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原発作業員の「過酷な労働環境」(東京新聞記者・片山夏子)

熱中症、コロナ、高線量被ばく……


 原発事故から10年が過ぎた東京電力福島第一原発では、今も平日で1日約4000人の作業員が働いている。6月から順次サマータイムが導入されており、作業員たちは深夜に起き、まだ暗いうちから作業をしている。今夏は全国的に暑くなると予想され、作業員には厳しい夏となりそうな上、新型コロナウイルスの感染拡大の影響もある。事故から10年余の間、作業員の労働環境はどう変わったのか。今も残る課題とは何か。現場から考える。


サマータイム

 「夏はこれから。まだまだ暑くなる。今はまだ大丈夫だよー」。7月に入ったある日、福島第一原発で働く技術者に連絡を取ると、明るい声が返ってきた。サマータイムで、午前1時や2時に起きて現場に向かう作業員も。昼夜逆転の生活になるため、毎年この時期になると「眠れなくてつらい」「頭がぼーっとする」「体がつらい」という声が聞こえてくる。

 高線量下での作業では、防護服は事故直後に使っていたものに比べると通気性が上がったものの、顔全体を覆う全面マスク、現場によっては合羽や放射線を遮るタングステンベストも着る重装備に。毎年、熱中症との闘いになる。

 一度現場に出れば、途中で水は飲めない。全面マスクの中は、額から落ちてきた汗が目に染み、あごの部分には汗が溜まり、口の中に入ってくる。気持ち悪い上、息苦しくなり「(内部被ばくの危険があり)やってはいけないんだけど、下を少し開けてジャーッと汗を流す」と話す作業員もいた。

コロナ感染拡大の影響

 福島第一原発では1日約4000人の作業員が、東電や元請け企業のバスや車に乗って原発に通ったり、現場を移動したりしている。大勢が集まる場所のため、東電は早い段階から、他県に出た時は2週間の待機やPCR検査を受けてから現場に戻るなどの対策をしてきた。感染者や濃厚接触者が出ると、周辺の作業員を休ませ、抗体検査を受けさせたり、宿舎で待機させたりして集団感染を防いできた。

 「イチエフ(福島第一原発)でもちょこちょこ感染者が出ている。幸いクラスターになっていないけど、行き帰りのバスはぎゅうぎゅうだしいつ出てもおかしくない」とベテラン作業員は言う。

 現場の装備に影響が出たのは昨年3月。作業員から「防護服が欠品して無くなった。日本製だけど工場が中国だから欠品したみたい」と連絡がきた。作業員らは白い防護服の替わりに、作業服だけで働ける低線量エリアで着る青いカバーオールを着るようになった。ある作業員は「カバーオールは簡易のもので破れやすく、汗や水がすぐに染みて汚染を拾う。汚染検査で引っかかる人も出ている。高線量下での作業現場では、カバーオールの上にビニール合羽の上下を着るが、サウナスーツ状態で汗だくになる。破れて汚染しないように膝当てをして補強する人もいる」と疲れた声を出した。

 低線量エリアでは、作業服の上にカバーオールを着ていたが、作業服だけで働くようになった。地元作業員の一人は「いくら低線量エリアとはいえ、イチエフで働いた作業服で帰り、子どもたちの服と一緒に洗うのは抵抗がある。別に洗ってもらっている」と複雑な心境を吐露した。

 ただ、東電は防護服の欠品を否定。コロナ禍で防護服需要が高まる中、装備の安定的な確保に向け、防護服が使われていた現場でもカバーオールを使うことになったと説明する。だが、高線量エリアで働く作業員は「白(防護服)と青(カバーオール)では全然違う。青では作業にならない」と憤った。

 3カ月後、防護服が再び支給されるようになった。けれど低線量エリアでは、カバーオールの支給はされないままとなった。

東京五輪の影響

 2016年5月、主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の開催に合わせ、福島第一原発では開催前日を加えて3日間、「リスクを減らすため」(東電)と原子炉冷却など欠かせない作業を除き、原則作業は休止された。

 今年3月に福島県で聖火リレーが行われた際も、東電は聖火リレー前日を含め5日間、溶接やバーナーなどの火を使う作業や、放射性物質を含むホコリが舞う可能性がある瓦礫撤去作業を原則休止した。

 五輪・パラリンピック開催中も開催前日を加えた計約1カ月間、火器を使う作業や瓦礫撤去作業などは自粛となった。聖火リレーの際は福島県内での開催時だけだったが、五輪開催中は全期間でとなる。その理由を、東電の広報担当者は「世界的なイベントの中で、現場作業に起因するトラブル発生による社会的影響を考慮した」と説明した。下請け企業幹部は「五輪とパラの間のお盆期間中と、残暑厳しい9月に遅れを取り戻さないといけない。日給の作業員は死活問題だ」と話した。

