【座談会】【原発】【福島】自主避難者が明かす


癒えない痛みと行政への怒り


原発周辺の自治体に出されていた避難指示が解除され、住民の帰還が徐々に進むなど、福島県は震災前の姿に戻ろうとしている。しかし現実は、避難先にとどまり、さまざまな苦労をしながら生活を続ける人もいる。とりわけ「自主避難者」と言われる人たちは、東電からほとんど補償を受けられず、唯一の支援だった家賃補助さえも県から打ち切られ、今後の身の振り方に頭を悩ませている。自主避難者は今、どんなことに困り、何を思いながら避難生活を続けているのか。また、そんな自主避難者を、避難せずにとどまった人はどう見ているのか。立場の異なる4名の方を招いて座談会を開いた。(実施日は7月23日)

《出席者》

上山由紀子さん(仮名)

藤沼 美江さん(仮名)

横田 麻美さん

武田  徹さん

司会―本誌・佐藤 仁


 ――まずは震災当時の住まい、家族構成、仕事を教えてください。

 上山 福島市内のアパートで夫と娘2人の4人で暮らしていました。仕事は同市内の会社でフルタイムで働いていました。

 藤沼 私も福島市内で息子2人と3人で暮らしていました。仕事は掛け持ちで、工場とカラオケボックスと居酒屋で働いていました。

 横田 私は夫と息子1人、さらに弟家族という、ちょっと変わった組み合わせで(苦笑)郡山市内の自宅に住んでいました。自宅と家族構成は今も変わっていませんが、息子は今、西日本に住んでいます。仕事は今と変わらず郡山でカフェを営んでいました。

 武田 私は60歳まで英語教員をしていました。震災と原発事故が起きたのは70歳のときで、当時住んでいた福島市内の自宅から妻と一緒に米沢に避難しました。

 ――今、武田さんから発言がありましたが、上山さんと藤沼さんも米沢で避難生活を送っているそうですね。避難を決断した理由は何だったんですか。

 上山 私は周囲に避難している人がいなくて、私自身も仕事を辞めたくなかったので、当初は避難することに消極的でした。でも、夫が「将来、子どもたちの身に何か起きたとき、『やっぱり避難しておけばよかった』と後悔したくない」と私に内緒で避難先を探していました。そして2011(平成23)年10月、夫のもとに米沢市内のアパートに空きが出たという連絡があり、仕方なく仕事を辞めて引っ越しました。

 ――母子避難ですか。

 上山 いいえ。避難で家族がバラバラになるのはおかしいと、夫は最初から家族全員での避難を考えていたそうです。ですから、米沢には家族4人で避難し、夫の勤務先は福島だったので、夫は米沢から福島まで今も通勤しています。

 藤沼 私は知人から「原発が爆発したので子どもを連れて逃げた方がいい」と言われ、避難先を探したところ、新潟県湯沢町が無料で避難者を受け入れていることを知り、震災直後に同町に避難しました。でも1カ月くらい経つと、息子が「帰りたい」と言い出し、ご飯も食べなくなって仕方なく福島に戻りました。その後、先に米沢に避難していた友人から「こっちに来た方がいい」と何度も連絡をもらい、適当な物件も見つかったことから2011年12月末に米沢に引っ越しました。

 ただ、当時高校2年生だった長男は「オレは行かない」と言うので私の実家に預け、当時6年生だった二男も翌年の4月から米沢市内の学校に転校させようと考え、それまでは平日は福島、週末は米沢で過ごしていました。福島のアパートを引き払い、二男と米沢に移り住んだのは2012(平成24)年4月です。

 ――避難した3人とは逆に、横田さんは避難せずに郡山にとどまったそうですね。

 横田 うちは息子が少し変わっていて(苦笑)。当時中学1年生だった息子は、理科の自由研究で電気のことを調べた際に原子力について詳しく知り、私に「なぜ県内に、あんな危険なもの(原発)を建てたんだ」「お母さんは安全神話を本気で信じているのか」と強く反発するようになりました。

 ――中学1年生で?

