなブリーチしたような金髪。いつもは思い浮かぶ自分の姿が、今は茫漠とした霧の中だった。
 リリアは、葬儀の最中にどうしたものかと振り返ったりあたふたしていたが、レカに駆け寄ってくる。今までの仕事で疲れていたのか、ちょっと走っただけで息を切らした。
「二人が……ベルゼ司祭とケンが……」
「聞いた。暗殺ギルドの人から」
 レカはどんな屈強な標的と対峙した時よりも緊張を感じる。健康的な唇も、今は青ざめているだろうと思った。自分を見失っているような気持ち。リリアが自分を見ただけで、今回の真相を見抜いてしまうんじゃないかという気持ち……。
「リリア」
 陽気でちゃんらんぽらんのレカの、いつもとは全く違う鎮痛な声。リリアは、それを昨日あったばかりの人の死に驚いているからだと解釈した。
「リリア、詳しく教えてくれ。今日、葬式があるとしか聞いてなくて……」

*****

 救貧院、孤児院、そして死者の眠る墓地。敷地内で、組織は完結してしまう。穴が掘られ、埋葬の準備が進む。地元で協力を申し出てくれるのは、廃墟暮らしに追いやられた、貧民街でも弱者である老人たちが多い。棺を担ぐので疲れ切った彼らは、黒いローブを身に纏って、暗殺ギルドの下級暗殺者が、雑用として墓穴を掘るのを見つめていた。誰も彼も寂しそうだった。シワだらけの苦労顔を並べて、たくさん人数ばかり多いのに、みんなたった一人でベルゼ司祭とケンの死の悲しみに耐えているようだった。子供達は、いよいよ土をかける時に、並んで出てくる手筈だった。
「あの人は……ベルゼ司祭は……」
 リリアとレカは、老人たちが黒く取り巻いた墓地の中心の、その外側で二人で立っていた。レカは静かにリリアの話に耳を傾ける。沈黙で哀悼の意を表する以外、彼女にはどうすることもできなかった。彼女の罪悪感という血に塗れた手を隠してリリアの隣に立っているのは、それしか方法がなかった。
「司祭はね。真の意味で絶望していたの。無力で、謙虚で、素直で……だからこそ、中央の教義を曲げて、貧民街の口伝えだった拝魔王教の教えを、独自にまとめ出したんだと思うの。民を救えるのは民自身。きっとそう信じていたのね……」
「うん」
 レカはかろうじてそれだけ言った。悲しみとは違うものがレカの顔面の血の気を奪っていたが、リリアは気づかない。
「貧民街ではね、神様も魔王存在も一緒くたなの。中央の正統な教義を伝える人なんて、いないから……。ベルゼ司祭は、それをよく理解してくれてたわ……。邪教だの異端だの、強い言葉を使う人はいるけど、目の前の苦しむ人向けの説法をしちゃいけないの?」
 レカは昨日のベルゼ司祭の様子を思い浮かべる。ああやって、何十年も民に語りかけてきたに違いない。そしてそれを終わらせたのは……。罪悪感が神経までも侵す。自律神経が異常をきたし、レカの手から体温が消えていった。リリアは墓掘りの様子を見守りながら、話を続けた。
「ベルゼ司祭はね、前は獣人の子も保護してたんだよ。傭兵ギルドがみんなとってっちゃったけど。彼らの中には、故郷の宗教を信じてる人もいて……。中央の教義を教えている人がまだいた頃は、みんな混乱していたんだって。それでね、病に冒されて、どんどん毛が抜けていく症状の獣人がいたの。魔法科学ギルドの調査官が来て、治してあげるよって言って……でも、本当は人体実験してたんだって。その獣人の子は、すごく苦しんだんだって、辛そうに言ってた。ベルゼ司祭は、保護者としてすごく悩んだの。その子を少しでも長く生かすことができるのは、魔法科学ギルドの医術だけで、でもあいつらはその医術を獣人の子の苦しみを和らげるためには使わなくて……ある日、ベルゼ司祭は、毛が完全に抜けて人間の赤ちゃんみたいになったその子の肌をさすりながら、言ったんだって。自分が神様に言って、お迎えを、早くしてもらおうか? って。天国へ早く入れれば、もう苦しまなくて済むって。その時の司祭は、中央の教義に殉じていて……ほら、自殺は禁じられているでしょう? それでも見かねてそう言ったんだって。