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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載81-石那坂の合戦

石那坂の合戦

 奥州征服の野望に燃える源頼朝は、文治5年(1189)7月29日に白河関を越えた。当時の福島県南部に割拠していた石川氏(石川町)や岩城氏(いわき市)は、戦わずして源氏軍に降伏。抵抗を受けぬまま中通りを北上した頼朝は、8月7日に現在の国見町に布陣。阿津賀志山(国見町)で守りを固める奥州藤原氏の軍勢と対峙した。

 一方、信夫郡(福島市)の領主である信夫佐藤氏は、大将・基治のもと一族が結集。石那坂に防衛線を敷いていた。彼らは奥州藤原氏の家臣ではなく、あくまで同盟者。自分たちの領地である信夫郡を守るため、独自に戦おうとしていたのだ。

 ちなみに石那坂は、現在の福島市平石にあったとされる。平石小学校の東にある山並み、東北本線と東北自動車道が並行しているあたり。この時代の街道は、福島大学の西側を抜けて大森(福島市)に達していた。金谷川駅の近くに〝関谷〟という地名があるが、ここに古代の関所が設けられ、信夫郡と安達郡を隔てていたようである。ということは信夫佐藤氏が陣を張ったのは、関谷の一帯と考えられる。北上してくる敵を南の玄関口で迎え撃つのは定石だ。

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 が、源氏軍は奥州の人々の予想を超える兵力だった。史料では28万とされているが実際は4万ほどか。それでも当時としては大軍だ。対する信夫佐藤氏の軍勢は、おそらく1000人程度。源氏軍にすれば全軍で攻撃するほどの敵ではない。そこで頼朝は兵を二手に分けた。主力の2万は伏拝(福島市)から福島盆地を抜けて阿津賀志山へ向かい、別動隊の2万をもって石那坂の攻略に当たらせたようである。――このとき源氏軍は、金谷川駅の方向(南)から福島大学側(北)を攻撃。となると戦いは〝関谷の合戦〟とされなければならない。ところが後世〝石那坂の合戦〟と呼ばれている。これは源氏軍がとった作戦に起因する。

 8月8日。源氏軍は攻撃を開始。防衛線が強固であると悟った指揮官たちは〝迂回作戦〟を実行する。関谷のさらに西にある山道へ一隊を向かわせ、敵陣の裏手すなわち石那坂からの奇襲を試みたのだ。この〝石那坂奇襲作戦〟は見事に成功。まさか背後から攻めてくるとは思っていなかった信夫佐藤氏は大混乱に。結果、信夫佐藤氏の主立つ武将は大半が討死。大将の基治は生け捕りにされてしまう。惨敗だった。とはいえ一族が滅亡したわけではない。勇ましく戦ったことを頼朝に称賛され、領地の一部を残されている。

 一方、迂回作戦を成功させた常陸国(茨城県)伊佐郡の武士・中村念西も戦功を高く評価された。念西は頼朝から新たな領地を与えられるのだが、それは信夫佐藤氏から没収した伊達郡だった。戦いのあと伊達郡に移住した念西とその一族は、地名にちなんで姓を〝伊達氏〟に改めるのである。           (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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