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奈良 平城宮跡 山の辺の道 春日山原始林  東大寺 興福寺:小さな旅 ひとり旅 旅行 旅行記 Low vision

私の小さな旅
ヨロモタひとり旅  奈良編

 ヨロヨロモタモタしながら、またまたひとり旅に出る。今回の目的地は、奈良。
 京都、奈良は、日本の代表的な観光地で、外国からの評価も高い。人も多いのではないか?
 今更、なんで? と、首をかしげることだろう。
 ところが、私は、奈良県は、ほとんど未知の領域なのだ。学生時代に、友人に連れられて、半強制的に日帰り旅行をしただけで、その時も
、「大仏さんを見たかな?」と、記憶はおぼろ。その後も、奈良にはまったく興味が沸かず、私の旅行先リストからは、欠落していたのだった。
 では、なぜ今回奈良に行くのか。
 私は、以前から日本史に興味があり、歴史小説や歴史を紐解くノンフィクション書籍を読むことを楽しみの一つにしていた。でも、読む時代は決まっていて、戦国時代以後。幕末や近現代史は特に大好物。その反面、平安時代以前は、まったく興味がなく、
ーーなんと大きな平城京
ーー鳴くよウグイス平安京
だけという、寂しい頭の中だった。
 定年後、再就職で外来のリハビリを担当していた時、歴史好きの元教師の患者さんから、
「吉川英治の新平家物語を、是非読んでみなさい」
と、強く勧められ、なんとなく読み始めた。新平家物語は、なんと全二十四巻。吉川英治が、七年の歳月を費やして執筆した、ライフワークともいうべき作品だった。最後まで読破できるか、まったく自信は、なかったが、患者さんに、
「新平家物語、読み始めましたよ」
と、言ってしまった手前、リタイヤする選択肢はもうない。
(この自己啓発癖は、私の若い頃からの癖なのだ。できるかどうか自信がないことは、周りの人に、前もって発表し、自分を、引くに引けない状態に追い込んでしまうのだ)
 ところが、読んでいくうちに、平家物語の奥深さに魅了されてしまった。主従愛、夫婦愛、友情、家族愛、権力欲、名誉欲、金銭欲など、「ひと」のすべてが、史実に基づいて書き綴られていた。二ヶ月ほどかけて、いっきに読んでしまった。
ーー人間というのは、何百年たっても、していることは変わらないんだな。
 私の人生観を変えた作品となった。
 それ以来、平安時代、奈良時代にも興味がでて、徐々に、時代をさかのぼり、縄文時代も含めた、古代史にロマンを感じるようになったというわけだ。
 長い説明になったが、このような理由から、奈良に行ってみたいという気持ちが沸騰した訳なのだ。
 今回は、船中二泊、ホテル三泊、計五泊の旅となる。

 奈良へは、大阪までフェリーを利用。東予港を夜十時に出港し、大阪南港には、翌朝 六時に入港する。
今回乗船する「オレンジ フェリー」は、新造船が就航し、今までにはない、快適な船旅ができるようになった。
 この航路は、今までも、出張で何回か利用したことはあったが、ごく普通のフェリーだった。
ーーさあ、どうなっているのだろうか?

 東予港を夜十時出港だが、八時に乗船開始。二時間前から乗船できるのは、とてもありがたい。フェリーターミナルは新しく、とても綺麗だ。乗船手続き後、エレベーターかエスカレーターで三階に上がると、歩く間もなく直ぐ乗船できる。乗船するとスグ客室ホールだ。
 入って左にはレストランがあり、右に進むと客室が並んでいる。係員が一人ひとり乗船券を確認し、部屋を案内してくれる。私は、シングルルームを予約しているので、係員の指示に従って、右側の廊下を進む。乗船券に記載された部屋番号が記されたドアを開けると、更に十メートル程通路が続いていた。左右に個室が並んでいるので、自分の部屋番号を、再度確認し部屋に入った。
 この「オレンジ フェリー」には、今までのようなたくさんの人が一緒に並んで寝るタイプの、二等客室や、カプセルホテルのように、上下二段に区分けされているベッドスペースに寝るタイプの客室はない。一般的なクラスが、このシングルルームとなっている。
 シングルルームの個室は、入口は、船としては珍しい引き戸で、内側からロックできる。その為、完全に個室となりとてもリラックスできるのだ。
 また、室内には、ベッド、テーブル、椅子が接地されており、鏡、照明、コンセント、ハンガー、スリッパなどが常備されている。
 早速、ベッドメーキングをしよう。選択された清潔なシーツを、敷布団と、掛布団にセットする。清潔な枕もあるし、これで寝る準備OK。
 なんといっても、船が新しいので、とっても気持ちがいい。明日は、早朝から動くので、乗船したばかりだが、直ぐに寝ることにしよう。
ーーおやすみなさい。

1日目

 朝五時二十分起床。
ーー昨夜は良く寝たな。新しい船というのは、運行時の振動も少ないのか、とても快適だったなぁ。大阪に行くときは、これにかぎるな。
 洗面、食事を済ませ、六時の大阪港入港と同時に、下船。

 ここから、フェリーターミナルを経て、ニュートラムの大阪南港フェリーターミナル駅まで、十分程歩く。ずっと二階の専用連絡通路なので、雨天でも問題ない。
 ニュートラムの改札口の前で、iPhone を開き、Suica を起動。
 この Suica というのは、本当に楽ちんだ。それまでは、乗る前には、券売機の上部に表示している路線図と運賃表を見て、乗車券をかわないといけなかったのだ。見えにくいので、単眼鏡を出して確認し、慣れない券売機でキップを買う。これが、後ろにたくさん人が待っていると、ストレスになって、モタモタしてしまい、本当に、大変だった。技術の進歩に、感謝、感謝である。
(えらい昔のことを言いよるなと思ってませんか?)

 さて、ここから奈良までが一仕事だ。私が、苦手なのは、地下の広い空間で、多くの人が、前後左右斜めのあらゆる方向に移動しているような場所。
 梅田や難波の地下にあるのだ。そこは通りたくない。できる限りシンプルな乗換をしたい。この一年で経路を決定している。
 ニュートラムで、終点のこすもスクウェアまで行き、地下鉄中央線に乗換、弁天町まで。そこで、更にJR環状線に乗り換え、鶴橋に向かう。鶴橋で近鉄に乗り換えて、奈良にむかう。
 こうすると、比較的小さな駅で乗り換えるので、ウロウロすることなく移動することができる。私の苦心のルートなのだ。 
 早朝なので、人も少なく、楽に移動することができた。もう少し遅い時間だったら、大和路線で弁天町から、直通で奈良に行くことができるのだが、ざんねん。
 iPhone の乗換案内のアプリを見ながら、先ほどの経路で奈良に向かう。

 八時半には、無事、近鉄奈良駅に到着した。今回は、原始林や低山に登る予定なので、大型ザックを背負ってきている。大型ザックから、いつもの二十リットルのデイバックを取り出し、大型ザックは、コインロッカーに預ける。ちょうど改札口を出て左側にコインロッカーが並んでいた。ラッキー!

 身軽になったところで、二つ手前の大和西大寺駅に戻る。何も奈良まで乗らなくても、途中で降りれば楽なのだが、大型ザックを背負って一日中歩くのは、ちょっときつい。しかたなく、奈良までザックを預けるためだけにいくことになったのだ。
 近鉄大宮駅を出てすぐ、左窓に朱雀門が見えた。
ーーお~! すごい! もうすぐ行くからね。

 大和西大寺駅で下車し、南口から外に出る。
 ここからは、歩いて巡る予定だ。いつものように、iPhone を取り出し、アプリの Geographica と Google Map を起動させる。Geographica には、移動に合わせて二万五千分の一の地形図がインストールされており、地図上に自分が歩いた軌跡を記録してくれる。だから、道に迷ったとしても、どのように迷っているのか一目瞭然だ。
 また、音声で、現在の時間、歩行時間、歩行速度、歩行距離、標高などを知らせてくれるのでとても便利なアプリなのだ。これに、Google map が加わると鬼に金棒、どこでも、どーんとこい、となる訳だ。

世界遺産
平城宮跡歴史公園

 今日は、歩いて平城宮跡と長屋王邸跡を見学し、近鉄奈良駅に戻る予定。
 大和西大寺駅南口を出て、奈良方向に線路に沿って五百メートルほど歩く。左折して高架をくぐり、北に進むと、もうそこは平城宮跡歴史公園だった。
ーーついに、なんと大きな平城京に来ることができた。それにしても平城宮跡やら、平城京の跡とか、いろいろ言われているけど、どう違うんやろ?

 後に見学した、資料館の説明で理解できたのだが、平城京は、七百十年に制定された日本の首都の「街」で、平城宮は、そのなかの「官公庁や宮殿が集まった「地域」とのことであった。

 平城京は、奈良時代の日本の首都として栄えたが、長岡京、平安京と次々に遷都された為、その後は「都」ではなくなり、寂れていった。平城宮周辺をはじめ、大半の地域が農地や荒れ地に変わってしまったのである。
 大部分が農地や荒れ地に戻った平城京は、その後、東部の地域は、奈良の町として発展したのだが、ほとんどの地域は、その後、千年以上に渡って、歴史上忘れられた存在になってしまったのだ。
 でも、これが良かったのである。千年以上、田畑や荒れ地として封印され、第一級の埋蔵文化財として保存されてきたのである。
 明治時代になって、少しずつ史跡としての価値が再評価されるようになり、
一九二二年 国史跡 指定
一九五二年 国特別史跡 指定
一九九八年 朱雀門 復元
二〇一〇年 第一次大極殿 復元
と、その重要性が見直され、素晴らしい歴史公園として整備されてきている。

 平城宮跡に踏み込んだものの、
ーー広い! 広すぎる!
 それではと、もう一つの助っ人の iPad を起動し、「平城宮歴史公園マップ」を表示させる。
 とりあえず、前方に続いている公園内の道をあるく。しばらく歩くと、道は左右に分かれている、そこにはちゃんと標識が接地されていた。
ーーなになに、左に行くと 大極殿やな。まずは時計回りに巡るとするか。
 標識に従って、北方向に進む。しばらく歩くと、また標識。今度は、右折して東方向へ。分岐点には標識が設置されており、迷うことはなさそう。
 公園入口から、約八〇〇メートル程歩くと、大きな建物が見えてきた。広い公園に、巨大な建物が建っている。近づけば近づくほど、その大きさに驚愕する。

第一次大極殿

 第一次大極殿と、標識があった。
ーー奈良時代に、こんな宮殿が建っていたのか。それを、また、よく復元したなぁ~! すごい!
 と、思わずため息が漏れる。
 この大極殿は、天皇の即位式や、季節の式典など、特別の儀式に使用される建物とのこと。奈良にある有名寺院の大伽藍を思わせる建築物に、朱色の大柱が鈍く光っている。平城京は、唐の長安をモデルに設計されたそうだが、映画「ラストエンペラー」の、紫禁城での即位式の場面が思い出される。
 幼少の愛新覚羅溥儀が、高御座の前で立ちすくんでいる。御前には、数百人の宦官が整列している。溥儀の足元からおしっこが漏れ出す。そんな場面ではなかったか。
 石段を上り、大極殿の中に入る。朱に塗られた一抱え以上もある木の柱、中央には、八角形の高御座が鎮座している。天皇がお座りになる高御座の前に立ち、前方を眺めると、そこには、古代の奈良が陽炎のように見えてきた。
 今後、この大極殿を含む、南北約三百二十メートル 東西約百八十メートルの広い空間の大極殿院や南門が次々と復元される予定とのこと、楽しみだ。何年かして再訪したいものだ。

枯野超え
遠くにかすむ
朱雀門
時を忘れて
時を感じる

    秀翁

 大極殿から、標識に従って、東に約五〇〇メートルほど歩くと、平城宮跡遺構展示館がある。

平城宮跡遺構展示館

 遺構展示館に入ると、入ってすぐの部屋に、一メートル位掘り下げて土を露出させた遺構がある。これは、掘立柱の柱穴の跡で、さまざまな形状の穴が開いていた。遺構を眺めながら周囲の通路を歩く。
 次の部屋には、内裏の井戸が展示されていた。これは、平城宮内裏の井戸枠で、直径一・七メートルの杉の木をくり抜いて作られた井戸の枠である。御所(内裏)に設置されていたもので、複製ではなく本物であった。
 他に、大極殿や、かつての天皇陛下のお住まいであった内裏正殿の復原模型、瓦・土器・木簡などが多数展示されていた。

 展示館を出て、南に約五〇〇メートル程歩くと、長い土壁で囲まれた領域が見えてきた。東院庭園だ。

東院庭園

 平城宮の南東隅(東院)に、大規模な庭園の遺跡が見つかった。日本庭園の最初の様式で、天皇や貴族が集会をしたり、宴を開いたりしていた場所だ。
 東院庭園は、東西六十メートル、南北六十メートルの「L字形」の池を中心に構成されている。後楽園のような、広大な面積の庭園ではないが、池や朱色の欄干の小橋があり、静かな落ち着いた雰囲気の空間だ。丁度、紅葉の季節であり、赤や黄色に色づいた植栽と共に、朱色の建物が美しい。池の辺にたたずみ、奈良時代の優美な世界に見とれてしまった。
 目の前の朱色の橋を吉備真備が微笑みながら渡ってくるような錯覚を覚えた。
 ふと、以前見たNHKのドラマのシーンを思い出す。
ーーあれは、もしかしたらここを使って撮影したのでは?

