純粋に「新聞が好きだ」とは言えない
「新聞を読むこと」を楽しみに朝のルーティンをこなしてきました。
しかし、果たして私は本当に「新聞を読むこと」を楽しんでいるのか?(本日の問い)
読むことと同時に「朝ごはんを食べる」をしています。
もしかして「朝ごはんを食べながら読むこと」が楽しいのかもしれない。
最近、すっかり秋も深まりましたし、食べ過ぎだなぁと思うのです。
そこでちょっと朝食をパスしたりするのですが、そういうとき、なぜかちょっと心の奥の方で
「新聞、コーヒー抜きだとつまんないなぁ」
と思っている自分がいることに気づいたのです。
もちろん読みはじめれば楽しいのだけど、やはり口寂しい。
子どもたちを送り出し、さぁひと息つこう、と朝ごはんを食べながら新聞を広げる。新聞というよりも、その時間が楽しいのですね。
なので、これからは「新聞読むの好きなんです」とは言わないことにしよう。
「朝ごはん食べながらだらだらと新聞をめくる時間が好きなんです」
すっかりYoutubeの依存症になっている息子は、何かを食べながら見ることを異常な熱量で要求します。
〇〇しながら、って良くないことはよーーくわかっているのですが、いや、わかっていないからやめられないのか。
もう習慣になってしまったことを止めるのは難しい。
新しく習慣を構築するのも難しいけど。
実は、長い間noteを書きたいと思いながら書いていなかった時期に、毎朝読む新聞をたんまり溜め込んでいました。
「これは!」と心が動かされた記事や、誰かに知らせたいと思った記事など、せっせと切り抜き、その数はどんどん増えて山になっていました。
インプットばかりでアウトプットが足りず、どんどん苦しくなってお腹いっぱい。
それらを分類するにも、とっくに面倒くさくてやれない状況。
それが、最近noteを書き出してから、それらのネタ集(新聞の切り抜き)から書こうと思っても、グッとくる記事を見つけられないのです。
ああ、やはり私は「新聞」にはもうあまり興味はなくなってしまったのか。と思うほど。
そんなこんながありまして、今朝の問いに行き着いたのです。
やはりタイミングって大切。
心に何か引っ掛かったとか、ものすごく感激したとか、そういう時にすぐに文章にしないと。後からその時の気持ちを思い出そうにもなかなか思い出せない。
その時の自分の心の状態がそのことばを見つけ出すから、心がうごく
のであって、切り取ったことばを再度見ても響かないのは、すでに気持ちが変化しているからですね。
仕方ない。
でも捨てられない記事たち。
今度はそれらの記事の中から、読んだあの時の自分の心を探しに行こう。
書いたら捨てよう。何年かかるかな。
ということで、今日はなんの題材も決めずに書きはじめたのだけど、書きながら良いことに気づけたし、よしとしよう。
食べながら・飲みながらの読書や新聞がやめられないのなら、息子におやつ食べながらYoutubeを見る習慣を注意する資格はない。
それがお互い、至福のひとときであるのなら仕方ない。
と、こうして親業を放棄して親子ともに楽な方、怠惰な方へと流されていくのでした。
あーあ、、、、
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