事故直後の労働環境

 原発事故発生から10年余。作業員の労働環境はどう変わったのか。

 事故直後、1、3、4号機の水素爆発など次々と危機が襲う中で、当初は東電社員を中心とした作業員が福島第一原発に泊まり込みで対応した。直後は現場の放射線量も分からず、線量計も行き渡らない状況で決死の作業が行われた。緊急時対策本部が置かれた免震重要棟の扉が水素爆発で歪み、ここで寝泊まりしていた作業員の被ばく線量が上がった。

原発作業員①

水素爆発した4号機の1週間後。建屋近くに作業員の姿がある(2011年3月22日)

原発作業員②

1、2号機の排気筒の切断は遠隔作業で行う予定だったが不具合が起こり、作業員が排気筒の上に上がって作業をした。ロボットや遠隔作業でも必ず人の手が必要になる(2019年12月3日)


 3、4号機の運転員をしていた社員2人は678㍉シーベルト、643㍉シーベルトと内部被ばくを中心に600㍉シ ーベルトを超える被ばくをした。

 最初の3週間ほどは、作業員らは不眠不休で危機対応に当たり、食事は1日2食。1日に使える水は1・5~2㍑のペットボトル1本だけ。朝は非常用ビスケットや野菜ジュース、夕食は非常用ご飯とサバや鶏肉の缶詰のみ。免震重要棟の会議室や廊下で寝泊まりし、毛布も足りなかった。作業員の1人は後日、「みんなひげが伸びて着の身着のままで汚れて汗臭く、疲れ切っていた。野戦病院のようだった」と振り返った。

 その後、福島第二原発の体育館に畳を敷き、マットレスや寝袋で眠れるようになり、食事も改善された。免震重要棟の窓も鉛で塞がれるなど改善された。敷地内の空間放射線量を記したマップも作成されるようになり、次々更新されていった。

被ばく線量との闘い

 事故後、作業員の被ばく線量は格段に上がった。事故直後、このままでは作業員が足りなくなると危機感を持った東電の訴えで、事故収束作業時の被ばく線量上限が100㍉シ ーベルトから250㍉シ ーベルトに引き上げられたが、元請けや下請け企業は「いつ通常に戻されるか分からない」と通常時の「1年に50㍉シ ーベルト」「5年で100㍉シ ーベルト」という上限の範囲内で作業員の被ばく線量を管理しようとした。しかし、特に事故後1年間の作業員の被ばく線量は大きく跳ね上がった。東電によると、事故が起きた月から1年間に働いた作業員の総被ばく線量は、その前年の約16倍に膨れ上がった。

 当初、元請けや下請け企業は通常の被ばく線量上限を満たす年間20㍉シ ーベルト以内、高く設定したゼネコンでも年間50㍉シ ーベルト以内で抑えようとした。だが、その上限を超える作業員が相次ぎ、元請けや下請け企業は上限を上げていった。そのうち現場をよく知るベテランや技術者が、被ばく線量が増えたことで次々と現場を離れ、作業がうまく回らず、作業時間が延び、結果、作業員の被ばく線量が増えるという悪循環が起きた。

収束宣言で「通常」現場に

 2011年12月16日、当時の野田佳彦首相は「事故そのものは収束に至った」と事故収束宣言をした。この時の作業員の怒りは激しかった。「毎日大量に汚染水を出し、ようやく燃料を冷やせているだけなのに」「高線量の建屋にろくに入れず、デブリ(溶け落ちた核燃料)がどうなっているのかも分からない。あり得ない」という声が現場から上がった。

 だがこれを境に、福島第一原発は「通常」の現場となり、危険手当や日当が下がったり、宿泊費が出なくなったりするなど、コスト削減が始まる。そして厚生労働省は、宣言を機に事故直後に250㍉シ ーベルトに引き上げた緊急作業時の被ばく線量上限を、一部例外を残して戻した。原子炉冷却などを除き、大半の作業が「通常作業」とされ、作業員の被ばく線量上限は通常に戻された。

 そんな中で、被ばく線量上限に達し、現場で仕事ができなくなることを恐れた作業員が、作業に線量計を持っていかなかったり、鉛板で線量計を覆って被ばく線量を低く見せたりする〝被ばく隠し〟をしていたことが判明。2012年には下請け企業の幹部が被ばく隠しを指示していたことも発覚するが、その背景には社員全員が被ばく線量上限に達し、働けなくなったら会社が立ち行かなくなるという危機感があったと思われる。その後、現場では線量計の携帯チェックが厳しくなった。


被ばく隠し〟発覚後、胸の部分が透明な防護服の試作品を着て線量計の携帯チェックを受ける作業員(2012年8月)

 東電は作業員が安定して働き続けられるように高線量域と低線量域の仕事を合わせて発注するとしたが、いくつもの現場を確保できない小さな下請け企業などの作業員は、被ばく線量上限に近づくと急に解雇されるなど、なかなか安定して働ける環境にならなかった。