苦しまずに死ぬためのお薬は、暗殺ギルドに頼って、司祭がなんとかするって。そうしたら、その子は犬そっくりの長い鼻を振って、言ったんだって。『ボクはね、司祭さま。生まれてから一度も、役に立ったことなんかないんだよ。獣人の人たちからも、人間の人たちからも捨てられて、自分を価値がない存在だと思ってた。でもね、今すごく嬉しいんだ。魔法科学ギルドの医者の先生は優しいんだ。きっとよくなるよ、きっとよくなるよって、すごくボクによくしてくれる。だからボクは決めたんだ。先生のために、諦めたりしないって。絶対良くなるって。ああ、神様のお迎えがあるだなんて、そんなことは、あの先生に言っちゃダメだよ? 先生は神様のことをよく知らないんだ。そんなのいないんだってさ。でも大丈夫。ボクは先生のおかげで、きっと良くなるから』
 喋っている間リリアは、どんどん涙が混じっていって、ついに嗚咽になって、レカの方に倒れ込む。レカはそれをしっかと掴んで抱き止める。リリアは泣くことに夢中だったが、レカは体温の低さのせいで、バレてしまわないか、心配だった。リリアが泣きじゃくるのがおさまる。レカの腕の中で、リリアは語り続ける。
「……その子が死んで、魔法科学ギルドが死体を持って行ったの。ひどい……ひどいよね。あんまりだよね……。だから私、魔法科学ギルドの人が許せなくって……テルのことも、実は苦手なんだ。時々、感情が溢れそうになる。えっと、それでね。ベルゼ司祭は一度、魔法科学ギルドの評議会に呼ばれたことがあったんだって。理由はよくわからないけど……。貴族の屋敷に招かれて行った時、爆弾をローブの下に巻きつけて行ったんだって。でも、当時の火薬は質が悪いし扱いも難しくて、司祭が蝋燭で火をつけようとしても、爆発しなかった。まだ魔光灯がない時代のことなんだよ? それでね、煙が出て、それだけ。結局、余興だと思われただけだったの。まだ十代だった、今のアロエイシス家の当主、ロドヴィコ・アロエイシス卿が、自分が仕組んだサプライズだと言って、その場をおさめたそうよ」
「それって……」
 レカが喋る。声が喉の震えとして抱きしめたリリアの額に伝わった。リリアはそれを合図みたいにして、レカから体を離した。リリアの黒い瞳には、レカにははっきりと、宿っているものがわかった。
「テルのお父さんだよね」
 リリアの声だと、思えないくらい冷たい声だった。レカはもう感情がぐっちゃぐちゃになった。自分の罪も忘れて、この街のあまりに大きな理不尽の大渦に、引き摺り込まれて溺れていく感覚を覚えた。レカも泣いた。もう泣く資格があるかどうかではなかった。ベルゼ司祭とケンを悼む涙ではなく、この街の暴力に恐怖した後で服従するような、そんな涙だった。
 リリアが泣く。
 レカも泣く。
 腹違いの姉妹は、強く抱き合って泣いた。 
 どちらがどちらに縋りついているのか、倒れそうなのを支え合っているのか……。レカはもう泣く資格なんてないのに、泣くことしかできない。ただ、悲しかった。誰のことを憐れんで泣くのではなく、どうしようもなく高く分厚いこの街のの理不尽の壁を、何度叩いても破れない、そんな無力な自分への、やるせなさ……。だが、レカもまたそんな街の理不尽の一部なのだ。あそこで埋められていく罪なき人は、誰が殺したのか、誰が殺したのか。
 ……誰の手によって暗殺のスティレットになろうとも、刺された誰かは死に、遺された誰かは泣くことになる……。レカはそんな当たり前の気づきに至る、予感のようなものの手前まで来ていた。気づきはドアだった。手をかけるところが罪悪感の棘で装飾された血のドアだった。手をかけて、握りしめて自分の血を搾り、痛みに耐えて重く悲鳴のように軋む扉を開ける。それさえできれば、この街の悲劇の構造に気づき、殺しと決別し、高潔なるテルと結ばれ、その理想へ向けて、共に全力で邁進していける……。そんな未来もある。しかしそれは無理だ。なぜならそのドアの向こうには、昨夜の夢で垣間見たような、レカの罪が、溢れんばかりに詰まっているのだから。レカが、たかだか十八歳の小娘が、たった一人でそれに立ち向かえるというのか? それはあまりに現実離れしている。レカほどに愛と殺しと涙で汚された人生が、そう簡単に光のなかへと向かえるはずがないのだ。テルーライン・アロエイシス。レカと違って、まだ誰も殺していない少年。彼との間に築かれるだろう、強い絆をもってしか、レカは……。
