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感動の本質、高尚な感動

映画、漫画、小説などに関わらず、ストーリーが付随するものには感動という尺度が用いられる。「泣いた」「感動した」と言われやすいものはより多くの人にリーチする一方で、見る人によっては深みがないとかチープだと言われることもある。
そもそも、感動とはいったい何なのか。どのような脳の働きによって引き起こされるのか。なぜ人は感動を特別視するのか。
感動についてググれば多様な側面から概要を知ることができるが、自分なりにしっくりくる”感動の本質”を探究してみた。

感動とは、物に深く感じて、心を動かすこと。(Oxford Languagesの定義)。

結論:感動=自己存在の再確認作業

「心が動いている」という脳の状態は平常ではない。つまり「異常」な心的状態だ。脳は異常や矛盾を嫌い、常に平常でいようと努める。場合によっては異常を”最もらしく正当化”することで平常と思い込むことさえある。(コタール症候群、カプグラ症候群など。)
感動している状態の脳は「自分の感情が動いている」ことに意識を向けさせようとする。
さらに、感動という"心の動揺"を収めるために涙を流す。涙にはストレスホルモンが多く含まれる。副腎皮質刺激ホルモンやエンケファリン、脳内麻薬と言われるエンドルフィンといった自然の鎮痛剤だ。
また、感動しているという状態は「何かに心を囚われている」「心ここに有らず」というように、激しい情動によって平静さを失っていたり、何か一つのことに集中し周りが一時的に見えなくなっている。本来この状態は外敵に狙われやすく危険に対して無防備と言える。そこで、脳は心を現実に引き戻し「自分が在る」という状態を再確認する
「自己存在の認識作業」は自己顕示やナルシシズムと同様に自己肯定感に繋がる。人間が生きるための最も原始的で強固な暗示は「自己存在」だ。自分の存在に疑問を抱くとき人は不安になり、自己消失=死を強く恐れる。
つまり、感動によって、「情動の異常」を強く意識することが特別感・没入感に繋がり、感情をコントロールする脳内物質が快感を与え、「自己存在を再認識する」ことで強い肯定感を得られる。
これが感動の本質であり、"感動体験"の持つ求心力の正体だろう。

高尚な感動とは何か

そもそも人はどんなとき感動するのか。
心が激しく動揺し涙が出るような脳作用を「感動」とすると、「どんなとき泣くのか」と考えればわかりやすい。
不安・悲しい・悔しい・失敗・諦め・混乱・恐怖・・・。
これらネガティブな感情の根底には「無力」があり、無力感に起因する感動が赤ん坊の涙、我ガママな涙だ。創作物においてもっとも簡単に引き起こせるのがこれら「無力感」による感動である。
人間は生まれた時から「思い通りにならないときは泣いて訴える」ことを繰り返してきた。この本能と経験もあり、人は無力を感じ特に言葉や表現として相手に感情を伝える手段がないと容易く泣ける。
しかし、同じ泣くシチュエーションでも「恐怖」で泣いたことを「感動した」とは言わない。動物は未知のものに恐怖するが、恐怖は警告であり危機に身構えるための反応なので、脳がその感情を抑制しないからだ。
ただし、「畏怖」は感動になる。例えば神秘的な光景を目にした時に感じる"畏怖"は「未知の恐怖」+「無力感」に対する心の反応だからだ。
また、ただの恐怖も立ち向かうとなれば感動となる。闘争時にはアドレナリンやノルアドレナリンといった交感神経をたかぶらせ興奮させる脳内物質が放出されるからだ。
このことから、感動は感情の抑制・反転作用によって起こると推測できる。
嬉しい・笑い・出会い・許し・発見・気づき・成功・・・これらを起因とするポジティブな感動はネガティブな感動より複雑な構造を必要とする。
ポジティブな感動は、強いネガティブな感情の反転によって生じるので、創作者・鑑賞者の知性が試される。
嬉しいは悲しみの、成功は失敗の逆転。出会い・発見は諦めからの意表、許しは後悔・罪悪感の解消、気づきは暗示からの脱却などなど。
笑いは恐怖(危険)の反作用の一つと言える。「笑い泣き」を感動とするかは微妙だが、ポジティブな感情であり、ユーモアにはテクニックが不可欠である。
また、発見・気づきはアハ体験をともなう。アハ体験により脳の神経細胞が一斉に活動して脳がドーパミン(報酬物質)を放出する。これだけだと感動と言うには弱いかもしれないが、ネガティブな要素と絡めればより強い感動となる可能性がある。
よって、「高尚な感動」を知性・テクニック(技術)・クリエイティブを必要とすると定義するならば、ポジティブな感動の多くは高尚と言えるし、容易に引き起こす事のできるネガティブな感動は幼稚と捉えられる。
絵(ビジュアル)や演技などによって感情移入を引き起こすのもテクニックと言えるだろうだろうが、ここでは「感動」の内的な本質についてのみに留める。