 横田 息子から最初に原発の話をされたのは2010(平成22)年6月くらいですから、原発事故前の出来事です。私は当時、原発について無知だったので、息子からいろいろ言われても全く反論できませんでした(苦笑)。

 (出席者全員で)それは凄いですね(驚き)。

北海道に一人で自主避難

 横田 そうした中で翌年、あのような事故が起こり、うちは息子がいろいろな知識を持ち合わせていたので、初期被曝を避けるため、原発事故直後に南会津の叔母のところに避難しました。しばらくして郡山の自宅には戻りましたが、息子は中学校を卒業すると一人で〝片道切符〟で北海道に避難しました。

 ――一人で?

 横田 ええ。もう郡山には戻らないって。息子が北海道に行ったのは2013(平成25)年ですが、それ以来、こっちに帰って来たのは2日間だけです(苦笑)。郡山に居たら嫌でも外部被曝するが、遠くに行けば気にしなくていい、というのが息子の考えで。

 ――じゃあ、中学2、3年生の2年間は、郡山にいたくないけど仕方なくいた、と?

 横田 はい。テスト期間などは外部被曝回避のため車で登下校していました。あとは登校したりしなかったり……。

 ――高校受験は北海道の高校を?

 横田 福島県内の高校を合格すれば受け入れてくれる北海道の高校をリサーチしてあり、そのルートで高校に通わすことを考えていました。出席日数のこともあり、郡山市内の公立高校を受験したのですが合格できませんでした。合格点にどれくらい足りなかったのか知りたくて、試験の点数開示をしたのですが、その高校の合格ボーダーラインを上回る点数でした。

 ――えっ!? なぜ不合格に?

 横田 中学3年生の最後の進路相談の際に校長室に呼ばれて「ちょっと勉強ができるからって高校生になれると思わないでください」と言われました。そのときは校長の言葉の意味が理解できなかったんですが、内申点で合格できなかったのかな?と感じました。

 原発事故後、息子は福島県産米を使った給食を食べない選択をして弁当を持参したり、被曝回避対応に疑問を感じて登校拒否したりしていたので、厄介な生徒と思われていたのかもしれません。

 (出席者全員で)それは酷い話ですね……。

 横田 息子は中学卒業後、中浪し翌年北海道の高校に合格しました。住まいはその時点で借り上げ住宅の申請をしていたので、家賃分の負担がなく(避難)生活を始めることができたのは幸いでしたね。

 ――息子さん以外の家族は郡山にとどまっているわけですが、息子さんの影響は受けていますか。

 横田 息子がいなければ原発で何が起きているか知ろうとはしなかったでしょうね。ただ、郡山にいる以上、外部被曝は避けられないので、だったら内部被曝には気を付けようと食材は県外産を取り寄せ、水道水も使わないようにしています。

 武田 横田さんの息子さんのような人間が増えれば、この国も変わるんだろうね。

 横田 自分の息子のことを言うわけではありませんが、これからは上からの指示にハイと従う人間ではなく、本当にそれでいいのかと考えたうえで判断する若者が増えないといけないんでしょうね。

 ――武田さんが避難を決めた理由は?

 武田 私は自宅近くに国道13号バイパスがつくられようとしたとき、反対運動を展開して、その運動を通じて原発反対運動が行われていたことも知っていたので、原発事故が起きればどんな被害を受けるか理解していました。だから、事故が起きたときはもうここにはいられないと、すぐに避難することを決めました。

 息子が東京で暮らしていて「すぐにこっちに来い」と言うので、私と妻と娘、それに猫1匹と犬2匹を連れて、大きな荷物は持たず、とにかく原発から早く離れることだけを考えました。息子には2週間ほど世話になったが、いくら身内の家でもいられるのはそれくらいが限度だね。その後は先に新潟県村上市に避難していた兄を頼って村上に移り、そこのアパートに1カ月ほど滞在してから今も暮らしている米沢の雇用促進住宅に入居しました。


