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1人の女性がエンジニアになるまで~seikoの場合

プログラミング未経験で文系の機械音痴なのに、新卒でなんとなく開発の道に進んでしまいました。大変なこともまぁまぁありますが、面白い仕事だと思いますし、エンジニア17年生の今も楽しく開発しています!
@wirohaさんの投稿から始まった流行にのって、自己紹介を兼ねて私の例も紹介してみます。)

誕生~幼稚園

父は開発者ではないけれどパソコンが好き。物心ついた頃には父のデスクにパソコンがあり、本棚に雑誌『Oh!PC』がずらりと並んでいました。X1の斜体ロゴが好きでした。

小学校

近所の女の子達と人生ゲームにハマった時期がありました。職業を選ぶターンで、いつも私は「プログラマー」を選んでいました。

給与が低くも高くもない、パソコンの絵が描いてある謎の職業。プログラマーは不人気なのか、私は毎回プログラマーを選ぶことができました。ちょっとカッコいい感じのこの職業を、なんで誰も選ばないのか、いつも不思議でした。

小学校高学年になると、父からワープロを貸してもらえたので、『おおかみと七ひきの子やぎ』の本を見ながら文字入力をして遊んだりしました。

中学校

何回かだけコンピューター室での授業がありました。パソコンの授業といっても標準のペイントソフトで修学旅行の思い出の絵を描くだけ。

絵が苦手な私は、家に持ち帰って『花子』に修学旅行の写真を取り込み、適当に加工して提出。しかし、肖像権の問題で先生に注意されました。仕方ないのでペイントの図形ツールを駆使してシンデレラ城を描いて提出しました。

高校(生徒会)

断れず生徒会へ。残り物っぽい運動委員長になりました。
運動委員会は体育祭と球技大会の運営がメインの仕事でした。

球技大会では、全学年全クラスのチーム分けを記した名簿を、毎回手書きで作ていました。手書きを面倒に感じ、家に持ち帰って球技大会資料をWin95の一太郎でデータ化して先生に納めました。

体育祭では、各競技ごとに準備物やその運搬担当者、白線をどこに引くかなどを記載した運営資料の作成が必要でした。もちろん手書きでした。

「毎年大きく変わらないはずなのに、毎年ゼロから手書きって無駄すぎる」と感じ、来年以降も使いまわせるよう、家でWin98のWordですべてデータ化し、先生に納めました。

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(↑こんな感じのやつ。本当はもっと情報量多い。)

でも、どちらも運動委員担当の先生がパソコンをまったく使えず、私が生徒会引退したあとは手書きに戻ったとか・・・悲しすぎる。

高校(プライベート)

■初めてのホームページ作成
とはいえ、設定を選ぶ程度でHTMLを書いたりはしていません。

掲示板もつけたいと父に相談したところ、CGIの本を渡されました。でも、まったく本の意味がわからず自作掲示板は諦めました。

■チャットにハマる
ご近所さんを探せ』から始まり、チャットにはまりました。夜、両親が寝たあとにこっそりPC起動してネット接続。ダイヤルアップの音が両親を起こさないかヒヤヒヤしてました。

そのうち両親に電話代が高すぎると怒られました。テレホ契約してほしいと頼んだところ、「そんなもん契約しない。夜は寝なさい」と余計に怒られました。

大学生

特にやりたいことも見つからず、家から通えて一番学費の安かった私大の商学部に進学し、バイトしたり遊んだりしてました。

ホームページビルダーを使うようになり、PC壁紙を変えるようなノリでWebデザインをころころ変えていました。メインサイト以外にも自転車旅行記、写真・詩、エッセイ、就活記録など思いつくままサイトを量産していました。

就職活動

相変わらずやりたいことは見つかっておらず、「商学部だし事務系かな?」と総合職の人事、企画、事務みたいな募集に業種問わず応募していました。しかし全く内定は出ず、気づけば大4の初秋。新卒募集の件数もぐっと減っていました。

残っている新卒募集は大きく分けて「営業」「店長候補」「プログラマー」の3職種だけ。人と話すのは苦手だし、営業は絶対無理。店舗は土日も仕事だから避けたい。

じゃあ土日休みと書いてあるし「プログラマー」にしよう、と文系OKと書いてある技術職に絞りました。プログラマーは残業が多いというような噂も全く知りませんでした。

今でこそ、開発言語で何系の開発か?とか、客先常駐や受託開発といった働き方の違いも理解していますが、就活当時は全くわかっていませんでした。

最終面接で「この仕事やっていけると思う?」と代表に尋ねられ、「正直開発はやったことがないのでわかりません。でもやるからには精一杯やります。」と答えたのを今でも覚えています。