感動の外部記憶装置としての創作物

無形の感情を言葉にしたり表現するのは難しい。これらの感情や情景を記憶し再生可能にするため、古来の日本では和歌や俳句がたしなまれ、教養人の証となっていた。
当時は映像や音声をそのまま記録する事も簡単かつ大量に複製することも出来なかった。
そんな中、一言で言い表せない複雑な感情や微妙なニュアンス、想起させたい情景を最低限の言葉に込め、時間に縛られず他者に伝え再生可能にする表現手法は貴重であった。

古池や蛙飛び込む水の音  ───松尾芭蕉

上の俳句は一言で言えば「詫び寂び」だが、一定の文化ベースを持つ人間ならば、この俳句を聞いただけで微妙なニュアンスを感じ取り、脳内でその情景が想起されるはずだ。これが「言葉による外部記憶装置」である。
これを感動という観点に置き換えると、高度な知性と優れたスキル・技術によって表現され、狙った感情を引き起こす外部記憶装置としての作品・創作物が「高尚」と言えるだろう。

「高尚な感動」の定義・まとめ

・感動には、脳の異常状態を抑制する際に放出される脳内物質、自己存在の再確認による自己肯定感が関わっている。
・ネガティブ感情による感動は赤ちゃん的反応によるもの。対してポジティブな感動はネガティブからの反転、パラダイムシフトやアハ体験を必要とする高度な知性や技術が必要。よって高尚である。
・「感動を与える作品」とは、複雑・微妙な感情や情景を抽象化や再構築(コラージュ)により再生(再現)可能にする感情の記憶装置としての機能を持つ。その機能が巧みであったり必要とされるほど高尚と見なされる。


以上です。
もちろん、"高尚"なんてのは主観であり個人の価値観に過ぎません。
また、高尚=高価値とも決まっていません。ネガティブな感動を否定するつもりもありません。
例えば、「死」を題材にした映画があったとします。「死」はネガティブだからそこで感動したやつは低俗だとか、「死」は普遍でありポジティブだから高尚だとか、そんなことを言いたいのではありません。それらは個人の価値観次第であり、感想や意見を述べるのは自由ですが、押し付けるようなものではないと思います。
ただ、こういったことを考察することで何かのマーケティングや創作における狙いを明確にすることはできるかもしれないし、どこかで誰かの役に立つかもしれない。
要するに、考えるのって楽しいな、という程度のお話です。

参考:

Alex Gendler·TED-Ed なぜ涙が出るの?3種類の涙

Imaginarium of Tears
Maurice Mikkers氏による涙の結晶アート。涙に含まれる成分からなる結晶を観察することで涙に伴う感情の複雑性や類似性を推測できて面白い。

※笑い(ユーモア)の構造、笑いは恐怖(危険)の裏返し - 笑顔と威嚇の関係
心理学・神経科学者のV・S・ラマチャンドラン氏による著書『脳の中の幽霊』にて「笑い(ユーモア)」に関する記述の引用

(略)ユーモアと笑いの定義を明瞭にすることができる。惑わしの予測の道に沿って行くと、最後に突然のどんでん返しがあり、同じ事実が根本的に解釈しなおされる、しかも新解釈がおそろしい結果ではなくささいな結果であるとき、笑いが起こる。
微笑みは特殊な形を取るが、それは自然選択だけのせいではなく、正反対の威嚇のしかめ面(!)から進化してきたからなのだ。
型にはまった発声はほぼいつも、生物が社会集団の他のメンバーに何かを伝えようとしていることを意味する。(略)笑っている人は、事実上、警報のまちがいを発見したことを発表しているのであり、君たちは偽の脅威に反応して貴重なエネルギーや資源を浪費する必要はないよと告げているのだ。これは笑いがひどく伝染しやすい理由の説明にもなる。

補足:

畏怖への感動 - 
例えば、望郷の景色を見て感動するのは「戻れない(どうしようもない)過去」という「無力」があり、雄大な景色への感動は「人間の力の及ばない自然」という「無力」が想起されるからと考えられる。

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