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相馬氏の鎌倉時代―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載93

(2021年9月号より)

 平安時代の10世紀に、関東地方を席巻した平将門。その末裔に下総国千葉荘(千葉県千葉市)を本拠とした千葉氏がいる。源平合戦が激化した西暦1180年代、千葉氏の当主であった常胤は、源頼朝の側近として活躍した。

 ところで千葉氏が管轄する土地のなかに相馬御厨(千葉県流山市の周辺)なる場所があった。御厨とは神社の私有地で、相馬御厨は伊勢神宮の所領だった――。常胤の子・師常は父から荘司(代官)職を譲られ、ここで自立。以後〝相馬師常〟と名乗るようになる。この師常が相馬氏の初代である。文治5年(1189)に起こった奥州合戦に参加した相馬師常。戦功を評価され、行方郡(南相馬市)を新しい領地として与えられた。師常は代官を派遣し、行方郡を支配させる――。師常の跡を継いだ2代目・相馬義胤、3代目の胤綱も同様に〝本拠は関東、奥州は飛び地〟という支配体制を継続。この間に相馬氏は鎌倉幕府の執権(事務局長)北条氏に接近をはかっていく。が、その一方で歴代将軍とも親交を保った――。建保7年(1219)1月に3代将軍・源実朝が暗殺されて源氏の血筋が断絶。すると執権北条氏は、京から藤原基経(摂関家)を迎えて4代将軍とした。その後の将軍は藤原頼嗣(5代/基経の子)、宗尊親王(6代)と続いていくのだが、相馬義胤と胤綱の父子は誰が将軍になろうとも忠節を欠かさなかった。その節義の精神は胤綱の子、兄の胤継と弟の胤村にも引き継がれる。二人は将軍の御供役として、しばしば兄弟そろって活動している。

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 だが胤継と胤村は、やがて争うようになってしまった。というのも兄弟は母親が異なっていたのである。胤継は先妻の子で、先妻が亡くなると父の胤綱が〝相馬尼〟なる後添えを迎えた。胤村は相馬尼が産んだ子だ。康元元年(1250)頃から胤綱は病に伏すようになり、相馬4代目には先妻との子・胤継を指名しようと考えていた。ところが、これに相馬尼が大反対。「我が子・胤村を4代目に」と猛然と動き出したのである。おそらく彼女は、執権北条氏に取り入って胤継を追い落とそうとしたのだろう。結果、正嘉2年(1258)6月までに胤継は、当主になる資格を奪われてしまった。そして相馬尼の願いどおり、4代目には胤村が就任している――。これは相馬尼だけが烈婦だったわけではない。鎌倉時代の女性は強い発言権を有しており、どの家でも相続期になると必ず「少しでも我が子に多くの領地を」と主張しているのである。

 その後、胤村は多くの子にめぐまれ、そのうちの何人かを分家として行方郡に派遣した。しかし、しだいに分家が本家の命令に従わなくなる。この状況を危ぶんだ6代目・相馬重胤(胤村の孫)が元亨3年(1323)になって、ついに関東から奥州へ移住してくるのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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