仕事と子どもをめぐる苦労


 ――避難したことで放射能のリスクからは逃れられたかもしれませんが、実際に生活してみるとさまざまな苦労があったと思います。

 上山 避難後、米沢で新しい仕事が見つかったんですが、間もなく勤務が始まるというタイミングで、その会社から突然、「米沢に本籍がないと採用できない」と言われたときは途方に暮れました。その後、知人の紹介で今の会社に就職することができましたが、子どもたちは急な転校で情緒不安定になり、登校拒否気味になるなど心配事は尽きませんでした。会社の社長が理解者で「家族のことを第一に考えればいい」と勤務を先延ばししてくれたのは幸いでしたが、周囲には知り合いがいないので頼る人がおらず、引っ越してすぐに雪の季節に入ったこともあり、気持ちは沈む一方でした。

 福島の友人たちから「避難しなくても大丈夫だよ」と言われながら避難した手前、ここで連絡すれば「だから言ったでしょ」と言われるのが嫌で、友人には絶対に頼らないと意地になっていたんです。それが鬱状態を一層酷くさせ、次第に引きこもるようになって……。

 ――旦那さんは仕事で日中いないし、子どもたちを学校に送り出した後は一人ぼっちで精神的にかなり辛かったんでしょうね。

 上山 あのころが一番辛かった。ようやく出勤できるようになったのは2012(平成24)年2月ごろでした。社長の配慮で、最初は勤務時間を子どもたちが学校に行っている間にしてもらったので、徐々に慣らしていくことができました。ただ、収入が減ったことで生活は厳しく、貯金や前の仕事の退職金を切り崩しながらやりくりしていました。

 ――金銭面のことを、もう少し詳しく教えてください。

 上山 当初は(自主避難者にも)家賃補助があったので助かりましたが、夫の通勤距離が伸びたことによるガソリン代の負担やさまざまな生活費がとても重くて……。私の給料も福島で仕事をしていたときの半分に減り、最初は貯金と退職金で何とかなると思ったんですが、次第に厳しくなっていって……。

 ――藤沼さんはいかがですか。

 藤沼 派遣社員として働いていた工場から、震災前に正社員のお話をいただいたんですが、避難すると決めたのでお断りせざるを得なかったのが辛かった。でも、掛け持ちしていた三つの仕事をすべて辞めるのは不安だったので、週末だけやっていた居酒屋のアルバイトは米沢から福島に通って続けていました。

 上山さんのお子さんも登校拒否気味になったと言っていましたが、私も二男が学校に行かなくなり、話を聞いてもいじめに遭っている様子はなかったので、最初は原因が分からなかったんです。その後、二男が夏休みに参加した保養旅行がドキュメンタリー番組で取り上げられ、その中のインタビューで二男が「避難は嫌だったけど、お母さんが決めたので仕方なかった」と答えているシーンを見て、本当に申し訳ないことをしたなって……。

 ――当時高校生だった長男は自分の意思で福島に残ることを決めたわけですが、6年生の二男も口には出せなかったけど自分の意思がきちんとあったんですね。

 藤沼 でも、保養旅行以降は二男の様子も変わり、学校にも行くようになったので(嫌だった避難も)気持ち的に受け入れられるようになったのかもしれませんね。

 一方、私自身は新しい仕事がなかなか見つからず、居酒屋のアルバイトを続けていたんですが、ある日、米沢市役所から突然「夜、子どもを置いて出掛けていませんか」という連絡が入ったんです。私がアルバイトをしている間、二男は一人で留守番せざるを得ないわけですが、そういう事情を知らない近所の人が市役所に通報したみたいで……。

 その行為自体は間違いではないんでしょうが、私からすると見知らぬ誰かから見られているのが怖くて、誰が通報したのかという不信感も重なり、近所の人との接触を極力避けるようになったんです。市役所の方には事情を説明して分かってもらいましたが、周りの目が気になる状況はしばらく続きましたね。

悲しい県民同士の対立

 武田 私は自分で避難生活を続けながら自主避難者の支援活動を行っていて(※武田さんは「福島原発被災者の会in米沢」「福島原発被災者フォーラム山形・福島」「住宅支援の延長を求める会」という住民組織を立ち上げている)、以前から上山さんと藤沼さんが互いに助け合っていることは知っていたんだけど、二人が知り合ったのはいつごろなの?