 少なくとも今はこうして、泣く資格がないにも関わらず、腹違いの妹と、互いに心も通じないまま、抱き合って泣くしかなかった。それがこの街の有様だった。奴隷として連れてこられる亜人種も、十二時間かまたはそれ以上の労働に苦しむ労働者も、ギルドに人生を捧げてそれでも報われない多くの一般人も、全てがかわいそうだった。
 やがて墓穴は掘られ、子供達が順番にやってきて、この街の貴重品の花もなく、ただ土だけをかけていく。大時計塔の向こうに行ってしまった太陽が、向こうでも地平線に隠れたようだった。篝火以外、真の闇が墓地を覆った。大時計塔が、ゴーン、ゴーンと、廃墟の崩れそうな壁がビリビリ震えるくらいの、鐘をうちならした。日に2回の鐘の音は、歴史の中でいつの間にか、始業と終業の合図ということになっている。貧民街には人が帰ってきているはずだった。しかし最下層のここまでは、誰もやってこないだろう。
 夜、レカはリリアを上まで送り届けるつもりだったが、リリアは救貧院に泊まるという。急にベルゼ司祭を失った子供達の悲しみと困惑を、癒さなければならないのだとか。レカは頷く。
「立派だよ、お前……」
 自分とは違って。という言葉は、飲み込んだ。去り際、リリアは、ピュロロ、と、綺麗な音色を聴かせてくれた。レカは……。暗闇が彼女の反応を隠した。
「リリア、それは……」
「へへ、あの子に会った時にあげたもの。一緒に埋めてあげられなかった。だめだよね、あの子のだもんね。お墓に返して来ようかな……」
 レカの脳裡に、昨夜のケンの綺麗な瞳が思い出された。なぜ、なぜあの子は、笛を吹こうとしたのだろう。もちろん、レカがそのことに過剰反応して、自分を殺してしまうだなんて、思うはずもなかったが……。
 どうして……?
 レカの口が動いた。もう、緊張で乾いてしまったせいで、自分で思ったような声が鳴らなかった。まるであの子の吹く笛のように、自分で自分の音がわからなくなっているのかもしれないと、レカは思った。リリアは、レカの曖昧な言葉に、なかば自分に言うように答えた。
「……なんで、笛なんかあげたんだろうね。耳が聞こえない子なのに、おかしいよね。でも、あの子、声だってろくにあげられないし、笛を吹くと音が出るって、分かってたか怪しいけど……でも……」
 リリアは小さな笛を額のところへ持ってきて、また泣いた。黒い髪がさらりと笛に被さった。
「あの子、絶対に何か伝えたい時に、これを吹けば、みんな反応してくれるって、知ってた……どうして、どうして……私たちは笛の音で聞いただけで、何を伝えたいかわからないんだろう……」
 理不尽と暴力と陰謀の街の、一番下にある廃墟の中で、リリアは暗殺ギルドでただ一人の聖なる娘として、死の残酷に涙した。レカはそれを、もうどうしてやることもなかった。抱きしめて、レカも額をリリアの額にくっつける。間にケンの笛があった。もう、何も聞こえてこなかった。

*****

 テルが司祭とケンの死を知ったのは、それより後だった。学業と、将来担うことになる家の仕事、つまり魔法科学ギルドの評議会としての振る舞い方を学ぶことは、多忙を極める。この前救貧院で一日過ごしたのなんて、少ない休日を丸々使ったのだ。テルは救うべき人々との時間を大切にしていたが……あらゆる「やらなければいけないこと」の間で、引き裂かれそうになっていたのも確かだ。
