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芦名氏と会津の初縁―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載91

(2021年7月号より)

 中世会津の武士を代表する芦名氏。一族が会津に入植したのは、文治5年(1189)以降とされている。芦名の祖は佐原義連という。三浦半島(神奈川県)の豪族・三浦氏の出である。義連は現在の横須賀市にあった佐原城を拠点としたため、佐原氏を名乗るようになった。早くから源頼朝の側近であった佐原義連は、源氏が奥州藤原氏に勝利した阿津賀志山の戦で活躍。その戦功により会津四郡(会津、耶麻、河沼、大沼)のなかに領地を与えられた。このころ喜多方市に〝加納庄〟、坂下町に〝蜷川庄〟という荘園(私有地)があり、この2つの荘園が佐原領となったようである。とはいえ義連自身は会津に移住していない。喜多方市内には〝佐原義連の墓〟と伝わる墓碑があるが、これは子孫が先祖の供養のため建立したものであろう。

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 義連に代わり領地経営にあたったのは、四男の佐原盛連であった。盛連は6人の男児をもうけ、それぞれを会津と三浦半島で自立させる。

 長男・経連(猪苗代)
 次男・広盛(北田/湯川村)
 三男・盛義(藤倉/旧河東町)
 四男・光盛(芦名/横須賀市)
 五男・盛時(佐原/横須賀市)
 六男・時連(新宮/喜多方市)

 といったぐあい。このうち五男の盛時は当初、加納庄(喜多方市上三宮)に住んでいた。嘉禄3年(1227)に浄土宗の僧・隆寛が罪を問われて流罪になった際、盛時がその身柄を預かっている。この記録が会津における佐原氏(のちの芦名氏)の初見である。

 ちなみに長男から三男までと、四男から六男までは母親が異なる。三男までを生んだ女性と死別した後、盛連は〝矢部禅尼〟という女性を後添えに迎えた。矢部禅尼は、鎌倉幕府の3代目執権となる北条泰時の前妻。どのような経緯で矢部禅尼が泰時と離婚し、盛連と再婚したのかは定かではない。しかし泰時の跡を継いで4代目執権となった北条時氏は矢部禅尼の子であり、四男から六男までは時氏とは異父兄弟という関係になる。そのため宝治元年(1227)に、佐原の本家であった三浦氏と北条氏が合戦におよんだ際、盛連の子たちは皆、北条氏に味方している。そのことが評価され、滅亡した三浦本家は五男の盛時が再興することになった。盛時は三浦へ改姓し、三浦半島の領主となる。

 これと入れ替わるように、三浦半島の芦名庄に住んでいた芦名光盛が会津の佐原領を継承。光盛は、小田山(会津若松市)の麓に新たな館を築き、ここを小高木館と名づけて芦名氏の本拠とした。ただ光盛自身は依然として関東に腰を据えており、会津領には代官が派遣されていたようである。芦名氏の当主が会津での活動を本格化させるのは、光盛から4代後の芦名盛員になってから。時は鎌倉幕府が滅亡した元弘3年(1333)であった。   (了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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