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【高野病院】異世界放浪記⑤

 先日の豪雨被害にあわれました皆様には心からお見舞い申し上げます。災害が起こるとついつい過剰に反応してしまうのは、原発事故からの日々を思い出すからだと思います。毎日のように受け入れていた、救急車のサイレンが、幻聴で聞こえるような日々だったのです。

 異世界に飛ばされる前の高野病院は、地域住民のかかりつけ病院として町にありました。近くには救急指定病院もいくつかあり、当院に救急車が来るのは年に数回程度でした。それが一変したのは、原発で働く作業員や除染関係者が町に増えてきた頃から。あっという間に、時間外診療や救急車受け入れが激増したのです。当時の高野院長は「受け入れるところがないなら、うちで受け入れるしかあるまい」と救急隊の負担を少しでも軽くしようと、自分達のできることはすべてやるという姿勢で、救急の受け入れをしていました。当時の非常勤の先生達とスタッフも、そんな院長を支えながら、昼夜を問わず急患の対応をしていたのです。

 当時は広野町のタクシー会社も夜の7時までの受付。一番近い、いわき市の会社も午前2時頃までだったので、救急車で来院された患者さんの診療が、その時間までに終わらないと、帰る足がない!という状況でした。作業員の中にはお酒に酔っていて、職員に説教を始める方、保険証の提示を拒み怒鳴り出す方、女性スタッフをしつこくナンパする方もいて、対応する私達は、「今日は何を言われるだろう」と精神的にとても辛かったです。同じ頃、他の病院では作業員の診療費未払いが問題になっていましたが、当院は一件だけ、会社の人が支払いに来るからと、待合室にいたはずの患者さんが暗闇に消えたことがありました。真っ暗な中、無事に帰ることができたのか、むしろ心配でした。未収金対策のため、会社の名前や連絡先を確認していましたが、困ったことに、遠方から派遣で来ていて、今自分が働いている会社の名前や連絡先が分からないという方達も何人かいたのです。飲酒で具合が悪くなり救急搬送されたのに、元気になったら、迎えに来た同僚をまた飲みに誘っていた患者さんもいて、その後ろ姿を、何とも言えない気持ちで見送ったこともありました。今も復興のためにご尽力されている作業員の方達の名誉のために申し上げますが、すべての人達がこうではなく、本当に一部の人達ですからね。

 そんな中、高野院長が「誰に言えばいいんだろうなぁ。労基署か?」と呟いたことがありました。あまりにも時間外や夜間の診察、救急要請が多いので、患者さん達に直接、どうして昼間に来られないのかと聞いたようです。突発的な疾病以外は、みなさん一様に「仕事中に具合が悪いことがばれるとクビになる」「病気だと知られたら明日の仕事がなくなるから、仕事中は我慢していたけど限界だった」と答えられたそうです。一時期、作業員の方達の、お店での飲酒マナーが問題になり、会社から外飲み禁止令が出たと聞きました。しかし逆に、宿舎だと際限なく飲んでしまい、具合が悪くなった方達の夜間受診が増えたのも事実です。これはもう、東電の労働者管理の問題で、当院がどうこうできることではありませんでした。

 異世界でたった一つの病院が、地元救急隊や病院スタッフと一丸となり、地域医療を守っていた満身創痍の日々。東電は、自分達の管理の問題で、さらに私達が苦労していたことなんて、知らなかっただろうな。今でも時々、救急車のサイレンが聞こえるような気がします。あの頃の患者さん達は、お元気でいるかなぁ。


たかの・みお 1967年生まれ。佛教大学卒。2008年から医療法人社団養高会・高野病院事務長、2012年から社会福祉法人養高会・特別養護老人ホーム花ぶさ苑施設長を兼務。2016年から医療法人社団養高会理事長。必要とされる地域の医療と福祉を死守すべく日々奮闘。家では双子の母親として子供たちに育てられている。2014年3月に「高野病院奮戦記 がんばってるね!じむちょー」(東京新聞出版部)、2018年1月に絵本「たかのびょういんのでんちゃん」(岩崎書店)を出版。


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