 レカとテルは、一般の住民の区画と、ギルドの屋敷や貴族の邸宅のある中部層以上を実質隔てる、街唯一の河のほとりにいた。水面はキラキラと綺麗で、大時計の影と、日光の反射を、両方とも使って、この街随一の風景を作り出している。対岸にかろうじて人の動きだとわかる、街のみんながなんか忙しなく働いていて、生活用水を河から汲み上げたり、整備し切れぬ下水に流すべきものを流したり、衛生上の問題で魔法科学ギルドからやるなと御触れが出ているはずの、河での洗濯をやったりしているのが見えた。
 テルはその様子を、河と通りを隔てる胸くらいの高さの石垣の上に肘をついて、顎を乗せてぼーっとしている。レカもそれに付き合って、石積みに腰掛けて河に向かって足を投げ出している。テルがせっかく取れた貴重な自由時間だったが、墓に花を手向けに行くには足りない。最下層の救貧院まで行って帰るのに半日。街の大門の反対側の、貧民街を抜けて、整備もされてない道を通っていくには、往復半日はかかるから。だからテルは、こうしてレカと一緒に、同じ悲しみを共有しているはずの二人で、河を眺めることにしたのだった。河は綺麗だった。汚物が日常的に垂れ流され、ひどい時には獣人だのエルフだのドワーフだの、亜人の死体も流れてくるというのに。
「僕らの生まれる前ってさ」
 テルがぶっきらぼうに言った。レカは隣で黙って聞いていた。
「河の汚染が本当にひどくて……近づくことができないほどだったんだって。悪臭が日光で腐って、ガスになって下の層を覆ってた。中間層以上は、大時計塔に向かってなだらかに坂になってるから、まだマシだったらしいけど、それでも臭ったって。ここ二十年くらいなんだってさ。魔法科学ギルドの成果だよ。理屈のわかってる科学的な浄水器と、理屈のわかってない魔法のアーティファクトが、一緒になってフル稼働で河を綺麗にしてる。魔法科学ギルドの成果さ」
「ふーん」
 レカは努めて興味ない風を装った。テルが遠回しなところから話を始める時は、必ず何か他に言いたいことがあって、それは絶対に、自分の属する魔法科学ギルドの功績を自慢することではなかった。テルのため息が聞こえた。
「河の水は綺麗にできるのに、人の心も貧困という病も、浄化できないんだね。魔法科学ギルドは。いや、しようともしない」
 テルはレカの方を見た。逆光で表情はよく見えないが、レカはテルが寄りかかっている石積みの垣根の腰掛けて水面を眺めている。テルはこう言って、彼女のギルドを讃えた。
「暗殺ギルドはすごいよ。ベルゼ司祭の功績を讃えるために、大きな墓を作るんだってさ。うん。あの人は偉人だよ。ずっとずっと、子供達のお世話をしていたんだから。一番気にかけていた子と一緒に、神様のところなのか、魔王……さまって言っていいのか知らないけど、そういう存在のところに召されたなんて。運命なのかな。安らかだったのかな」
 レカは何も言えなかった。テルはそれを、悲しみと、聖なる人が報われなかった理不尽に対する、沈黙による抗議だと受け取った。テルは寄りかかっていた体を起こして、手を広げて語った。
「ねえ、レカ。神様って、いるのかな? 貴族では誰もその話をせずに、科学と魔法の話でもちきりさ。どう思う?」
 レカの背中は、何も語らなかった。働く女性のよく着る薄手のウールの服の裏の体は筋肉質で、スラリとしていて、しなやかで……それから寂しそうで。テルはじっとそれを見つめた。愛しい背中だった。子供の頃からずっと追いかけてきた、姉か、友人か、憧れの焦がれ人か、よくわからないが、とにかく十年は一緒に時間を過ごしている。背中の様子だけで、感情がわかった。
(なにか、レカらしくない)
 テルははっきりとではないが、そういう印象を持った。その背中には、知人の死を悼む以上の哀愁を感じている。自己憐憫? よくわからないが、テルはレカが普通の状態でないことはわかった。
「え……? レカ……?」
「なあ、テル坊」
 明らかに元気のない、低くなった声だった。
「神か魔王か知らねえが、本当にいるんだったら、この街だけは見放してると思うぜ。亜人差別、ギルド間の相剋、中央ではよく槍玉に上がるっていう神に背く科学と魔法の濫用。あーしでも嫌になるもんヨォ。聖典にあるとかいう罪の街そのものだ。なあ、そうだろう? テル」