 藤沼 初めて会ったのは2017(平成29)年の秋ごろかな。それまで近所との接触を一切遮断していたので、知り合いと呼べる人が全くいなくて……。

 上山 藤沼さんは避難者同士の集まりにも一切参加していなかったもんね。

 横田 避難者が大勢入居する集合住宅ほどトラブルが多いという話はよく聞きます。例えば、少し高い買い物をしたり、たまに外食しただけで「あの家は余裕がある」と妬んだり「うちはこんなに苦労しているのにズルい」と格差を殊更比較して、あることないこと吹聴する人は少なくないようですね。

 藤沼 避難してきた時期が違うだけで、意外と仲良くなりづらいものなんです。最初から避難している人たちと、私や上山さんのように少し遅れて避難した人では接点がないので知り合う機会もなくて……。

 武田 そのためにも自治会が必要なんだけど、現実は避難先で自治会をつくったところもあれば、つくらなかったところもあるし、行政によ

ってもつくる・つくらないで温度差がある。また、自治会を束ねる会長が避難者ならいいが、もともとあった自治会は地元の人が会長を務めているので、後から入ってきた避難者の気持ちを全面的に汲めるわけでもない。

 私は自分が中心になって自治会をつくったから、避難者のさまざまな相談にも乗ることができたし、ごみの出し方など些細なトラブルも避ける努力をしてきた。でも、自治会がなかったり、あっても機能していないところは、残念だけど避難者同士のトラブルや足の引っ張り合いをしていた印象が強かった。

 ――震災後、自治会づくりに行政が積極的に関与しないことに不満を言う避難者は確かに多かった。

 武田 そういう足の引っ張り合いって、震災後、福島県民同士もしていると思うんです。すなわち、避難した人と避難しなかった人が互いの気持ちを推し量らず「なぜ避難しないのか」「どうしてわざわざ避難するのか」と対立し、避難した人が戻ると「どうせ戻るなら最初から避難しなければよかったんだ」と批判する状況は同じ福島県民としてとても悲しいと思うんです。

 横田 私は息子が避難したことを他人から「うちも避難させたかったけど本人が行きたがらなかった」と言われたとき、これも無用な妬みや格差の比較かなって感じました。

避難に対する周囲の反応

 ――そうなった原因は原発事故にあり、批判の矛先は東電と国に向けられるべきなのに、県民同士がいがみ合うのは残念ですよね。

 武田 原発事故の責任の所在をはっきりさせ、東電と国がきちんと謝罪していれば、県民がいがみ合う状況は生まれなかったと思います。内堀(雅雄)知事も、もっと県民の立場に立って東電と国に怒りをぶつけるべきなのに、そういう姿勢が感じられないのは不満だ。

 ――避難せずにとどまった横田さんの目にはどう映りますか。

 横田 私は息子が避難したので避難者の気持ちも分かっているつもりです。福島県の現状を踏まえると、もし避難できるなら避難した方がいい、という考えは今も変わっていません。そうした中で、原発周辺の強制的に避難させられた人たちと違って自主避難された人たちは、いろいろと考えた末に最後は自己責任で避難したと思うんです。避難したけど最終的には戻った人だって、たくさん悩んだ末に戻ることを決めたはずですが、いざ戻っても本当にこれでよかったのかと未だに悩んでいるに違いありません。

 つまり、当事者しか分からない考えや悩みがあって今に至っているのに、そこを無視して第三者が批判したり、あるいは同意するのはおかしいと思うんです。実際、私のお店にもいろいろな悩みを持ったお客さんが訪れています。そういう人たちの話を、私はとにかく聞くように努めていますが、あれが悪い、これが悪いと言いたくなる気持ちは分かる半面、最終的には自己責任で解決しなければならない部分もあると、厳しい言い方かもしれませんが思うこともありますね。