 帰宅後、調べてみたところ、そのドラマは、
古代史ドラマスペシャル
「大仏開眼」
二〇一〇年 NHK
(キャスト)
 吉備真備(吉岡秀隆)
 阿倍内親王(石原さとみ)
 聖武天皇(國村隼)
 藤原仲麻呂(高橋克典)
 玄ぼう(市川亀治郎)
 吉備由利(内山理名)
 橘諸兄:葛城王(草刈正雄)
 藤原宮子(江波杏子)
 行基(笈田ヨシ)
 光明皇后(浅野温子)

であった。平城宮の朱雀門、東院庭園、大極殿、朱塗りの建物や回廊をロケ地として使用していた。
 よかったら見てみてください。

 東院庭園を出て、標識に従って、南の方向に向かう。近鉄奈良線の線路を超えて右折、しばらく整備された道を歩く。
 この史跡公園は、広い。本当に広い。
 ぽつんと、復元中の倉庫のような建造物や、巨大な朱塗りの建物が点在し、梅などの木を植えたスペースがあったり、花畑があったり、さまざまな景色があじわえる。
 だが、とにかく広いので移動するのに時間がかかる。朱雀門までは、一キロメートルくらいあるようだ。以前、京都御苑の中を、ぐるぐる歩き回ったことがある。その時は土壁の横を、ひたすら歩いた。今回は、原っぱの中を、ひたすら歩いている。じわじわと脚の疲労感が増してきて、広さを体感しているようだ。

 ふと、時計を見ると、十二時を過ぎていた。
ーーこれは、腹が減るはずじゃわい。この辺り
で昼食とするか。
 周囲を見渡すと、少し前方にベンチらしきものが見えてきた。道の横にあるベンチに腰掛け、いつものチョコクッキーを取り出す。家内が、
「あなた、いつもそんなに同じものばかり食べて、よく飽きないわね。」
と言って笑っていたのを思い出した。
ーーそういえばそうやな。いつも同じメーカーのチョコクッキーだな。いろいろ食べてみたのだが、なぜかこれに落ち付くんだよな。
 そんなことを考えながら、いつもの味を楽しむ。
 食べていると、中学生のグループが

「なんでこんなに広いのかなあ。いいかげんにしてほしい。」

と、ぶつぶつ怒りながら近づいてきた。
ーーそうよな~。広いわなぁ~。でも、これから、もっともっと、たくさんの建物が復元されたら、すごいだろうなぁ。楽しみ!
 人間は、食べると意欲が、もりもり沸いてくる。
ーーさて、歩くぞ!
 更に、西に向かって歩くと、大きな建造物が見えてきた。朱雀門だ。

朱雀門(すざくもん)

 朱雀門は、平城宮の正門である。
朱雀門から大極殿まで、広い道幅の朱雀大路が貫いている。当時、唐や朝鮮からの使節を迎える際の、儀式に使用された。
 朱雀大路の両側は、綺麗に塗られた土壁で覆われ、シンプルではあるが、壮大な街を演出したことだろう。私も朱雀門の中央に立ち、遠くに見える大極殿を眺めながら、当時の平城宮に思いを寄せていた。タイムスリップし、時を忘れて、うっとりとたたずんでいるじぶん。
と、いきなり、
「カンカンカンカン」と、踏切の音でいっきに現代に戻された。
目の前を、近鉄の電車が、
「ガタンゴトン」と、走り抜けて行った。
ーーそうだ、この平城宮跡は、公園内を電車が通るんだった。
 よく見ると、朱雀大路の途中に、みごとに線路があった。
ーーこの大事なところを線路が通っているのは、残念やな。でも、これはなかなか簡単には動かせんからな。しかたないか。

 唐からの使節になったつもりで、大極殿に向かって、朱雀大路を歩きだした。少し歩くと、やはり、踏切があった。
ーーん? なになに? 「夕方七時から翌朝八時までは閉鎖」なるほど。公園が開いているときだけ踏切が渡れるのか。

 しばらく歩くと、朱雀大路は、大路ではなく、朱雀小路に変わっていた。それでも、大極殿まで歩いてみようと、歩みを進めるものの、
ーー遠い!
 奈良まで歩いて帰ることを思い出し、断念したのだった。
 再び、踏切を渡り、朱雀門に戻る。
 朱雀門の中央に立って、もう一度朱雀大路と大極殿を眺める。
ーーこれは、やはり素晴らしい眺めやな。早く、往時の姿に復元された姿を見たいなぁ。

平城の
朱塗りの柱に
身をもたせ
すっと目を閉じ
古代に旅する

    秀翁

 名残は尽きないが、気持ちを振り切って、回れ右をする。後ろを見ると、大路の両側に、さまざまな施設が立ち並んでいた。この辺りは、朱雀門ひろばといって、ミュージアムやショップが並んでいるようだ。さっそく、覗いてみよう。

 朱雀門から見て左側に、やや大きな建物がある。早速、入ってみよう。

平城宮いざない館

 これは、平城宮跡歴史公園のガイダンス施設とのこと。現在の復元状況や公園の最新情報、出土品や資料を、さまざまなメディアを駆使して紹介している。特に、平城宮全体の復元模型や、第一次大極殿を復元した際に製作した構造模型はとても精密で印象的だった。

 大路の反対側には、

天平みはらし館

 説明には、「展望デッキや宮跡展望室(会議室)から平城宮跡の眺望が楽しめます。映像で学べるVRシアターやレンタサイクルの受付・貸出、更衣室やシャワー室のあるジョギングサイクリングステーションも併設しています。」とあるのだが、残念ながら閉まっていた。

 その隣には、

「天平みつき館」

 古代の都の雰囲気を味わいながら、ゆっくりできる、無料休憩スペース(椅子やトイレアリ)や、天平うまし館という、カフェ&レストランがある。

 もし連れがいれば、ここで朱雀門を眺めながら、ゆっくりコーヒーでもいただくところなのだが、ひとりでは、どうも……
あきらめて先に進もう。

 朱雀大路を南に向かい、大宮通りを左折し、奈良方向に歩く。この道路は、車の通りが多いのだが、しっかりした歩道があるので歩きやすい。約一キロメートル程歩くと、Google map が音声で、
「長屋王邸跡に到着しました。お疲れさまでした」
と、案内が終わった。
ーーえっ、周りを見ても何もないけど……」
 目の前に歩道橋を発見したので、そこに上って周囲を見渡すことにする。歩道橋に上ると、道の反対がわに、古い邸宅と庭園のような公園が見えた。
ーーあれかいな。とりあえず行ってみよう。
 でも、そこの入口には、「平城京左京三条二坊宮跡庭園」とある。
 説明には、
「昭和五十年の発掘調査により発見された、園池を中心とする奈良時代の庭園遺跡であり、日本古代の庭園の姿を伝える貴重な文化財です。
 園池は比較的浅く大小の石を使って作られており、形はS字状に屈曲しています。平城宮の離宮または皇族等の邸宅(宮)であった可能性もあることから「宮跡庭園」(みやあとていえん)と名付けられました。
 他に類例のない高い歴史的価値から昭和五十三年に国の特別史跡に指定されました。平成四年には、古代庭園の意匠・作庭技法を知ることができるなど、学術的・文化的価値があらためて評価され、国の特別名勝に指定されました。特別
 史跡と特別名勝の両方に指定された古代の庭園は、当園の他は平城宮東院庭園(特別史跡「平城宮跡」に含まれる)と岩手県の毛越寺庭園(特別史跡「毛越寺境内附鎮守社跡」に含まれる)の二ヶ所しかなく、我が国屈指の貴重な庭園です。公開にあたっては発掘遺構である園池を露出展示するとともに奈良時代の建物を復元しています。」
と、すごい史跡だった。ゆっくり見学し、また、歩道橋に戻る。
 長屋王の邸宅跡は、大型商業施設になったと読んだような気がする。長屋王の邸宅跡に、商業施設を建てたが、なかなか事業がうまくいかず、撤退したとか……
奈良の人は、「長屋王のたたりだ。」と噂しているとか、していないとか。
 古都には、そういった、恨みや祟りの話が多いですよね。
ーーそういえば、歩道橋の前に、大型商業施設があるな。この周りを見てみよう。
 歩道橋を降りて、商業施設の前を探すと
ーーあった! なんだ、大きな説明板があるじゃないの。
 商業施設の南東の隅に、説明板が接地されている。 
 長屋王(ながやおう)は、父親は天武天皇の長男、また母親は天智天皇の皇女で、奈良時代には、要職を歴任し、権勢を振るった。
 しかし、次第に藤原不比等の子、藤原四兄弟との関係が悪化、密告により長屋王が自殺に追い込まれる「長屋王の変」により人生を終える。
 死後も、藤原四兄弟の病死など、「長屋王の呪い」と呼ばれる不幸が数多く起こり、奈良における「怨霊伝説」の筆頭格の存在として知られている。
 長屋王邸跡は、その名の通りその長屋王が住んでいた邸宅の跡だが、十分な発掘調査がなされないまま、商業施設が建設されたために、詳細は不明となっている。
 
 この「長屋王の変」については、歴史小説家の葉室麟さんが、小説「緋の天空」に書いているので、お読みいただきたい。

葉室麟(著)
「緋の天空」

 長屋王の邸宅跡が、説明板のみになっているのは残念だった。 
 気を取り直して足を進めよう。Geographica と Google map を見ながら、近鉄奈良駅に向かう。朱雀門から近鉄奈良駅までは 三.一キロメートル。ひたすら大宮通りの歩道を歩く。
ーーだいぶ市の中心ぽくなってきたな。
Google map が、
「目的地に到着しました。お疲れさまでした」
といきなり発した。
ーーなに? 近鉄奈良駅に到着したの?
 でも、周囲を見ても近鉄奈良駅はない。駅どころか、線路もなくなっていた。
ーーたまに、Google もおかしくなることがあるからな。もう一度、やりなおすか。
Google map の設定を再度やりなおし、近鉄奈良駅と入力した。
 Google map の指示に従って、道を戻り、右折する。今度は、自分でも線路を探しながら歩く。
ーー線路は、高架になってるだろうから、上の方を特に注意して、と
歩けど、探せど、高架も近鉄奈良駅も見当たらない。
同じところを廻ったような……
ーーもうだめや。お手上げや。こういう時は、観光客の強みを生かして訪ねるに限る。
信号を待っている優しそうなお兄さんが……
「すみません。近鉄奈良駅は、どこでしょうか?」

「そこですよ。」
と、笑顔で示してくれた。

「ありがとうございました。」
 しかし、指示してくれた方向には、白い大きなビルが……
 私は、首をかしげながら、丹眼鏡を取り出し、そのビルを眺めた。そして、思わず苦笑い。なんと、ビルの壁には、大きく「近鉄奈良駅」と書いてあるではないか。
 それでも、半信半疑で、ビルに近づき、気が付いた。
ーー駅があった。地下に……
階段を降りると、まさに、近鉄奈良駅。荷物を預けたコインロッカーも目の前にあった。
ーー今朝は、駅について、すぐコインロッカーに荷物を預けて、すぐにまた、電車に乗ったので、地下にあることがわからなかったんやな。いや~まいった、まいった。
 ほっとするやら、おかしいやら、反笑いの表情で荷物を出し地上に上がった。
ーーこんなこともあるんやなぁ。どうせ地下にもぐるんんやったら、平城宮の手前から地下にもぐればよかったのにな。
などと勝手なことをつぶやいてしまった。