 レカが首を捻ってテルを見た。テルはその赤い瞳に臆してしまう。レカはさらに問いを畳み掛けた。
「なあテル坊」
 レカの声は、いつものようでいて、いつものようではなかった。テルは一瞬、息を呑む。なにか、なにか理由はわからないが、死の匂いがした。
「もし神がいるとしたら、死んだら罪を裁いてくれるのかな?」
 テルは真剣に答える。なにばか言ってんの、レカらしくないよー、だなんて、雰囲気からするととても言えない。
「……死んだ後のことより、今生きている喜びを感じようよ」
 テルは一歩進み、寂しそうなレカの隣に座ろうと、石垣に上がろうとするが、胸までの高さのそれに上がれるか不明で、躊躇する。するとレカがテルの意を察したのか、貴族仕様の高い襟をむんずとつかんで、ヒョイと引き上げて、隣に座らせた。そんな超人的な力も、彼女からすると造作もないことだった。
「え、えぅん」
 テルはそれだけで生来の弟気質、そしてレカにこれまで何度もそうやって扱われてきた甘えから、精神的な優位を擬似的な姉に明け渡しそうになったが、すんでのところで我慢する。こんな簡単に持ち上げられたのは、自分が華奢なせいだろうかとも思ったが、考えない。父ロドヴィコも、暗殺ギルドのタティオンさんも、スタヴロさんも、みんなみんなガタイがいい男が多すぎる。それに負けてたまるか、とも思った。
 テルは横に座るレカを見た。赤い瞳が、河を越えて、向こう岸の商業地区に向かっている。いや、もしかすると、もっと遠くを見ているのかもしれない。この街の垣根を越えて、もっとずっと先の……。
 レカがテルを見た。その顔にあったのは、いつものニヤッとした強者然とした笑みなどどこにもなく、消えそうなほどに力ない微笑み。疲れが目に見えてわかった。それも肉体的なものではなく、精神的なものだった。テルはそれを見て、いたたまれない気持ちになる。またレカが言った。
「全人類は罪人だ、ともいうよな。そしてとりわけ、殺しや戦争を生業とするこの街の一部ギルドは……」
 テルは反論する。対神学のこういう議論は学院でも良くあった。
「違う、全人類はみんなイノセントなんだ。聖典を解釈よくよく解釈するとそうなるんだよ」
 レカはやっと、顔色の絶望一色に、少しだけ興味の色が混じり始める。
「イノセント……?」
「そうだ」
 テルは内心興奮して話し続ける。レカとこんな話をするとは思わなかった。
「人間は、イノセントとして生まれてくる。生まれたばかりの赤ん坊に、罪があるわけはない。そして責任もなければ、罪とは何かという概念も感覚さえもない。みんな生まれる前の無垢な状態から、人生という厳しい場所に、突然連れて来られた哀れな被害者にすぎない」
「ふーん」
 レカは少し元気が戻ったのか、川の方へ投げ出している足がパタパタし始める。
「でもヨォ、そんな認識でいると苦しくねーの? その、イノセントとして生まれた子供? が、どんどん罪に塗れて、クソみたいな罪人になっていくんだろ? やっぱカミサマって、人を苦しめるためにこの地上に産み落としてるんじゃねーか?」
 レカが話に乗ってきたことに、テルは喜びを感じる。少し笑みを浮かべて、こう諭す。
「確かにそういう側面はあるかもしれない。でもねレカ。まだ世界に地獄みたいな辛さが存在する限り、人は悪を内包しなければならない。世界の理不尽さに対抗するための、握りしめた一本のナイフみたいな悪さ。君の暗殺ギルドは、短剣をシンボルとして掲げていたね。スティレットだっけか。人間は誰でも、成長する過程で、イノセントな存在だった自ら、自らのイノセント性を破壊しなきゃいけない時が来るんだ。自ら自覚して罪を犯す。犯さなきゃならない時が必ず来る。そういう責任を引き受ける覚悟を示すことによって、大人になる……そんな過程でしか神の意に沿うことはできないらしい。でももしかしたらこの行為は神への反逆かもしれなくて……」
 途端、テルの体は前につんのめった。
「うわあっ!?」