親に内定の報告をすると「システム開発会社で何の仕事するの?え?開発?そんなんできるん??」とかなり驚き、なかなか信じてもらえませんでした。友達にも「ビデオ予約もケータイの操作もできないseikoがプログラマ!?」と笑われました。

入社~2年目

研修はわからない言葉だらけで、説明に出てくる単語もまたわからなくて、とにかくメモをとりまくりました。大学時代は毎日ネットサーフィンしてたのに、研修期間は家でPCを起動することがなくなりました。

プログラミング研修はC言語でした。研修問題はパズルゲームのようで、難しいけどクリアしていくのが意外と楽しくて、これならやっていけるかもしれないと感じました。

でも実際の仕事はもちろんゲームと違い、結構苦労しました。2年目の評価面談では「人には向き・不向きがあるけれど、技術者はどうしても技術が必要なので・・・、頑張ってください。」と上司に言われました。

「あ、私やっぱ向いてないんだ。」ってなったけど、転職を考える余裕もなかったので、そのまま続けていました。

入社3~6年目

少しずつ仕事ができるように、というか自分の居場所が見えてきました。設計/製造は私より得意な人がいっぱいいたので、私は彼らに開発に注力してもらえるよう、要件整理や顧客から届く資料の展開や内容チェック、仕様書の作成などコーディングではない部分を率先して行うようにしました。

開発業務では割と短いスパンで、組込み、Web、アプリ開発といろんなチームを転々としていました。
(経験言語は、C++ >>>> C#, objective-c, >> C, PHP, JS, HTML/CSS > Perl といった感じです。)

開発業務以外では、新卒採用のコンテンツ企画や説明会運営、自社アプリの企画開発など、社内でもちょっと毛色の違うエンジニアになっていました。

結婚、2回の産休育休

結婚しても特に仕事への影響はなかったのですが、妊娠8か月で有休と合わせて産休育休へ。保育所がなかなか決まらず生後1年半で復職。

6時間の時短勤務のはずでしたが、会社も私も時短勤務という働き方に慣れておらず、最初は20時とか普通に残業していました。(その後、改善されました。)

復帰後、1年くらいで2回目の産休。保育所に入れなかった反省を生かし、今度は生後9か月で復職。もっと最前線で働きたい思いと、時間的にも子供の病気による急な休み的にもサポート業務しかできないもどかしさがありました。

なんか面白いことがしたい、とプライベートで子どもプログラミングのイベントを始めました。(現在は今いる会社の一事業として運営しています。)

転職、そして現在

2017年秋、13年半務めた会社を退職して現在のマイスター・ギルドへ転職。組込系からWebシステム系へ、割と歴史ある企業からベンチャーへと、仕事も文化も違ってかなり戸惑いました。

当初「経理や労務などバックオフィス業務と、ちょっと開発のサポート程度」という話だったので、なるべく前に出ないよう心がけていたのですが、そうも言ってられなくなり、陰でこっそり働こうとするのは1年も経たず諦めました。

今は経理、採用、人事などバックオフィスしながら、自社サービスの企画開発や受託開発のマネージャまで、何でもアリな状態になっています。

これから

残念ながら私は、すごく高い意識やスキルを持ってるわけではありません。普通のエンジニア17年生です。子供たちも9歳と6歳。ちょっと仕事に時間をかけすぎてきたので、子供たちと一緒に過ごす時間を意識して作っていきたいなと思っています。

最近、若いエンジニア達と話していて気付いたのは、どんなに優秀な人でも経験値は経験を積まないと得れないということ。そして私は年数なりに経験値を積み重ねてきていたんだということ。

拙い経験値ではありますが、私の中にだけ留めておくのは勿体ないのでどんどんアウトプットし、少しでも誰かの参考になったり、「こんなエンジニアがいてもていいんだー」と不安を解消できたり、まだ少ない女性エンジニアのロールモデルの一つにでもなれればいいなと思ってます。

質問などあれば、何でもお気軽にください!
noteコメント、Twiitter(@seikkom)でも大歓迎です☆

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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