今回も宿泊は、いつもの全国チェーンの、あのホテルだ。このホテルが好きな理由は、安いこと、設備がどこに泊まっても同じなので、使いやすく、自分の部屋に入るとホームにもどったような安心感が得られることかな?
 駅を出てすぐ北側にあった。迷い迷って疲れた足をひきずりながら、チェックイン。部屋に入って荷物を置き、身軽になって、あらかじめチェックしておいた、スーパーに向かう。ホテルの前の道を横断し、小西さくら通りを少し南に行くと、ご当地スーパーがあった。食料品売り場が、一階と二階に分かれている不思議なスーパーだった。お弁当と明日の朝食、トリスハイボールを買って帰る。今日は、疲れているので、超早寝としよう。

2日目

 今日の主な予定は、世界遺産 春日山原始林と若草山だ。今回はその為、軽登山靴を履いて来ている。後は、折りたたみ式のトレッキング ストックを二本ザックのサイドポケットに差しこんで固定。予備のお茶と、昼食用のクッキーに予備食として、菓子パンを2個。ゴアテックスの雨具も忘れないようにして、さあ、出発。

いつものように Geographica と Google map を起動する。
 近鉄奈良駅から、春日山原始林登り口までは、約二・五キロメートル。朝のすがすがしい空気を味わいながら歩く。
 ホテルを出て左に、大宮通りを東に進む、歩道が、しっかりしているので、周りの景色を楽しみながら、ゆっくり歩く。右に興福寺を見ながらひたすら東に歩く。奈良街道の大きな通りの下を、登大路地下歩道を通って横断する。早朝なので人通りは少ない。更に、進むと道は少し細くなってくるが、歩道はしっかりしている。周囲の風景を楽しみながら歩くのはいいが、鹿に要注意。こちらが気を付けていないと、鹿さんは避けてはくれない。ここでは、鹿は神様の使いなのだ。
  鹿が私の前に立ちふさがっている。私が立ち止まると、やっと気がついたのか右側にゆっくり歩いてよけてくれた。鹿の向こうには奈良国立博物館が見えている。
ーー鹿ちゃんありがとう。博物館には後からよるからね。
 しばらく歩くと、奈良公園の緑の芝生が見えてきた。この四つ角を左に曲がると、有名な、東大寺だ。道の反対側に、春日大社参道の石碑が建っている。
 右折し東大寺と反対方向に向かう。少し細くなった歩道を歩く。しばらく歩くが何もない。道を間違えたかなと不安を感じながらひたすら歩く。道は左右に少し、うねりながら続いている。右は土塀、道の反対側に小道と大きな駐車場が現れた。道を横断し、標識を見ると、「志賀直哉 旧宅」→と案内がある。駐車場は、高畑観光駐車場とある。
ーーここだな。この道を真っすぐに道なりに行くと、春日山原始林の入り口があるはずじゃわい。
 この辺りは、さまざまな広葉樹の林と土塀の家が点在している。歴史を感じる邸宅が道の左右に続いている。朝もやにつつまれ、なんとも言えない静けさである。こういう環境であれば、思考が深まり、いい作品が生まれるだろうなと思う。志賀直哉が、居宅を構える理由が分かるような気がした。
少し先に、志賀直哉旧宅左の矢印の標識があった。今回は、旧宅の見学はしないので脚を進める。また少し歩くと、春日奥山遊歩道登り口の標識を見つけた。
 道は整備されている。軽トラが通行できるくらいの広い道が続いていた。道には赤や黄色の落ち葉が積もり、紅葉がちりばめられた秋らしい、心地よい土の道だ。ザックを下ろし、トレッキング用ストックを組み立てる。
 私が愛用しているBlack Diamondのストック
このストックは、超軽量で折りたたむと36cmと、非常に短くなるので、とても気に入っている。道が不安定そうな場所に行くときは必ずこのストックをザックの再度ポケットに入れている。私のお気に入りの一品だ。
 さあ、春日山原始林に入山させていただこう。
ーーおっと、その前に、ここからは Google map は、役に立たないので終了させておこう。バッテリーの節約だ。

世界遺産
春日山原始林

 春日山原始林は、千百年以上前から狩猟や伐採が禁止され、春日大社の聖域として守られてきた。また、世界遺産と共に国の特別天然記念物に指定されている。これから歩く春日山遊歩道は、全長九・四キロメートルで、若草山や他の名所を巡ると一〇キロメートル以上の長丁場となる。
ーーさあ、気合を入れて行こう!

 両手にストックを持ち、マイペースで歩く。遊歩道は、管理のための車も通行するのだろう、凹凸が少なく歩きやすい。周囲の木々を眺めながらゆっくり歩みを進める。千年以上も人の手が加わっていないので、巨木が目立つ。原始林の中では、巨木の数は日本一とのことである。

 道は、左右に曲線を描きながらゆっくり上っている。歩いている人は今のところなし。春日山原始林を独り占めしているようなもったいない気分で楽しませていただく。低山の林道を歩いている感じだが、杉やヒノキなどの人工林ではなく、広葉樹を中心とした森は、歩いていてとても心地よい。紅葉に見とれていると、妙見宮の石碑が見えてきた。石碑の右側に、なだらかな石段が続いている。高い木々に覆われている為、強い日差しはほとんど届かない。湿気を帯びた石段に赤いもみじの葉が数枚張り付いていた。

 妙見宮は、明治四十二年創建の日蓮宗の修行所。歴史は比較的新しいが、春日山原始林においては、奥宮の様相を呈している。

 石段を上っていくと、茶堂のような、趣のある本堂があった。
 静寂の中、ここまで歩いてくることができたことに感謝し手を合わせる。
 その時、私の肩に、「ポツン」と何かがあたった。
ーーなんだろう?
と下を見ると、足のすぐ斜め前に、小さなどんぐりが落ちていた。そっと拾い上げ、
ーー春日山からのプレゼントかな?
紙に包んで大切にいただいて帰ることにした。

手を合わせ
祈る肩に
木の実落つ
春日の森の
神のやさしさよ

      秀翁

 この春日山遊歩道と平行して、柳生街道が通っている。奈良と、剣豪の郷、柳生を結ぶ道で、当時の石畳が残っているらしい。
 マップを見ると、もう少し先に、この「柳生街道」と交わる場所があり、そこが休憩所にもなっているので、少し寄り道をすることにしよう。
少し歩くと、  右に降りる道があり、トイレや休憩所のマークがある。小さな沢の音が聞こえている。少しひらけた場所に休憩用のあずまやがあった、。
ーーちょっと休憩にするか。沢の音を聞きながら、お茶をいただく。あんパンを少し食べて、エネルギー補給をしておこう。
 ここから右の道を行くと「柳生街道」で石畳の道が続いている。剣豪の道として、剣の修行に多くの剣豪が行き来したことだろう。柳生の里には、旧柳生藩の遺構や、柳生石舟斎や柳生十兵衛にまつわる史跡があるが、今回は、そちら方向には行けない。
ーー残念!!
 すぐ横には、お地蔵さんと、「首切り地蔵」と書かれた説明板があった。柳生十兵衛の弟子で,大和郡山藩の指南役であった、荒木又右衛門が、試し切りをしたと伝えられている。
そのお地蔵さんを見ると、首のところに、切れ目があった。いくら剣豪でも、この所業はいかがなものだろう? それに、石を切ったりしたら、刃こぼれがして、研ぎ直しても刀の強度が落ちるのではないのかな?
などと、素人なりに推理してしまった。

 沢の音色を楽しみながら、遊歩道に戻る。
やや傾斜が強くなるが、登山道というほどではない。登り切ったところは、三差路になっていて、手前に建物があった。なんと、これは交番で、芳山(ほやま)交番所とあった。人気の少ない場所なので心強い。ここからは、奈良奥山ドライブウェイという名前がついている。一般車も乗り入れ可能とのこと。でも、ドライブウェイというよりは、どう見ても林道かな?

ーーこの自動車道は、どこに通じているのかな?
疑問に思い、 Geographica を見る。
ーーあれ? 地図がない! 真っ白な画面に、歩いてきた赤い軌跡だけが描かれている。
スマホの受信状態を見ると、圏外になっていた。
ーーなに~っ!! うそ~っ!
 原始林といっても、ほとんど里山のようなもので、すぐ下は奈良市街地。まさか圏外とは……
 Geographica では、圏外の山に行く場合は、前もって二万五千分の一の地形図をダウンロードしておかなければならない。
ーーしまった。圏内になるまでは、地図も電話も利用できない。でも、まあいいか。ここは標識がしっかりしているから、迷うことはないな。
 ブルーになりかけた気分を治して、と。
 Gographica は、そのまま動作を継続させる。GPSは生きているから、歩いた軌跡は、記録表示されている。もし、迷ったとしても、それを見さえすれば元に戻れるはずだ。
ーーさあ、楽しもう!

 交番には、誰もいないようだが、軽く礼をして前を通過する。
ーー心の中で、ご苦労様。

 山に登っていて、あまり身の危険を感じたことはない。「山に登る人に悪い人はいない。」という古くからの言い伝えがある。私もその意見に大賛成。「わざわざ汗をかいて山に登って、悪事を働く人はいないだろう。それ以前に、山に登っていると心が速やかに浄化されるのだ」と、いろいろな人に吹聴してきた。
 でも、車が通る道は、怖い。山の中で車にすれ違うのはあまり気持ちのいいものではない。特に女性は、そう感じるのではないだろうか。交番があると思うだけで、女性の登山者は安心できると思う。ここまで登ってきて警備されている警察官の皆さんに感謝、感謝である。

 右側の花山川に沿って道が続いている。清流の爽やかな音を楽しみながら歩く。車がほとんど通らない、遊歩道のようなドライブウェイを少し下ると、小橋が見えてきた。標識があり、橋を渡ると「鶯の滝」とある。
これは、予定通り見に行く一手しかないだろう。
 しばらく登り道、汗がにじみでてくる。分岐点までくると、右は興福寺別院、左が「鶯の滝」と書かれた標識があった。
 「鶯の滝」と表示された方向に道を降りていくと、徐々に滝の音が大きく響いてきた。滝の周辺が見事に紅葉している、思わず立ち止まり、しばらく見とれてしまった。
 滝は高低差十メートル程度のようだが、赤や黄色に色づいた木々の間から流れる滝は、とても美しい。
 滝の音が、鶯の声に似ていることから「鶯の滝」と言われるようになったらしい。耳をすませて、滝の流れ落ちる音を聴く。鶯の鳴き声には聞こえないが、控えめですがすがしい音色である。
 ここまで来る途中に、出会ったのは、大学生のグループだけだったが、ここでは、親子ずれや、男女のペアともすれちがった。やはり、車で来ることができる場所は、人が多い。三脚を立てて撮影している人もいて、ちょっとした観光地となっている。人が集まるだけあって、紅葉と滝の景色は、見事としか言いようがない。網膜のフィルムにしっかり定着させた後、元の道に戻る。

 遊歩道を歩く、歩く、歩く。森の中で歩いているのは私ひとり。
 巨木が発するパワーを感じる。
 しばらく歩くと、前方に不思議な光景が……
 垂直に屹立している他の木々とは異なり、四十五度程傾き、倒れかけている巨木があった。台風の強風で傾いたのだろうか、
 私には、必死で踏ん張っているように見えた。
 近づくと、一人の女性が、その木に片方の手のひらをあて、たたずんでいた。
 私には、木と会話をしているように見えた。
「がんばって!」と励ましているような……
パワーを送っているような……
 私が、邪魔をしないように通り過ぎようとしたら、こちらにきがついたのだろう、振り向いて笑顔をいただいた。私も笑顔で
「こんにちは。」とあいさつすると、
「こんにちは。」と返してくれた。
私は、彼女とその木に、目礼をしてゆっくり歩いていった。

春日の森
傾く巨木に
手をそえて
ひたすら祈る
乙女の姿

     秀翁

 山で人に出会った時、男性なら、少し話をするところだが、女性の場合は、話しかけられない限り、挨拶だけして通過するようにしている。もし、困ったことがあれば、声をかけてくるだろう。そうでなければ、不安を感じさせてはいけないなと思う。
 最近は、単独行の女性をよく見かける。山だけでなく、観光もひとりで巡っている女性がふえたようなきがする。職場の人間関係の、わずらわしさから離れて、ゆっくりとした時間を楽しむ人が増えてきているのだろうか。

