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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載72

源氏の末裔~石川氏と竹貫氏

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 白河市といわき市湯本とを結ぶ古道は、地元の人々から〝御斎所街道〟と呼ばれている。その中継地点にあたる石川町と古殿町は、古くから交通の要衝として栄えてきた。そのため平安時代の康平5年(1062)までには、早くもある武士団が土着するようになる。

 奥六郡(岩手県内陸部)の覇者であった安倍氏は、西暦1051年~1062年まで行われた〝前九年の役〟にて源氏に滅ぼされた。この戦に源頼遠という武将が、嫡男の源有光とともに加わっている。源氏の大将・源頼義とは同族の頼遠と有光。親子は出陣前まで、摂津国柳津荘(兵庫県尼崎市)を拠点としていた。

 前九年の役の緒戦は、源氏が劣勢であった。そんななか永承7年(1052)の戦いで、頼遠が討死してしまう。しかし父亡き後も子の有光は奮戦。その後の源氏の逆転勝利に大きく貢献した。戦功が認められた有光は、戦が終結した康平5年(1062)に、頼義から新たな所領が与えられることになる。その場所とは、当時はまだ白河郡の一部であった石川庄(石川町)だ。さっそく奥州に移り住んだ有光は、以後〝石川有光〟と称していく。その子孫の代になると徐々に周辺地域にも勢力を拡大。石川氏は中通りでも屈指の豪族となっていった。

 有光は承暦4年(1080)頃に隠退し、嫡男の基光が石川氏を継いだ。基光は息子たちに所領を分け与え、一族の基盤を固めようとした。すると天永2年(1112)頃、基光の三男・季康には〝竹貫十三郷〟という土地が譲られている。現在の古殿町だ。父のもとから自立した季康は竹貫に移住。ここに竹貫氏が誕生した。――石川と竹貫という御斎所街道の要衝をおさえることになった石川一族は、平泉の奥州藤原氏からも一目置かれる存在となった。藤原秀衡が嘉応2年(1180)に平泉で宴を催しているが、この席に石川太郎と石川三郎なる人物が招かれている。宴に招待されるくらい奥州藤原氏とは親密だったのであろう。

 しかし源頼朝が、文治5年(1189)に平泉を滅ぼすため軍事行動を起こすと、石川氏と竹貫氏はあっさり奥州藤原氏と決別してしまう。彼らは源氏の末裔なのだ。さらに彼らの地位を与えてくれたのは、頼朝の祖先である頼義。その恩義に報いなければならない。そのため石川氏と竹貫氏は、源氏の軍勢が中通りを北上する際、頼朝に臣従を誓っている。その功績を称えた頼朝は、両家の土地所有権を保障した。感激した竹貫氏は「頼朝公の御恩を忘れぬため」ということで、建久元年(1190)より領内にあった〝古殿八幡神社〟にて祭礼を執り行うことになる。その祭礼というのが〝流鏑馬〟だ。現在まで脈々と受け継がれている古殿の流鏑馬は、この地に源氏の末裔が暮らしていたことを、今に物語ってくれているのである。    (了)

 おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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