 レカめ! やったな! そう思う頃には、河の中へドボンだった。水飛沫が収まる前に、またドボン。二人分の水飛沫が、あたりに跳ねた。テルは一瞬、ゴボゴボと水を飲みかけたが、信じられない力で水面に引き上げられ、肩を支えられた。
「レ、レカ! ゲホゲホ! あ、あ、頭おかしいんじゃないのか!? ベルゼ司祭もケンも死んだって時にこんなふざけて!」
 テルの目の前、向かいにレカはいた。両手をテルの脇に差し込んで、自分は立ち泳ぎで浮かんでいる。足がつかないから、泳ぎができないテルとしては、ちょっとした恐怖だ。だが、こうしてレカが支えてくれるとなると、結構安心で……。
 ともかくテルはレカに怒りの視線を向ける。テルは、レカの顔にイタズラっぽい笑みが浮かんでいて、自分を見て笑っているのを想像した。しかしそうではなかった。その顔は無表情だった。おかしい。絶対におかしい。レカの顔はずぶ濡れで、いつもはふわっとしたホワイトゴールドの髪も、ベッタリ顔に張り付いている。その下に、いつものレカのイタズラっぽいニヤニヤ笑いは、その片鱗さえなかった。むしろ、涙が一瞬見えたような。
(レカ……そんなに、悲しんでるのか?)
 いや、河の水だろう。テルは思い直した。二人は、二人の幼馴染み同士の、恋人未満にして肉親以上の関係は、いつもぐるぐると、惑星と恒星のように、喧嘩する犬のように、火に引き寄せられても飛び込まない羽虫のように、永遠にくっつくことはなかった。
 テルはレカの顔を見た。もしテルがもう少し女慣れしていたら、絶対にキスしていただろう。そう断言できるくらい、今にも何かが溢れそうな、哀れみを誘う顔だった。しかしテルがもう少しプレイボーイだったとしても、この取扱注意の幼馴染みの姉みたいな女性に、そんなことができたかどうか。テルは、自分の胸で弾けるくらいに感じる愛おしさと、哀れみと、好きだという感情を、どうすることもできずにいた。赤い瞳と青い瞳が、反発するでも引き寄せあうでもなく、ジレンマを回避できるギリギリの距離で、見つめあった。
 涙。
 テルは見た。間違いない。今度こそ、レカの顔に、河の水ではないものが一筋、新たに現れた。テルの中で何かが決壊した。流石のテルも、ここで慰められなかったら男じゃないと自分を叱咤した。レカの肩を引き寄せて、抱きしめて、もしかしたらキスを……。それで手を伸ばそうと力を込めた一瞬……反応されてしまった。レカは足すらつかないその河の水を蹴って、石積みの縁に飛び上がってしまった。
「ええ……」
 その人間離れした力に、テルは困惑すると、次の瞬間、レカの手で引き上げられて、釣り上げられた魚のように、通りに打ち上げられる。べちゃっという音がして、上等な羊毛の貴族の服が、大量に水を含んでいることがわかった。そして上げられるとき、襟を掴まれた一瞬、水の中に沈められて、テルは少し河の水を飲んでしまった。
「ゲッホゲホぉ!」
 むせるテル。飲料水には適さないと魔法科学ギルドが言いつつも、庶民はいくらでも飲んでいる、衛生的にはまあ合格の水だった。テルはやっとの思いで、這いつくばったままレカを見上げる。
「ゲホ……あ、相変わらずというか……力増してない? 赤い瞳の……魔族の血、って……ゲホ! タティオンさんや、傭兵ギルドの闘技場に出るんだって、パレードしてる人たちにも、そういう人が、何人かいるけどさ……」
「うっせえ」
 もうレカの声色は、いつもの調子に戻っていた。レカはテルを引っ張って、近くの冒険者ギルドの交番に行った。哀れで間抜けなテルが、河に落ちたのを助けたと言って、替えの服とタオルを借りた。
 街の理不尽は、まだ容赦なく続いていく。住人たちは、暗殺ギルドという悪を、理不尽を切り裂くスティレットを、欲望のままに突き刺すスティレットを、手放さないだろう。……それが、どれだけ罪悪感で錆びつこうが、あるいは誇りで研ぎ澄まされようが。

序章、結

次回、第一章、暗殺ギルドの愚連隊、開始

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