 道は軽く下っている。森林の中というのはどうしてこんなにすがすがしいのだろうか。香りも、ほとんど無臭なのも不思議だ。木や、生物の朽ちたにおいや、腐敗するにおいが出てきそうなのだが、それがない。自然の浄化する力なのだろうか。そのようなことをいろいろ迷走しながら歩いていると、建物が見えてきた。iPad のマップを見ると、鎌研交番所のようだ。ここにも交番が設置されている。感謝、感謝だ

 どうやら、春日山遊歩道も終点に近づいてきたようだ。左の道を降りると、遊歩道出口、まっすぐ進むと、若草山となっている。予定どおり、若草山に向かう。車の通行量が急に増加し、広い駐車場には、たくさんの車が並んでいる。人も急に多くなり、もうここは、観光地だ。
 整備された坂を少し登ると、若草山の頂上に到着。見渡す限りの草原が広がっていた。若草山とは誰が名付けたのだろう。イメージにピッタリの名前だと思った。
。天気も良く、奈良市街が一望できる。
 広い草原を登り降りしている、人々や鹿が下方に見えた。
 頂上から、この草原を通って、東大寺の方向に下山するルートもあるが、私は遊歩道に戻り、春日大社を目指す。
ーーそうだ! 家に連絡をしておかないと……
 私は、ひとり旅の時は、家内に、LINE で、移動中の風景や施設の写真を逐次送るようにしている。もし、行方不明になっても捜索がし易いのと、後に旅を振り返るときに正確な資料になるからだ。
 春日山原始林に入ってからは、スマホが圏外になった為、この連絡が途絶えているのだった。急いで電話をし、理由を説明しておいた。

 分岐点から、ほんの少し降りたところにベンチがあった。時計を見ると、お昼を過ぎていた。このベンチの周囲の木々は、特に紅葉が美しい。真っ赤に葉を色づかせた大きなもみじがベンチの右斜め前に見える。まさにここは特等席だ。

ーーよし、ここでランチにするか。
 昨日、スーパーで買った、ランチパックと5個入りのミニあんぱんをザックから取り出して、食事タイむ。
 このベンチから眺める紅葉は、本当に素晴らしい。特等席に座って、ゆっくり食事。
 と、いきたかったのだが、場所があまりにも、良すぎた。
 素晴らしい紅葉に、下から登ってくる人が、

「わぁ~!! きれい!! すごいね!!」

と、完成を上げながら近づいてくる。

「ねえ、写真撮って!」

来るひと、来る人、みんな同じ反応

「こ、こんにちは」

「あっ、こんにちは」

「おっ! こんにちは」

「こんにちは」と、お互い挨拶するのだが、私は、ひじょーに気まずいのである。
 早々に、食事を済ませて、下山にとりかかる。歩き始めて
「ふぅ~っ!」と、ため息がもれる。

ーーこの遊歩道は、整備されていて、本当に歩きやすいなぁ。
 落ち葉を踏みしめながら 道を下る。
 この春日大社から、春日山原始林の遊歩道を通って、若草山に至るルートは、距離も短く、紅葉も美しいため、利用者が多い。
 一方、柳生街道からのルートは、距離が長いので通る人も少なかった。ゆっくり森を歩きたいなら柳生街道からの道をお勧めしたい。

 ここまでの距離や時間を考えると、、驚くほど簡単に下山できた。降りるとすぐ、左側に朱塗りの社殿が見えた。水谷神舎とある。
ーー春日大社の摂社のひとつだろう。
売店や茶屋がある通りを抜けて、春日大社を目指す。 道を進めば、本殿になるだろうと、ひたすら歩く。道は二つに分かれるのだが、右に行くと神社の外に出てしまいそうなので、左の道を選んだ。しばらく歩いたが、
ーーあれ? 違う見たい。誰もいないし、道も細くなってきたよ
 分岐点に引き返して、今度は右の道に進む。小さな社殿が、あちこちに散見され、頭の中は、からまった糸のようになってしまった。
もうどちらの方向に歩いているのか、さっぱりわからない。
ーー春日大社を甘く見取ったな。春日大社の案内図を iPad にダウンロードしておくべきやったな。まあ、しゃあないな。
でも神は、そんなに薄情ではなかった。 そうしているうちに、突然目の前に朱塗りの拝殿が現れた。
ーーやっと見つけたよ~! よかった、よかった。
 感謝の気持ちをこめて手をあわせる。ここまでひとりで歩いてこれたことに感謝、感謝だ。

 春日大社本殿を後にして、歩きながら、
ーー声に出しては言えんけど、春日大社って、そんなに大きな建物がある神社ではないんやな。京都の八坂神社とかとはだいぶ違うな。まあ、社殿の大きさでどうこういうのも失礼な話やが……
 後ろをふりかえって、ここまで無事歩いてこれたことに感謝し、再び手を合わせる。
ーーそういえば、お守りをいただいて帰るのだった。
 妻にお守りを買って帰ろうと境内を探すのだが見つからない。
ーーもしかして、あの売店や茶屋があったところにあるのだろうか?
 またまた、水谷神社のところに戻って探すがやはりない。
ーー「しゃーないな。また、今度や。と、再度、引き返していると、多くの人が歩いている参道を発見。道幅の広い参道を、多くの人が、山の方向に歩いている。
ーーん?? 何があるのかな?
何気ない顔をして、皆さんに付いて歩いていくことにする。
 広い道を歩いていると、正面にすごい大きな朱塗りの門が見えてきた。
ーーお~っ!! これはすごい!! ここはどこじゃ?
 大きな朱塗りの門をくぐって、またまたびっくり、立派な本殿があった。

世界遺産
春日大社

 春日大社は全国に約三千社あるという春日神社の総本社だ。奈良時代(七六八年)に平城京の守護神とし創建された。
 先ほど通った、本社の正門である南門は、重要文化財であった。本社回廊内二は、多くの貴重な歴史的建造物などが数多くあり、いずれも重要文化財に指定されている。
 これらを見学できる、特別参拝をしようかどうか迷ったが、次回、家内と訪れる予定なので、その際に拝観させていただくこととした。
また、春日大社には、国宝館があり、多くの国宝が展示されている。これも併せて次回のお楽しみとしよう。

迷い道
原始の森に
ひかりはつ
朱の神殿に
歩みを忘れ

   秀翁 

 私は、さまざまな所に、ひとり旅をしているが、これは、あくまで、家内と行くための下調べなのだ。家内はあまり歩くのが好きではないので、できるだけ歩かずに効率よく巡れるコースを設定する必要がある。そのための下調べ旅行なのだ。決して、自分一人で旅行していると、家内の機嫌が悪くなってくるので、下調べ旅行と言っているわけではないのだ。くれぐれも誤解のなきよう。あ・し・か・ら・ず。

 春日大社で参拝を済ませた後、今度は、ちゃんと参道をを通って奈良公園の方向に戻ることにしよう。途中の、二之鳥居には、たくさんの観光バスや広い駐車場にいっぱいの自動車。多くの人が、春日大社をめざして歩いている。
 私は、裏山の春日山遊歩道から境内に入ってきたので、このような混雑した場面には遭遇しなかった。さすが、春日大社。失礼しました。
 参道を一之鳥居の方向に歩く。春日大社に参拝する時は、この一之鳥居から歩いて参拝するか、車で、二之鳥居まで行って、その駐車場から歩くかどちらかだろう。妻と来たときは、間違いなく、二之鳥居ルートだろう。そんなことを考えながら歩いていると、東大寺に向かう道まで来ていた。ここを横断して、一之鳥居に進む人が多いようだが、私は、右折して、東大寺の方向に歩く。
 大宮通りまで行くと、街の様相は一遍した。
ーーなんだ、このすごい人は。
 修学旅行のグループだろう、生徒さんたちが、一斉に東大寺の方向に一団となって進んでいる。先頭には、旗を持った案内役の人が、メガホンで注意しながら先導している。そういった団体とは別に、少人数のグループが、あちらこちらで、鹿とたわむれている。
私のすぐ横で、三歳くらいの男の子が、鹿の前で号泣していた。
ーーこりゃすごい! えらいところに来てしまった。
  外国人も多く、見るからに欧米からの人は、短パンにTシャツ姿で談笑しながら、それぞれの方向に歩いている。言語も様々で、どこの国にきたのかととまどうばかりだ。
 静かな春日山原始林から一気に繁華街にワープしたようだ。

ーー早くこのような場所からは脱出すべし。
 大宮通りを近鉄奈良駅方向に戻る。
歩道を鹿さんや人に当たらないように注意しながら歩く。

 左手に奈良国立博物館が見えてきた。次の目的地だ。広い敷地内には、すでに多くの人が座って談笑している。
ーーん? 博物館の玄関に行った人たちが、入らずに戻っているぞ。おかしいな??
 ネットで今日が定休日ではないことは確認している。いやな予感を抱きながら、玄関に近づく。

「臨時休館中」
との立て看板があった。
「なに~っ! 勘弁してよ。」
思わず、つぶやいていた。
ーー困ったなぁ。どうしよう。あっ! そうだ!
 奈良国立博物館には別館があり、常時、仏像に特化した展示を行っている。
ダメもとで、そちらの方に行ってみることにした。博物館の西側に古い石造りの建物がある。玄関ドアの前に立つと、自動ドアが開いた。
ーーおっ! 開いているみたい。ラッキー!
 玄関を入って右側に受付がある。会館していることを確認。

「隣の博物館は締まっていたのですが、こちらは見学できますか?」

 優しそうなお姉さんが、
「はい、この別館は通常営業しています。地下通路では、ミュージアムショップも開いていますので、ご利用いただけます。」
と、うれしいことを……

「この仏像館には、音声ガイドがあるとのことなのですが、貸出をお願いできますか?」

「音声ガイドは、すぐ奥のコーナーで、受付していますので、そちらで手続きをお願いします。」

 真っすぐ奥に進むと音声ガイドの受付があった。氏名や電話番号を言って登録完了。スマホをやや大きくしたようなタブレットにイヤホンが付いた装置を渡してくれた。すべての仏堂の解説は入っていないが、仏像の横に数字があるものは解説してくれるらしい。とにかく、仏像のところに行ってみよう。
 

国立博物館 別館 なら仏像館 

 「なら仏像館」は、飛鳥時代から鎌倉時代の仏像を展示しており、国宝、重要文化財など 約百体の仏像が見学できる。これだけまとめて見学できるところは、少ないと思う。
 館内は、いくつもの小部屋と大きな仏像を展示している大部屋とがあり、それぞれに解説板が設置されている。順路に従って最初の展示室に入る。早速、「一」と番号のある仏像の前に行き、番号を入力すると、画面には、その仏像の写真や解説が表示され、イヤホンからは、解説を読む声が聞こえてきた。
ーーあぁ、これはよくわかる。音声ガイドはありがたいな。
 多くの博物館は、解説の文字が小さく、視力の弱い私は、読むことはできない。最近は、iPhone のアプリで、Envision や Seeing AI のように、スマホのカメラを向ければ、音声で読み上げてくれるものが開発され、便利になった。しかし、暗い展示室や、細かな字の説明文は判読困難な場合も少なくない。その為、このような音声ガイドは非常にありがたい。
 最近は、NaviLens のような国際規格で、スマホを向けるだけで解説を読み上げてくれるシステムが普及しつつある。これは、記号シールの設置や解説文の登録も簡単で、低コストなので、我が国でも早く標準化して多くの施設に導入して欲しいものだ。このシステムは、スマホさえもっていれば誰でも利用することができるため、特殊な機器やソフトを準備する必要がない。また、解説内容は、簡単に追加、修正できるためランニングコストを抑えることができる。
 この NaviLens のように、障害者だけでなく、一般の多くの方にもメリットがあるシステムは、素晴らしいと思う。今後に期待したい。

 番号を入力し、すべての解説を聞き終わると、2時間半が経過していた。特に、興味があったのは「玉眼」(ぎょくがん)だ。仏像の眼として、水晶をはめこんでいるらしい。私は、仏像マニアではないので、詳しいことはわからないが、以前読んだ小説の中で、「玉眼」のことが書かれていた。読みながら、どのような感じになるのか、とても興味深く思っていた。
 今回の、展示では、赤い「玉眼」を使った仏像を見ることができた。赤い「玉眼」を入れられた眼は、恐ろしく迫力があった。
 仏像マニアではない人も、以下の小説を読んでから、仏像を見学すると興味の深さがかわるかもしれない。

梓澤 要 (著)
「荒仏師 運慶」

 見学を終え、仏像館の外に出る。振り返って仏像間の全景を眺めると、石造りの歴史のある建物だった。
 この建物は、一八九四年に完成した「帝国博物館」で、奈良最初の本格的西洋建築だそうだ。
 一九六九年に「旧帝国奈良博物館本館」として重要文化財に指定。
 二〇一〇年に「なら仏像館」として、仏像専門の展示施設にリニューアルしたとのこと。
 展示物、建物共に素晴らしい博物館だった。
古い建物を大切に保存し、展示室として、有効利用したスタッフに感謝、感謝だ。

 時間は、四時少し前、まだ時間はあるので、予定していた、「聖武天皇佐保山南陵」に向かう。博物館からは、約二キロメートル。いつものアプリを起動。大宮通りを渡り、奈良街道を北方向に進む。車の通行量は多いが、歩道がしっかりしているので歩きやすい。
ーー前方に丘陵が見えているので、おそらくそのあたりだろう。多聞城跡も近くにあるので、そちらも見学したいのだが、時間はあるかな?

