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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載71

古豪・岩城氏の平安時代

イラスト19-11

 平将門の乱(939~940)を鎮圧した平貞盛は、その功績により関東地方で多くの領地を得た。広大な領地を治めるため、貞盛は自分の息子たちを各地に派遣する。西暦1000年代の初め、貞盛の子孫は常陸国(茨城県)を北上し岩城郡(いわき市)にまで勢力をのばした。岩城に土着したのは貞盛の孫である平安忠という人物。安忠の子・則道は岩城姓を名乗り、ここに岩城氏が誕生する。ちなみに当時の浜通り地方は〝海道〟と呼称されていたので、岩城氏は〝海道平氏〟とも呼ばれた。

 ところで平安時代の岩城氏は、系図がはっきりしていない。岩城則道は「奥州藤原氏の三代目・秀衡の妹と結婚。妹の名は徳姫。永暦元年(1160)に則道が亡くなると、徳姫は亡き夫のため白水阿弥陀堂を建てた」とされているが、これはおかしい。藤原秀衡が生まれたのは天治2年(1125)なので、仮に徳姫が秀衡の妹だとすると、早くても大治元年(1126)の生まれ。西暦1000年代初めに活躍したとされる則道とは、まったく時代が合わないのである。

 また則道の子孫に〝海道小太郎成衡〟なる人物が現れるが、この成衡にも不明な点が多い――。永保2年(1084)頃までに成衡は、出羽国の豪族・清原真衡の養子となった。清原氏は、前九年の役(1051~1062)で滅びた安倍氏に代わって奥六郡(岩手県内陸部)を支配。もともとの領地である出羽も合わせ〝みちのくの覇者〟となった一族だ。真衡は「清原の格式をもっと高めたい」と願い、平氏の血筋である成衡を養子に選んだとされている。さらに成衡の妻には、源氏の総帥であった源頼義の娘をむかえる。この娘こそ徳姫だという説もあるのだ。

 ともかく成衡が清原家の御曹司となったのは事実。だが、このことが新たな火種を生んでしまう。成衡の婚儀をめぐって真衡とその家来が対立。内紛にはやがて源義家(頼義の子)も加わり、後三年の役(1085~1087)が勃発してしまう。この戦いで清原氏は滅亡し、次にみちのくの覇者となるのが奥州藤原氏の初代・清衡だ。

 すると成衡はどうなったのか。後三年の役を生き延びた成衡だが、戦の後は行方知れずとなってしまう。

 ひょっとしたら故郷の岩城に戻ったのかもしれない。もし帰郷した成衡が出家し、法名を則道と名乗っていたらどうだろう。じつは白水阿弥陀堂には「天仁元年(1108)に建立された」という説もあり、これならば成衡が生きた時代と合致する。また成衡が則道だったとすれば、建てたのが徳姫だとしても辻褄が合うのである。

 何にせよ、平安時代に勃興した頃の岩城氏には謎が多い。しかし海道平氏として、清原氏ら時の権力者たちから一目置かれる存在だったことは間違いないだろう。     (了)

 おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など


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