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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載78

藤原泰衡の心変わり

 文治元年(1185)10月。源義経は兄の源頼朝と不仲になり〝頼朝打倒〟を目指すが失敗。文治3年(1187)の春、藤原秀衡を頼って平泉に落ち延びてきた。

 この情報をつかんだ頼朝は小躍りして喜ぶ。というのも源氏は先祖代々〝奥州制覇〟を宿願としてきたからだ。当時の義経は指名手配犯であり、これを匿ったとなれば奥州藤原氏を攻める口実を得られたわけである。しかしまだ「義経が平泉にいる」という確証はない。そこで頼朝は「義経の身柄を渡せ」と、奥州藤原氏を脅してくる。その間に平泉では、文治3年10月に秀衡が死去。跡を継いだ藤原泰衡は、一般的に〝暗愚な男〟と思われているが、これは誤解だ。泰衡は父亡き後も、頼朝の脅迫を巧妙に受け流しているのである。ところが文治4年(1188)2月、とんでもない事件が発生する。なんと義経が勝手に兵を率いて出陣。朝廷の役人である昌尊を、出羽国秋田(秋田県)で襲撃したのだ。辛うじて京まで逃げた昌尊は、後白河法皇に事件を報告。それまで奥州藤原氏と義経に寛容だった法皇も、自分の部下が襲われたとなれば当然、態度を一変させる。これで鎌倉だけでなく京も敵にまわしてしまった平泉。おまけに義経が奥州に潜伏していることも、世間にばれてしまった。

 それでも泰衡は事件後1年も「義経は奥州に潜んでいるそうなので発見したら報告します」と、しらを切り続けた。だが文治5年(1189)3月、とうとう「義経は自分が成敗します」という誓書を、頼朝と法皇に提出している。この突然の心変わり。その裏には何があったのか?

 ここで興味深い伝説が郡山市に残されている。義経の側室であった静御前についてだ。――文治元年の冬に義経と別れた静御前。その後は一人、京で暮らしていた。が、やはり義経が恋しくなり、文治5年2月に平泉に向けて旅立つ。しかし3月、安積郡(郡山市)まで辿り着いた時に〝義経自刃〟の報に接し、落胆した彼女は池に身投げした――という言い伝え。ちなみに、実際に義経が自刃するのは閏4月のこと。とはいえこの伝説を真実と仮定すると、なぜ静御前は「義経が死んだ」と勘違いしたのだろうか。まず考えられるのは〝尾行されていた〟という推論。彼女は指名手配犯の行方を知る重要参考人なのだから、頼朝が今で言うところの〝張り込みの刑事〟をつけていて然るべき。すると静御前はスパイを引き連れて北上してしまったことになる。これに驚いた泰衡が「もはや隠し通しできぬ」と観念。頼朝と法皇に誓書を送った。そして同じころ静御前も、誓書のニュースを聞き「これで義経様はおしまいだ」と悲嘆。みずからの責任を痛感し入水自殺したのではないだろうか。

 というわけで藤原泰衡の心変わりは、静御前の伝説を史実に加味すると、つじつまが合う。     (了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。



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