 一キロメートルくらい奈良街道を歩く。
 私は、こうして、見知らぬ土地を、ひとりで歩いている時、何とも言えない幸福感を感じる。ひとり旅という緊張感によるものだろうか、五感が研ぎ澄まされているように感じてくる。
 すれ違う人たちの会話
 道の横を流れる水の音
 昔ながらの小さな商店

 さまざまな音。方言が聞こえてくると、ほっとする。
 転害門前を左折し、一条通り(県道一〇四号線)を西方向に脚を進める。この道の名前は、一条通りとなっているが、道幅は広くはない。歩道もないので、時々通貨する自動車に注意しながら歩く。
 丘陵は目の前だ。右手に丘陵を見ながら八〇〇メートルほど歩くと、佐保川が見えてきた。川幅十メートル程の小さな川が丘陵に沿って流れている。法蓮橋を渡ると、「商務天皇佐保山南陵」との案内板があった。幅二メートル程の道が真っすぐに伸びている。道には、草一本生えていない。両側にはきれいに手入れされたつつじや松などの木々が植えられている。五十メートル程先で道は二つに分岐し、右に行くと光明皇后陵、まっすぐ進むと聖武天皇
陵である。
 聖武天皇は、奈良時代を代表する天皇であるが、皇后の光明皇后との話も有名である。
光明皇后は、 奈良時代、公家として権力を振るった、藤原不比等の娘、光明子であり、不比等の孫である首皇子(後の聖武天皇)が夫婦となり、仏教を篤く信仰していた二人は、総国分寺として東大寺を、総国分尼寺として法華寺を建立した。
お互いを労り、支え合った二人であった。
 仲の良いオシドリ夫婦だった、二人がこうして同じ御陵に祭られていることに感動し、御陵を後にした。敷地内には、宮内省の管理事務所があり、この広い敷地を国がきちんと整備、管理していることがうかがえる。

 一条通を戻り、しばらく歩いて左折し細い道に入る。中学生が、何人か楽しそうに話しながら歩いている。若草橋を渡ると、上り坂となり、少し歩くと白い校門が見えてきた。校門の奥には石段があり、その上に校舎が見える。多聞城跡には若草中学校がたっており、敷地内に入る際にはやはり許可が必要なのだろうか。
 校門の前で、どうしようか迷っていると、ちょうど、四、五名の中学生が、現れた。掃除が終わったらしく「これからどうする?」などと会話をしていた。
話がついたのか、一斉に校舎の方に走って行ったが、小柄な女子生徒だけが、最後まで残って道具を片づけていた。
「すみません。奈良に観光に来たものですが、多聞城跡を見学させていただきたいのですが、学校の敷地内には、入ることはできないでしょうか?」
と、恐る恐る聞いてみた。不審人物だと勘違いされないように、最高の笑顔を作ったことは言うまでもない。
「多聞城跡へは、こちらの坂道を上って行ってください。山の上から見ることができます。」
と笑顔で教えてくれた。
「ありがとうございました。見学させていただきます。」
とお礼を言って坂道を上る。

ーーあの生徒さん、最後まで掃除道具を片付けていたなぁ。ああいう真面目な女の子がいたなあ。いい人生を送ってほしいものだ。」
親切な女子中学生に感謝、感謝です。 
坂道を登ると、駐車場があった。そこからは、奈良市街が一望できる。ちょうど学校が建っているところが本丸、こちらの運動場とは、、幅二メートルくらいの橋でつながっている。その下が大きな堀切となっていた。学生さんは運動をするたびに、この陸橋を渡らないといけないのだな。埋めて平らにしてしまえば使いやすいのだろうが、さすが、奈良市、文化財保存に対する姿勢が違う。
堀切を保存するために生徒さんが毎日努力してくださっている。
奈良市のスタッフと、若草中学校の学生さんに感謝です。

多聞山城跡

 多聞山城(たもんやまじょう)は、あの有名な松永久秀の居城となった城である。(多聞城とも呼ばれている)
 松永久秀によって、眉間寺山と呼ばれていた標高一一五メートルの山に築城された。城であり、場内には多聞天が祀られていたため、多聞山城と呼ばれた。
(現在でも城跡の山は多聞山と呼ばれている)
南東に東大寺、南に興福寺を眼下に見る要所に位置し、大和支配の拠点となった。
多聞城の様子を記載した資料として、一五六五年の当時の宣教師の書簡が有名である。
(日本耶蘇会士日本通信:ルイス・デ・アルメイダの書簡)
「光沢ある漆喰の壁で瓦葺の建物が建てられ」ていて、どれも高い水準だ。また「都で美しいものを多く見たが、これとは比べ物にならない」、「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない。
 また、宮殿の内部は、「壁は歴史物語を題材にした障壁画」、「柱は彫刻と金を塗り大きな薔薇」、「庭園と宮庭の樹木は本当に美麗だ」
と高く評価されている。
 安土城を作った織田信長は、この多聞城に触発されたと言われている。その豪華絢爛なお城は、跡形もない。つくづく時の流れのむなしさを感じる。

 若草中学校正門前から、坂を下り、南に進む、途中、奈良県立美術館や奈良
県立文化会館などの大きな施設の横を通る。
 大宮通りに戻ると、右に折れ、少し歩くと近鉄奈良駅に到着した。
 時計を見ると、もう5時を過ぎている。明日は、「山の辺の道」だ。JRで移動するので、今日は超早寝といこう。昨日のスーパーによって食糧を調達する。明日のお昼は、三輪そうめんを食べたいのだが、一応、菓子パンとクッキーも補充しておこう。今晩のおかずとトリスハイボールも買ってホテルに戻る。
「今日は、結構歩いたな、十九キロメートルか。明日も楽しみ!」

3日目

 今日は、JR万葉まほろば線を利用する。ホテルのある近鉄奈良駅から、JR奈良駅までは、約一キロメートル弱。ホテルを出て右方向にすぐ、「やすらぎの道」という癒されそうな道が南北に通っている。「やすらぎの道」といっても、遊歩道ではなく車道と歩道のある普通の道だ。スピードを出そうと思っても出せないやすらぎの道ということらしい。南方向に、三条通りまで歩き、交差点を右折、三畳通りを更に歩くと、JR奈良駅だ
JR奈良駅に着くとすぐ、レトロな駅舎が目に飛び込んでくる。
ーーいいねえ~。古都奈良というイメージにぴったり。
 でも、これは旧駅舎で、本当の駅舎は、その左にある普通の近代的な高架の駅なのだ。このレトロな建物は、旧駅舎で、今は観光案内書として利用されている。JR奈良駅を建て替えるときに、旧駅舎は取り壊される予定だったらしい。しかし、市民の強い希望によってこうして保存され、いい雰囲気の、観光案内書として再利用されている。保存運動をした市民の皆さんに感謝、感謝だ。

 JR奈良駅 八時発 普通電車に乗って、桜井駅に、八時二十七分到着。
 今日は、この桜井から天理まで、「山の辺の
道」を歩く予定だ。

山の辺の道

 古代において、桜井から奈良に向けて山すそを縫うように続いた道があった。『古事記』や『日本書紀』に「山の辺の道」と記されている二本最古の道である。
 今日は、桜井から天理までの約十六キロメートルを巡る予定だ。桜井で下車し、北口から駅前ロータリーに出て振り返ると、最近の普通の高架の駅ではあるのだが、駅名表示が面白い。桜井駅という表示の左に、上に近鉄、その下にJRと並んで表示されているのだ。近鉄大阪線とJR万葉まほろば線の相互乗り入れとなっている。駅名の下には、山をイメージしたピラミッド状の装飾が見える。

 まずは、いつものアプリを起動する。これらがないと、完璧に迷い爺さんになってしまう。 今回は、Geographica のみ起動し、iPad で「てくてくマップ 山の辺の道」を表示させ、いつものポーチに入れる。さあ、これで準備OK。
 駅前ロータリーを真っすぐ北に四百メートル程歩く、山の辺の道と表示されている四つ角を右折する。線路を超えて、右に大型スーパーがあるので、その前のを道を渡って左折。このように、この道はかなり紆余曲折が予想される。というのも、この山の辺の道は、計画的に通された道路ではないのだ。弥生時代、いやもしかしたら縄文時代から、小さな集落を結んでいた小径を繋ぎ合わせているだけなのだ。でも、標識がいたるところに設置されており、この案内用のマップを見ながらであれば、なんとかゴールに到達できそうだ。
 右折左折を繰り返し、金屋河川敷公園横から、長井出橋を通って、大和側を渡ると、仏教伝来の地という石碑があった。二メートル以上もあるような大きな石碑の横に説明板が接地されていた。
 太古の昔、 この金屋の河川敷付近には、船着き場があり、大阪から大和川を遡って、様々な物資が運ばれてきたらしい。外国からの施設も同じようにこの地に上陸し、仏教を普及させたとのこと。
 目の前の大和川を小船が行き交う様子を思い浮かべ、川の音を楽しむ。

 ここからは、住宅街の小径を縫うように道は続いている。古代の「市」があった場所、金屋の石仏や観音堂などが点在している。
 しばらく歩いて、首をかしげる。
ーーいたるところにあった「山の辺の道」の道標をしばらく見てないな。どうもおかしい!
 近所に住んでいそうなおじいさんが通りかかったので、聞いてみた

「山の辺の道は、こっちでよかったでしょうか
「あー、それなら少し戻って、左にまがらんといかん。あそこの赤いポストの前を左に曲がってな」

と、丁寧に教えてくださった。感謝、感謝だ。
戻ると、ちゃんと標識があった。私が、よそ見をしていて見落としたのだ。
ーーしっかり周りに注意しながら歩かんと迷ってしまいそうじゃわい。

 小さな道が住宅の裏、山裾、畑の横を左右に曲がりながら続いている。
 すると、急に大きな神社の境内に入った。
ーーあれ? 急に神社の敷地になったぞ、ここはどこじゃ?
 境内を歩きながら標識をさがすと、「大神神社」とあるではないか。
ーーえーっ! ここが日本最古の神社といわれている大神神社なのか……
 大神神社は、大和地方の一之宮でもありさすがに貫禄がある。ご神体は、背後にある三輪山であるので、本殿はないとのこと。ほんらいは、一之鳥居から参拝すべきなのだろうが、今日は、先が長いので、簡単に参拝を済ませる。
ーー次に妻とゆっくり参拝させていただこう。今日は失礼します。
裏の三輪山に向かって手を合わす。

 神社の渡り廊下の下をくぐって、山の辺の道に戻る。
 ゆるやかな傾斜の道を上ると、約二百メートルくらいで、狭井神社に到着。
ーーここは、女性の病気を治してくれる神様やったかいな。本殿の方に行っている人も女性が多いみたいやから、遠慮しとくかな。
(大変な勘違いをしていた。狭井神社の霊泉は、万病に効くとして、病気平易のため多くの人がお参りしているとのこと。次回の家内との旅の際に、しっかりお参りさせていただいた。大変失礼しました。)