労災以外補償なし

 事故から10年以上が経つ今も、福島第一原発で働く作業員は、がんなどの病気になっても労災以外の補償はない。事故後、がんになったと労災申請があったのは27件。審査中のものもあるが、そのうち労災が認められたのは白血病、甲状腺がん、肺がんの6件に留まる。気になるのは、これ以外に申請取り下げが3件あることだ。熱中症やけがなどの事故も「管理ができていない問題のある会社と見なされ、仕事がもらえなくなる」ことを恐れた会社から、東電への報告や労災申請をしないでほしいと言われた作業員が取材の中でいたように、労災申請を取り下げなくてはならなくなったのではないかと危惧している。

 原発作業員によるがんの労災申請では、白血病しか認定基準がない。同様に、血液のがんの悪性リンパ腫や多発性骨髄腫は原発事故前に、それ以外の肺がんや大腸がん、甲状腺がんなどは事故後に目安が設けられたが、いずれも白血病に比べて認定のハードルは格段に高い。

 労災が認められなかった場合、裁判を起こすしかないが、作業員側ががんと被ばく労働の因果関係を立証しなくてはならない。日本人の死亡原因のトップであるがんと被ばく労働の因果関係を立証することは、よほどの大量被ばくでない限り専門家でも極めて難しい。事故前を含め、因果関係が認められて作業員側が勝訴した事例は一つもない。

チェルノブイリ同盟

 1986年に旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故では、収束作業で大量被ばくをしたリクビダートル(収束作業員)の多くが激しい頭痛やさまざまな内臓疾患などで働けなくなった。彼らは治療費や生活費などの補償を求めて立ち上がり、各地で「チェルノブイリ同盟」を結成。デモやストライキも辞さない強い運動を繰り広げた。それが「チェルノブイリ法」の実現につながり、障害者と認められた人には賃金補償や治療費などが出るようになった。現在は国家財政の悪化などで「微々たるもの」になったというが、それでも補償の権利を勝ち取ったことには変わりない。

 画期的なのは障害者認定の考え方だ。チェルノブイリ法案の作成にかかわったアレクサンドル・ベリキンさんは「住民も含め、病気になった時は汚染した場所にいた、リスクを負ったということで障害者と認められる」と説明する。

 日本でもチェルノブイリ同盟のような組織ができないだろうか。現役の作業員に聞くと「難しいと思う」と即答された。それは、今も多くの作業員が原発で働き、東電や他の電力会社から仕事をもらう企業に所属していることが大きく影響する。仕事がもらえなくなることを恐れ、熱中症や現場でのけがや事故など労災を隠す実態がある中で、作業員の補償や権利を守る組合ができたとしても、仕事をもらう立場の弱い作業員は加入できない。作業員の相談を受ける支援団体に聞くと、仕事を辞めたか、辞める覚悟をした作業員からしか相談はこないという。

安定・安心の労働環境を

 現在、福島第一原発では3、4号機の使用済み核燃料プールからの燃料取り出しが終わり、1、2号機のプールからの取り出しと、格納容器内のデブリ取り出しの準備が進む。一番進んでいる2号機でも、デブリがどのように溶け落ちているか全容は分かっていない。デブリが取り出せたとしても、1~3号機で計880㌧あると推計されており、その置き場も問題となる。

原発作業員④

3号機の使用済み核燃料プールの燃料を共用プールに移す作業員ら(2021年2月28日)

 国や東電は事故から30~40年で廃炉にする計画を崩していないが、どうなれば廃炉なのかということを含め、その目処は立っていない。

 未曾有の原発事故が起き、作業員の被ばく線量が大幅に増えたにもかかわらず、日本では何の補償もないままでいいのか。事故前から存在する労災とは別の枠組みの補償制度を作るべきではないか。作業員側に不可能な因果関係の立証を求めるのではなく、病気に対する被ばく労働の影響が否定できなければ補償する仕組みなどを考えるべきだと思う。

 事故直後に比べ、敷地全体の放射線量は大幅に下がった。地元企業などで低線量の仕事を請け負い、安定して働くことができる企業もあるが、核燃料の取り出しに向け、原子炉建屋など高線量下の作業が増える中、作業員が安心して働き続けられる環境には今もなっていない。試行錯誤が続き、工程通りにいかない現場で作業が延期・中断された間も、元請けや下請け企業が作業員を雇い続けることができる仕組みも必要だ。

 現場ではすでに世代交代も起きている。先の見えない廃炉まで必要な人材を確保するためにも、事故から10年が過ぎた今、作業員が安定・安心して働ける環境を整えることを真剣に考えなければならない。  


 かたやま・なつこ 東京新聞(中日新聞東京本社)福島特別支局記者。東日本大震災の翌日から原発事故を取材し、2011年8月から原発作業員の日常や家族への思いなどを綴った「ふくしま作業員日誌」を連載(現在も継続中)。同連載がむのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞大賞を受賞。同連載に作業員一人ひとりの9年間を加筆した書籍『ふくしま原発作業員日誌~イチエフの真実、9年間の記録~』(朝日新聞出版)が講談社本田靖春ノンフィクション賞、早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞など3賞受賞。また大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補にノミネート。





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