 狭井神社を通り過ぎ、道を進もうとすると、工事中の標識が見えた。道は途中から閉鎖されている。看板には、う回路の説明がある。図がかいてあるので見てみると、池の横の道を廻っているようだ。周囲を見ると右横に小さな池が見えた。
ーーあっ、これだな。この池の横の道を通って、回り込むんやな。
 早速、池の横の小径を急ぐ。しばらくすると、小さな神社と奥に通じる建物があった。建物の奥からは、滝の音となにやら呪文を唱える男性の声が聞こえた。「きよめの滝」とある。どうやらここは行場のようだ。
道の前方を見ると、山の方に小径が伸びている。
ーーこの道を山の方に登っていくのかな? 
 二百メートルほど登ってみるが、だんだん道は険しくなり、完全に登山道となっている。
ーーおかしいな。このままいくと山にのぼってしまう。これは違うのでは?
引き返して、行場の方に尋ねてみることにした。丁度、同年配の女性が椅子に腰かけて待っている様子。
「すみません。山の辺の道は、この道でいいのでしょうか?」

「私はよくは知りませんが、この道は、人はよく通られているようですよ。たぶん、そうじゃないですか」

「そうですか。どうもありがとうございました」

もう一度、山道に戻って、左に分かれている小径を進んでみた。
ーーいやーっ、やっぱり違う。だんだん獣道ようになってきた。
またまた、祈祷書に戻ると、あたりを見渡す。
祈祷書の前には、野菜の畑があった。
ーーそういえば、地図にも畑が書いてあったな。この畑の向こうに道が続いているのかもしれんな。
 畑を横断して、向こう側に移動して、周囲を観察する。
ーー何も道はないよ。これは完全に迷ってしまった。そんな時は、原点に戻れ、やな。
 祈祷書から小径を戻っていると、私と同年配の夫婦がこちらに歩いて来ていた。
「こんにちは。山の辺の道を歩かれているのですか?」

「そうなんです。こちらに回り道をするように書いてあったので、来てみました」
「私もそう思ってきたのですが、違うみたいなんです」

 今までの経過を話、もう一度もとの工事の看板のところに戻ってみることにした。

 ところが、そこには、多くの人だかりができていた。

 私たちだけではなく、多くの人が困っているようだ。私は、右の道を行ったが、どうもちがうようだとのことを説明した。よくわからないので、その工事の案内に記載している電話番号に電話をしてみることにした。電話には観光課の職員が対応しているようだった。
「左の大きな池を回りこむと、少し先の山の辺の道に出るようになっています」

「えっ!左の道ですか??」
 皆で、少しもどって左の方角を見る。「あっ!こっちだ!」

「大きな池がある」
 池の横の道を歩いていると「山の辺の道 こちら」と矢印が大きく書かれた立て看板があった。ほっと、ひと息、「ふう~っ!」とため息が出た。 皆で矢印の方向に歩く。池を回りこみながら歩いていると、「大美和の社展望台」との標識が見えた。時計を見ると、十一時を過ぎている。
ーーちょっと疲れたな。展望台で景色でも見ながら、早めの昼食にするか。
 階段を少し上がると、見晴らしのいい展望台になっていた。ちょうどいい所にベンチがある。よっこらしょ、と座ってあんぱんとみかんを食べる。一息ついた。道に迷って、ウロウロするというのは、時間も浪費するし、気分的にも疲れる。
きれいな景色を見て、リフレッシュしたところで、
ーーさあ、出発だ。予定がかなり遅れているので、途中、あまりゆっくり見学はできないかも……
展望台から迂回路の進行方向に階段を降りる。少し歩くと、またまた小さな神社の境内に出た。
ーーえっ!次の神社までは、一キロ以上あるはずなんだが……
 迷ったら原点に戻れ。展望台まで引き返し、最初に上った石段を降りる。
気を取り直して歩いていると、本来の「山の辺の道」に合流できた。
ーーやった~!これで大丈夫!!さあ、急ごう。

 道幅が一メートルくらいの細い石畳の道が山肌を縫うように曲がりながら続いている。森の中に入ると、薄暗く、しっとりした空気が流れてくる。日当たりのいい道に出て、前を見ると、土塀に囲まれた古い建物が見えてきた。玄賓庵(げんぴんあん)だ。
 平安時代に、玄賓僧都が隠棲した場所とのこと。庭の紅葉が美しく、ゆっくり拝見させていただきたいところだが、先を急ぐので早々に出発する。
 三百メートルほど歩くと檜原神社に到着。この神社は、大神神社の摂社で、元伊勢と称されており、歴史的にもかなり古い。ここも次回のお楽しみとしよう。
道は、ミカン畑、桃畑を伝うように伸びている。いたるところにミカンや柿、野菜の無人販売所が設置されている。小ミカン一袋百円とあったので、一袋購入した。代金は、横の貯金箱のような箱に入れる。喉がかわいたので、ミカンをひとつほおばる。
ーー美味い!
 iPad に入れているマップを見ると、このあたりも多くの遺跡や古墳が点在している。
 さきほど通った大神神社がある三輪には、二本最古の前方後円墳である箸墓古墳や纏向遺跡があり、ゆっくり時間をかけて見学したいところである。

 しばらく歩くと、左手方向に景行天皇陵が見えてきた。御陵の東から回り込むように周囲を山の辺の道が通っている。御陵は木々で覆われ、こんもりとした森に見える。
 更に進むと、崇神天皇陵の標識が見えた。御陵を北から回り込んで道が続いている。御陵の周囲には堀がめぐらされ、きれいに整備されていた。ミカン畑や農家と思われる集落を抜け、のどかな田園地帯を、ひたすら歩く。
 やっと全行程の半分を過ぎたところだ。狭井神社の後の、道迷いがなければ、ある程度ゆっくりけんがくしながら巡れたのだが……
 見知らぬ土地で、日が暮れて、暗い中をウロウロするようなことだけは避けたい。時間を気にしながら先を急ぐ。

 この辺りは、東海自然歩道にも指定されているため双方の標識が並んでいる。それでも道なりに歩く距離は少なく油断すると脇道に入る標識を見逃してしまいそうだ。iPad の山の辺の道てくてくマップを確かめながら歩く。
 標識があり、真っすぐ進むように、進行方向に矢印が指示されている。そのまま道を歩いていると、前方に広い道幅の道路が見えてきた。車の通行量も多い。
ーーん? おかしいな? あんな大きな道は山の辺の道に今までなかったけどな? やっぱりおかしい! 道を間違えたようだ。
 今まで歩いてきた道の様子からは、考えられない道が現れたので、引き返すことにする。
来た道を戻っていると、向こうから三人のグループが近づいてきて話しかけられた。
「やっぱり、道が違うみたいですか?」

「そうなんです。どうも違うようなので引き返しているところです」

「じゃあ、一緒に行きましょう!」

「よろしくお願いします」
 標識の所まで戻ってマップを見ていると、向こうから何人か歩いてきた。訪ねると山の辺の道を歩いているとのこと。
 三人グループの男性が、
「この標識が間違っているのですね。真っすぐではなく、右折なんだね。これは、なおしてもらうように電話しないといけないな」
 とつぶやいた。標識が間違っていることもあるんだなと驚き……

 グループの皆さんは、私と同年代の様子。それぞれ自己紹介し合って、天理まで一緒に歩くことになった。男性は、元某市役所の職員、あとの女性二名は、奥様とお友達で元教師をされていたそうだ。天理まで四人の珍道中となった。皆さん大阪から来ているとのことで、奈良や大阪のみどころを聞いたり、四国遍路の話をしたり、楽しい時間が過ぎていった。
 気が付くと、竹之内町まで来ていた。ここには、環濠集落が残っているとのことで、四人で町内を見学させていただいた。外敵から町を防御するため、集落の周りに水堀が巡らされていた。室町時代には、多くの集落がこのような環濠を巡らして、外からの侵入を防いでいたとのことである。特に竹之内地区は、大和地方でもっとも標高の高い位置にある環濠集落とのことである。
 環濠集落を巡りながら、皆、時計やらスマホで時間をチェックしている。
「私たちは、JR三輪駅に車を置いて、歩いていのですが、もっとゆっくり時間をかけて観光したいですね。ちょっと時間がないみたい。いそぎましょう。暗くなりそうです。」
「そうですね。私なんか、桜井駅から歩いているので、本当に駆け足になってしまいました。この山の辺の道には、見たいところがいっぱいありますね。」

 四人で時間を気にしながら、山の辺の道を歩く。小道を右折、左折を何度も繰り返しながら
歩く…… 歩く…… 
 内山永久寺跡を過ぎ、更に、歩く……
 
 薄暗くなりかけてきた頃、目の前に石上神宮の鳥居が見えた。四人から、
「お~っ!」と歓声やら、ため息やら分からない声がでる。
 揃って参拝した後、
「私たち御朱印を頂いてきます。」
と奥様達は、社務所に向かった。立派な朱塗りの本殿の周りには、灯篭に灯が入り、幻想的な雰囲気をかもし出している。
 石神神宮(いそのかみじんぐう)は、日本最古の神社の一つといわれている。「神剣」の話など話題は豊富だが、次回、家内と来た時に、ゆっくり拝観させていただきたいと思う。

 とにかく暗くなってきている。急いでJR天理駅に向かう。天理駅までは、大きな道路を真っすぐに進む。歩道もしっかりしているので歩きやすい。それでも駅までは、約二キロメートルあるので、急いで歩く。
 両側の歩道には、銀杏の木が植えられている。葉が黄色に色づき美しい。いちょう並木の黄色いカーテンを眺めながら歩く。左右に見えるのは天理教関連の建物ばかり。天理大学、天理小学校、天理病院だろうか?
 建物を見ただけで天理教関連の施設だとわかる。それぞれ鉄筋コンクリート造りのおおきな建物なのだが、屋上は瓦葺きで、お城で例えると入母屋破風のようなものが並んでいる。天理市に来たのは初めてだが、このように市内全体が統一されたイメージになっているとは思ってもみなかった。
 あちこち眺めながら歩いていると、あっという間に天理駅に到着した。天理駅も特徴的な駅舎かなと思いきや、ごく普通の高架タイプの駅舎だった。
 三人の方々とは、お礼を言って別れ、奈良行の普通電車に乗った。
 JR奈良駅に着き改札を抜けると、外は真っ暗。
ーーこれはやばい! LEDライトを出さないと……
 歩きながらザックの中に手を入れた途端、一回転して転倒した。
「ガシャッ!」
と、いやな音が聞こえた。ゆっくり立ち上がって体を確かめる。特に異常なし。
次に、首から下げていた iPad 用のバックを見る。
ーーあっ、iPad がない!
足元をさがすと、一メートルほど前に転がっていた。拾い上げて起動してみる。特に異常なし。画面も割れていない。フチに少し傷がついているくらいで大きな破損はなかった。
ーーよかった! 
 後ろを見ると、高さ六〇センチくらいのコンクリートの車止めがあった。
ーーあーっ! これに躓いたんだな。暗くて見えなかった。もっと早くライトを出していればよかった。杖もいるな。もっと慎重にならんといかんな。
 周囲を見ると誰も気にする気配はない。深呼吸をしてホテルに向う。朝、通った三条通りは、夜になると、両側のお店の明かりが点灯し、外にもイルミネーションが光ってとても綺麗だった。ライトなしでも歩けそうだったが、念のため足元を照らしながら、三条通りの歩道を
東に進む。にぎやかで明るい小西さくら通りを左折し、真っすぐ歩くと、いつものスーパーの前に着いた。
ーー今日は、ちょっと疲れているので、豪勢にいくか! 握りずし、焼き鳥、サラダ、そしてトリスハイボール、そうそう明日の食糧も補充しないと……
 ホテルの自室に戻り、入浴、さっぱりしたところで、NHKご当地ニュースを見ながら、食事を楽しむ。このひと時が最高!
 体の程よい疲労感とその日の驚き、感動を振り返りながら、ゆっくり食事を楽しむ。パジャマでのリラックスした雰囲気も、居酒屋では味わうことができない。私だけの至福のひと時だ。ほろ酔い気分で、今日も超早寝。

<余談>
 毎年、七月から八月は、暑いので外を歩き回る気がしない。それに、夏休みになると、ホテルが予約し難いし、当然人も多い。だから私は、この時期は旅行には行かない。自宅でおとなしくしているに限る。とは言っても、旅に出たい気持ちは簡単には収まらない。そこで、この時期は、旅をテーマとした本を読むことにしている。旅の本と言っても、本当に多種多様だ。ひたすら旅の目的を美味しいものを食べることに徹している旅レポ。マニアックな鐡道の旅。各地の居酒屋を巡る飲み旅、史跡を巡る旅、平家物語の跡を辿る旅など、切り口は数限りない。それぞれに味があって、読んでいて楽しい。私の旅レポは、主に歴史を辿る旅なので、グルメ旅好きの方には物足らない内容だと思う。
「昼食は、いつもチョコクッキーじゃないか。もう少し、そこでしか食べられないものを考えたらどうだ。」とお叱りを受けそうだ。
 私も、そうしたいのだが、ついつい食欲より、感動したい欲が打ち勝ってしまうのだ。
 このように好き勝手ができるのも、ひとり旅の楽しさだろう。そこのところを、ご理解いただいてお付き合い願いたい。

四日目

 いつものことながら、フェリーでの旅は、最終日が最も難しい。とにかく、フェリー乗船までの時間までどう過ごすか、これがやっかいなのだ。夕方五時までは、施設は開いているし、外も明るいのでウロウロできる。それから、八時までが、外は暗いし、行くところがないしで、悩んでしまうのだ。五時からのノープランは忘れて、今日を楽しもう。
 奈良に来たら必ずみんなが行くところ。東大寺と興福寺。まずはこの二大巨頭を制覇しよう。
 一昨日、春日山原始林から帰る途中、東大寺への参道を見た。すごい人で驚いた。やはり、神社仏閣は早朝に限る。東大寺大仏殿の開館時間は、八時となっているので、少なくとも八時には大仏殿の入口に着きたい。
 

世界遺産
東大寺

 朝食を早めに済ませる。身支度も完璧。七時過ぎにはホテルを出発し、大型ザックをコインロッカーに預け、歩きなれた大宮通りを東に向かう。早朝なので、人通りは少ない。
奈良街道を横断し、奈良公園に到着。
ーー人が少ない。良かった~。お店もまだ開いていないよ。
 東大寺の方向に左折し、少し歩くと南大門だ。後でゆっくり観させていただくとして、大仏殿の方に急ぐ。
 大仏殿入口付近はまだ人は少なく、誰も並んでいない。修学旅行生や外人さんもまだ到着していない様子。
ーーラッキー!
と心の中でつぶやき、ガッツポーズ。
 開館時間まで、周囲を散策する。鏡池の周りを歩くと木々の紅葉に目と脚が止まる。南大門から大仏殿に至る参道の両側の木々が見事に色づいている。思わずスマホの写真を何枚も撮ってしまう。
 いつも旅から帰って、写真を見て思うことだが、
ーーちがうんだよなぁ~! 色も風景も、似てまったく非なるものなんだよなぁ~!
 といつもがっかりする。そのせいか写真を撮る枚数は、年々減少してきている。写真を写すより、自分の網膜に定着させる方が感動を保存できるような気がするのだ。

 大仏殿の入口を見ると開いた様子。まだ、見学者はまばらだ。

大仏殿

 東大寺の金堂である大仏殿は、奈良時代に創建されてから二度の兵火により消失、現在の建物は、江戸時代に再建されたものである。
 ただ、江戸時代に再建された大仏殿は、東西約八十八メートルから約五十七メートルに縮小された。それでも高さや奥行は創建時のままで、世界最大級の木造建造物である。
 東西 約五七メートル
 南北 約五〇メートル
 高さ 約四九メートル
 大仏様は、盧舎那(るしゃな)仏尊像で、像の高さが、約一五メートルで、国宝である。

 聖武天皇当時の社会情勢は不安定で、長屋王の変、天然痘の流行、藤原広嗣の乱など、十年以上にわたる激変が続いた。聖武天皇は、こうした世の中を癒し、国家の安泰と民衆の幸福をはかるには仏教思想による以外にないと、
 七四三年に、紫香楽(しがらき)宮で盧舎那大仏造顕の詔を出された。大仏造立のために「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願う人々の協力を求められた。
 七四九年に仏身が鋳造、七五四年には大仏殿も造営され、盛大な開眼供養会(かいげんくようえ)が執り行なわれた。

 回廊の入口から、敷地内に入ると、正面に大仏殿が見える。圧倒的迫力を感じる。巨大としか言いようがない。二層構造だが、当然、一階部分が高く、巨大な丸柱で支えられている。しばらく建物を眺めていると首が痛くなった。
 大仏殿の正面入口に向かって歩く。入口の手前中央に八角形の灯篭がある。形のとおり「八角灯篭」と呼ばれているらしい。なんとこの灯篭も国宝に指定されている。この灯篭は、東大寺創建当時のものが、そのままの形で残っているとのこと。幾度もの兵火にも耐え、現代まで、こうして大仏殿の前に立って、東大寺を見守ってきたのだ。国宝ではあるが、雨ざらしの状態、これからも末永く見守って欲しいものだ。敬意をこめて黙礼する。

 中に入ると、大仏の大きさに圧倒される。大仏殿のなかに足を踏み入れ、上を見上げるが、大仏様がいない。
ーーあれ? 大仏様が見えないな……
暗さに目が慣れてくると、目の前に大きな壁のような…… 首を反らして、もっと上を見ると、
ーーあった! あった! でかい!
 以前、学生の時代にも見たことがあるし、大仏様が巨大であることは知っているが、実際に目の前にすると、ほんとうに大きいことが実感できる。よくぞこのような大きな仏様を奈良時代に創ったものだ。しかも当時は、今の一・五倍横幅があったのだ。私たちがみても驚くのだから、当時の民衆なら腰を抜かすのではないかなどと思いをはべる。
 ふと、天井を見るとすごく高い。左の壁側に階段があった。一階からいっきに四階まで上がるのではと思えるほど、真っすぐで急な階段が天井まで続いている。階段の先を見ながら、吉川英治の新平家物語の一節を思い出した。
 一一八〇年平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が消失した。この大仏殿も全焼した。兵士から逃げた僧たちは、この大仏殿の二階に逃げ込んだ。二千人近くがこの大仏殿の二階にいたといわれている。恐ろしいのは、その状態で火が燃え移り、大仏殿全体が火の海になってしまったことである。二千人は燃え盛る日の中で逃げ場所もなく焼かれた。
 そして、大仏殿が燃え落ちると同時に、天井中央から、二千人の僧侶たちが、一塊の肉塊となって落ち、溶け落ちた大仏様様と一緒に肉片の山を築いたとのことである。そのような恐ろしい歴史がここにはあるのだ。
 鎮魂の祈りを込めて黙礼する。

 それ以外に、以前読んだ大仏造営に関する小説を紹介しよう。見学する前に是非お読みいただきたい。

澤田瞳子(著)
「与楽の飯 東大寺造仏所 炊屋私記」

箒木蓬生(著)
「国銅」

 大仏殿を出て、鏡池の右の道を南大門に向かう。先ほどは時間がなかったので、じっくりとは見ていなかったのだ。

南大門(なんだいもん):国宝 鎌倉時代
 東大寺の正門である。奈良時代に創建されたが平安時代に台風で倒壊。現在の門は、鎌倉時代に再建されたもの。わが国最大級の重層門である。

南大門金剛力士(仁王)像:国宝 鎌倉時代
 一二〇三年、運慶や快慶による造像。像高は約八メートル。

 南大門を通り過ぎ、正面から改めて眺める。大仏殿も大きいが、この南大門も巨大だ。
 門の高さが、約二十五メートル、幅約二十九メートルもある。日本最大の山門だ。
ーーあれ? 門の中央に大きな額が掛かっているが、「大華厳寺」と書いている。ここは、東大寺ではないのかな?
 早速、iPhone で調べてみる。東大寺は、華厳宗の大本山なので「大華厳寺」とも呼ばれているとのこと。
ーーなるほと、なるほと、疑問に思ってことは、放置せず、とことん調べて納得することが、ボケ予防になるんだよな。よし、よし。

 門前の石段を五段上がって左右の金剛力士像を眺める。右に吽形像、左に阿形像が向かい合う形で金剛力士像が安置されていた。これは、通常の配置とは逆のとのこと、
 また、阿形像は、運慶と快慶が小仏師十三人を率いて造立、そして吽形像は定覚および湛慶が小仏師十二人を率いて造立したものである。
 なお、東側の大きく口を開けた方が雄(阿像)で、西側の像が雌(吽像)。

 以下に紹介した本にも、その当時の様子が詳しく説明されているので、是非、ご一読いただきたい。

梓澤要(著)
「荒仏師 運慶」

 南大門の石段を降り、大仏殿方向に道を戻る。大仏殿と、右にある鏡池の間の道を、大仏殿の回廊に沿って歩く。鏡池の周囲は紅葉で赤く色づき、池に移りこんでいる。色鮮やかな景色に見とれ、止まったり歩いたり、しばらく見とれたり、あまりの美しさにため息がもれる。
 大仏殿の回廊に沿って左に曲がり、少し先の小径を右に折れると、左に俊乗堂の説明書きがあった。

俊乗堂(しゅんじょうどう):江戸時代

 このお堂には、重源上人像(国宝)を本尊とし(仏師快慶作)。快慶作の阿弥陀如来像(重要文化財)、平安末期の愛染明王像(重要文化財)が安置されている。

 小径を更に少し上ると、鐘楼と行基堂がある。

鐘楼(しょうろう):国宝 鎌倉時代

 鐘楼は、鎌倉時代に再建したもので、重さ約二十六トンもある梵鐘(国宝)は、東大寺創建当初のもので、日本三名鐘のひとつである。
 現在でも毎日夜八時に撞かれている。

 東大寺は、大仏さまや南大門など巨大なものが多い。この鐘を最初に見た時、その大きさに驚いた。四国のお寺の鐘とはまったくサイズが異なっている。

鐘の大きさは、
高さ 三・八メートル
口径 二・七メートル
重量 二六・三トン
 巨大な釣鐘であるところから、東大寺では大鐘(おおがね)と呼ばれているらしい。

 同じ区域内に、かなり古い様子のお堂がある。行基堂(ぎょうきどう):とあり、創建は、江戸時代とのこと。
 更に、奥に足を進めると、様々な伽藍が立ち並んでいる。東大寺は広い。様々な方向に小径が分かれ、迷いながら歩いている。
 春日山原始林の紅葉も美しいが、この東大寺境内の紅葉は見事としか言いようがない。数歩歩いては、周囲の景色を確認する。一歩ごとに、見える角度が違ってくる、一歩一歩、歩くたびに新たな絵画を鑑賞しているような美しさである。色づいた木々と歴史ある建物が調和して、心地よい。歩いても、歩いても初対面の伽藍に遭遇する。

四月堂(三昧堂)しがつどう(さんまいどう):重要文化財
 かつて旧暦の四月に法華三昧会が行なわれたことから、四月堂の通称がある。普賢三昧堂とも呼ばれている。
 一〇二一年に創建。堂内には十一面観音像や阿弥陀如来像(いずれも重要文化財)が安置されている。

法華堂(三月堂):国宝 奈良時代
 七三三年から七四七年の創建で、東大寺最古の建物である。毎年三月に法華会が行なわれたことから、のちに法華堂と呼ばれるようになった。
 法華堂の堂内には、本尊の不空羂索観音像を中心に合計一〇体(国宝、奈良時代)の仏像がところ狭しと立ち並んでいる。

 二月堂:国宝 江戸時代
 には、大きな杉の木がある。良弁杉と呼ばれている。

良弁杉(ろうべんすぎ)
 僧良弁が、幼いころ鷲に連れ去られ、杉の木に置かれた話として、
「良弁は、二歳のとき、母が桑を摘むため木陰に置いたところ、突然舞い下りてきた大鷲につかみ去られ、春日神社まで運ばれる。たまたま通りかかった義淵(ぎえん)僧正に救われ育てられる。修行を重ねた良弁は、名僧となり、のちに、母の刻んだ観世音菩薩像の縁によって母子は再会を果たし、良弁は孝行を尽くしたという」

 二月堂から下ると、二月堂裏参道となる。
左側、田んぼの向こうに大湯屋(浴場)が見える。ここは残念ながら非公開。更に、降りて大仏殿の北東の角の手前を右に小径を進む。突き当りを左に進む。銀杏並木が黄色に色づき、落ちた葉も地面を黄色く覆っている。はっと息を飲む美しさだ。写真は撮っても無駄だと思いつつ、ついついシャッターを押してしまう。
 数歩、歩いては振り返る。見る位置によって新たな絵画が現れる。しばらく立ち止まて、深呼吸。空気の香りにも紅葉の気配が漂っている。私は、若いころから登山が好きで、様々な山の紅葉を見てきた。しかし、このように計算された演出の紅葉がこのように美しいとは感じたことはなかった。このタイミングで奈良に来れたことに感謝、感謝です。

 正倉院の標識の方向に曲がると、厳重な塀に囲まれた施設が見えてきた。門から中に入ると、あの教科書の写真と同じ、正倉院があった。
 写真と同じだが、大きさが違う。思っていたより、かなり大きい。それにしっかりとした構造だ。もっと小さく、古い朽ちかけたような木造の建物かと想像していたが、あまりにも綺麗な状態だったので驚きだ。手前には、管理のための建物があり、厳重に管理されていることがわかる。遠くから見るだけで、もちろん建物に触れることはできない。
 東大寺の建物とは別扱いで、宮内庁の管轄になっている。毎年秋に開催されている、奈良国立博物館の「正倉院展」を是非見学したいものだ。

 正倉院から、南に歩くと、大きな池がある。東大寺大仏池という名前らしい。池の周りの木々を色好き、昼食場所にはもってこいの場所だ。もうお昼を過ぎている。ベンチを探すが、空いているベンチがない。
ーー鏡池やお堂の近くはもっと混んでいるだろうな。しかたがない、あの大きな石の上に座らせてもらうか。
 石の上にシートを敷き、昼食タイムだ。またまた、あんパンとみかんを食べる。ずっと歩きっぱなしだったので、座ってエネルギーを補充すると、モリモリ元気が沸いてきた。気力もチャージできたようだ。

ーー元気になったところで、次に進もう!

 南大門まで戻り、すぐ横にある東大寺ミュージアムに入る。国宝級の展示物がある博物館の中は、展示物保護のため照明を落としている。そのため暗く見えにくい。この東大寺ミュージアムは、かなり暗かったので、目がある程度慣れるまで待ってから動くようにした。
 展示品の解説は文字が小さく見えないので、いつものアプリを利用することにした。
 Envision を起動。ヘッドセットを耳に装着し、準備OK!
iPhone を解説文に向けると、自動的に読み上げてくれる。このアプリができるまでは、博物館に入っても、ほとんどの説明が読めないので残念な気持ちがしていた。本当にありがたい。
技術の進歩に感謝、感謝だ。
 説明をイヤホンで聞いていると、
「すみません。」
ふと、右を見ると、係りの女性が話しかけてきた。
「館内は、展示物を保護するため、ライトは使用しないようにお願いしています」
とのこと。
 Envision が説明を読み取る際、暗いので自動的にスマホのLEDが点灯したらしい。
「すみません。目が悪くて説明が読めないので、スマホのアプリで読んでもらっていました。暗いのでライトが点灯したのだと思います」 
 急いでスマホをポケットに入れ、謝罪した。
ーーこれは、なんとなく見て帰るしかないな。
 フロアー内を見て回っていると、年配の男性が近づいてきた。
「先ほどは失礼しました。ライトをつけて見ていただいて結構です」
 どうやら、先ほどの女性が上司に相談したらしい。こちらの状況を理解し、声をかけてくださった。解説文を読めるようになり、感謝、感謝だ。
 仏像館でも書いたが、現在、NaviLens という QRコードで、音声ガイドできるシステムが世界標準となってきている。これを利用すると、スマホをかざすだけで、その展示品の解説が、世界中の言語に翻訳され、音声で聞いたり、文書を読んだりできるようになる。ランニングコストも安いので、早く日本でも普及してほしいものだ。

 ミユージアム内には、千手観音菩薩像、法華堂伝来の日光・月光菩薩像、奈良時代の誕生釈迦仏像や大仏開眼供養に用いられた伎楽面など、数多くの展示を見ることができた。

 南大門を通って参道をあるく。ふと、左に広がる奈良公園をみる。
奈良公園の紅葉も真っ盛り。もうこの時間になると人がすごい。ベンチに座ろうなんてとんでもない。
 真っ赤に色づいた紅葉の木の所で家族やカップルが写真を撮っている。修学旅行生が鹿にせんべいをあげている。多くの鹿が集まって、男の学生が押され気味だ。それを見て学友が笑っている。
ーーう~ん、ここは別世界だな。奈良で人が特に多いのは、ここから興福寺までの間だけみたいだな。なるべく人込みは避けたいが、まだ興福寺に行っていない。人は多そうだが、時間がないので行ってみよう。

 大宮通りを横断し、反対側の歩道を近鉄奈良駅方向に歩く。左の奈良国立博物館に、「次は見せてもらうよ」と心の中で挨拶する。なら仏像館にも別れを告げて、登大路地下歩道を通って奈良街道を横断する。
 奈良街道を渡るともう左は興福寺だ。右には奈良県庁が見える。県庁前バス停を過ぎると、左に「世界遺産 興福寺」の石碑が見える。ここが北参道の入口だ。人の流れに従って興福寺境内に入る。
ーーこりゃぁ、すごい人だわ、こりゃ、おえん。五重塔の前には、なにやら行列ができとるぞ。

世界遺産
興福寺

 六六九年 藤原鎌足の病回復を祈願して造営された。
 平城遷都の際、藤原不比等によって当地に移され、「山階寺」から「興福寺」と改名した。
 藤原摂関家との深い関係により強い勢力となり、平安時代には春日社も支配し、鎌倉・室町時代には、興福寺が大和国の守護となっていた一九九八年世界文化遺産に登録。

 北参道を進むと、右手に新しい巨大な伽藍が見えてきた。
ーーお~っ! これが最近復元された、中金堂か。これもでかいな。
 中金堂は復元されているが、回廊や中門は手つかずで、柱の位置を示す礎石のみが見える。それらの周囲はフェンスで囲われている。
 よく見るために、南側の少し高くなっている南大門跡に上がって眺めることにした。これだけの大寺院となると、復元も簡単には進まないのだろう。回廊や門も復元された、往時の姿を見たいものだ。

中金堂(ちゅうこんどう)
 創建より六回の焼失・再建を繰り返し、
一七一七年焼失後は、財政的な問題により再建が進まなかったが、二〇一八年に復元された。

 南大門跡から眺めていると、やはり五重塔のあたりに人が多い。
ーー何かあるのかな? ちょっと覗いてみよう。
 五重塔の前には、テントが張られている。特別拝観受付と書いてあった。なんでも大規模修繕予定であり、その前に特別に内部に入れるとのことだ。
ーーほう、それは是非、是非、見学させていただきたいものじゃわい。
 長蛇の列というほどではなかったので、私も並んで、五重塔の中を見学することにした。中は、薄暗くて困ったが中の木に触れることができた。内部の木組みは、しっかりしていたようだが、外壁や柱は、雨風によりかなり傷んでいるなという印象だった。大規模修繕予定というのが理解できる。内部は、思ったより広く、二階に上がる階段など普段見ることができない様子が見学できた。

五重塔:国宝
 五重塔は、五回の焼失・再建を経て、現在の塔は一四二六年頃に再建されたものである。
現在、日本で二番目に高い塔であるが、創建当初の高さは約四五メートルで、当時日本で最も高い塔だった。

 少し大宮道りの方角に戻ると、国宝館があるが、これは家内と来た時に見学しよう。その南側に東金堂がある。 

東金堂(とうこんどう)
 七二六年 聖武天皇が、元正天皇の病気全快を願って建立した。その後五度の被災・再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の一四一五年に再建されたものである。

 東金堂を出て、中金堂と南大門跡の間を通り、西に進むと南円堂がある。

南円堂(なんえんどう):重要文化財
 南円堂は「西国三十三所」の第九番札所であり、八一三年 藤原冬嗣(ふゆつぐ)が建立した八角形のお堂である。その後、四度の被災があり、現在の建物は、一七八九年に再建されたもの。

 南円堂を北に進むと、北円堂がある。

北円堂(ほくえんどう)
 藤原不比等の一周忌にあたる、七二一年に、元明・元正天皇が、長屋王に命じて建てさせた。現在の建物は、一二一〇年頃に再建されたもの。 現存する八角円堂では、最も美しいと評価されている。

ーーこれで興福寺を一回りできたかな。少し休憩しよう。

 南円堂の横の長い石段を降りる。目の前には有名な猿沢の池が広がっている。ここは公園になっていて、トイレや休憩用のベンチが各所に置かれている。

 猿沢の池の周りを歩く。興福寺五重塔が紅葉の木々とともに猿沢の池に移り実に美しい。景色に見とれながら足を前に出すと、
「キャンっ”」
となにやら悲鳴が聞こえた。
思わず足元を見ると、鹿があわてて立ち上がり逃げている。どうやら、私が座っている鹿の足を踏んだらいしい。
「ごめん。ごめん。」
と謝るが、鹿は振り返らず逃げて行った。
ーーおっさん、もっとよく前を見て歩かんかい!
後ろ姿が言っていた。
ーーここでは、鹿が最優先やから、まさか寝そべって、リラックスしとるところを踏まれるとは思わんかったやろなぁ。それにしても悪いことをしたな。せんべいでもあげたいけど、もうおらん。

 ベンチは空いていないので、立ったままお茶をのみ、この美しい風景を網膜に焼き付ける。

ーーそういえば、この猿沢の池には、怖い話があったな。
 平家打倒に立ち上がった源氏に協力した南都の僧を、武器を持たずに鎮めに行った平氏の部下約六十人の首が、猿沢池のほとりに並べられた。これに激怒した平清盛は、平重衡を南都征伐に差し向ける。(南都焼き討ち)
ーーこの池のほとりに、首が並んでいる光景は想像したくないな。

ーーさて、何時の電車に乗ろうかな。夜七時過ぎには、フェリーターミナルに着きたいな。夕方五時くらいので大丈夫やな。でも通勤ラッシュやな。

 興福寺を後にして、近鉄奈良駅に向かう。
ーーまだ、お土産を買っていないので。買わなければいけない。奈良といえば、柿の葉寿司と三輪そうめんだろう。とりあえず、柿の葉寿司を家内に、息子夫婦には、奈良漬とお菓子にするか。

 近鉄なら駅の構内にあるおみやげ物店に行って、希望の品を店員さんに話す。適当に選んでもらって会計する。
 私のお土産買いは非常に速い。
最終日以外は、お土産店やお店に立ち寄ることも皆無だ。家内と来たときは、逆にこちらがメインになる。以前は私も地酒をいろいろ買っていたが、ずいぶん前から、ぴたっと買わなくなった。地酒はその土地で楽しむことにしたのだ。私の好きな、歴史小説家の吉村昭師も同様のことを、エッセイに書いていたとおもう。

 帰りも同じルートで弁天町に向かう。さすが大阪、鶴橋で環状線に乗るときは、ぎゅうぎゅうだった。乗れるかなと思ったが、案外入れるものだ。弁天町で降りて、コンビニで今晩のおつまみを少々購入する。今回は、チーズたらと、ミックスナッツ、そして、ハイボール。
地下鉄中央線、ニュートラムと乗り継いで、フェリーターミナル駅に到着。このターミナル駅の改札を通るときいつも感じる、
ーーあ~あ、楽しい旅が終わってしまった。たのしかったなぁ。
なんとも言えない、寂しさと、感動や驚きをおもいだし充実感に浸る。そんな瞬間なのだ。
 フェリー待合室で待つこと一時間強。
フェリーに乗り込むと、早速レストランに直行。焼き鳥、卵焼き、サラダ、ハイボールを注文する。レストランでこれらを食べた後、氷の残ったハイボールのプラスチックコップを持って自室に戻る。ここからは、iPad を起動し、ドラマを見ながらゆっくり過ごす。
 これで、今回の奈良旅の終幕となりました。

 今回の旅を振りかえると、たくさんの感動と驚きがあった。
 平城宮跡は、発掘・復元が進んでおり、何年か後、再訪したい。春日大社、東大寺、興福寺などは、次回もっと時間をかけて見学したい。山の辺の道周辺の史跡は、今回は見学していないので、次回は是非巡りたい。その他にも、法隆寺、唐招提寺、薬師寺、飛鳥など見学したい場所がたくさん残っている。
 次回は、妻と一緒に、ヨロモタ夫婦旅となるだろう。



最後までお読みいただきありがとうございました。明日もあなたにとって良き日になりますように……




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