 ――避難したことに対して、周りの反応はどうでしたか。

 上山 親族はよく決断したと好意的に捉えてくれています。また友人たちも、私が避難するときは「避難しなくても大丈夫だよ」と言っていましたが、後で話を聞いたら「私も避難できるならしたかった」「本当は避難したかったけど夫の親と同居している手前、避難できなかった」と言っていたので、避難したことは全く後悔していません。

 藤沼 私は兄妹が避難することに反対していました。友人から「早く逃げろ」というメールをもらったことを妹に伝えると「そんなチェーンメール、本気で信じているの?」と呆れられ、兄は両親に「福島を捨てた人間はかまうな」と話しているようなので、兄が実家にいるときは行かないようにしています。仲が良かった知人からも「原発で頑張っている人がいるのに福島を捨てて逃げるのか」と言われ、悲しい思いをたくさんしました。

 でも、ある意味、開き直らないと(避難を)決断できなかったと思うんです。子どもを守れるのは自分しかいないし、あれこれ言われたくないからとどまって、もし将来、子どもの身に何かあったら絶対に後悔するので、自分の行動は間違っていなかったと確信しています。

 横田 息子が避難したのとは対照的に、同居する弟家族は原発事故のことを全く気にしていません。息子が2011年の夏に1カ月間、北海道に保養に行ったとき、弟は「何しに行くの?」と言っていたくらいですからね。

 原発事故後、私たちの目の前には「危険だ」「危険じゃない」という2枚のカードしかなくて、どちらかを選ぶしかなかった。ただ「危険だ」というカードを選んだ人は避難したけど、だからといって何の心配もなく生活しているわけではなく、食べ物や水、環境に気を付けていると思うんです。一方「危険じゃない」というカードを選んだ人も表向きは大丈夫と言っているけど、心配がゼロというわけではない。結局、みんな何かしら気にして生活しているのが原発事故後の福島県の姿なんでしょうね。

 避難した人が、対外的に講演等をするうちに〝避難者代表〟のようになるケースがありますが、そういう人の話を聞くと違和感を覚えることが少なくありません。避難しなかった人たちのことをあれこれ話すんですが、私からすると「とどまった人の気持ちを全然分かっていない」と思ってしまうんですよね。

 武田 国の責任で、少なくとも2週間くらいは福島県の子どもを県外に避難させるべきだったんだ。それをやっていれば、横田さんが言うような妬みや格差の比較も起こらなか

ったと思う。なぜ戦時中に子どもたちを疎開させることができて、今の時代に避難させることができなかったのか不思議でならない。安定ヨウ素剤だって、まずは子どもたちに早急に飲ませなければならないのに、それすらやっていない。

 ――先ほど、お子さんが不登校気味になったと言っていましたが、避難後の様子はどうでしたか。

 上山 先に避難していた子どもがたくさんいたので、少し遅れて避難した娘たちを温かく迎え入れてくれたのはありがたかった。ですから、いじめ自体はなかったんですが、先に避難した子どもたち同士の会話に娘たちがついて行けず、そこに距離感を感じて学校に行けなくなった、ということはありましたね。でも、そんな娘たちをさらに気遣ってくれたのも先に避難した子どもたちだったので、うちは恵まれた環境だったと思います。

 藤沼 長男も二男もサッカーをしていたんですが、二男が不登校になっても米沢の先生、友達、保護者は「学校は来なくていいからサッカーだけでも一緒にやろう」と常に声をかけ続けてくれました。逆に福島の人たちからは避難したことを責められ、サッカーを通じた友達や保護者との関係も悪くなっていたので、米沢の人たちの温かさは本当に身に染みました。

 横田 息子は北海道で送った避難生活や高校生活の中ではいじめに遭っていませんが、原発事故後、中学校で給食をストップした際に友達にからかわれたようです。ただ、それをいじめと捉えるかどうかは本人次第だし、そもそも近くにいる大人が息子のことをどう見るかによって子どもたちの見方も変わるので、大人の責任は大きいと思いますよ。

 武田 子どもたちを守る、という意識が低いんと思うんだよね。福島市だって、放射線量を詳しく測ればホットスポットはあちこちにある。ところが、それを周知する取り組みは一切やっていない。本来は「ここは危険」と立て看板を立てるのが当然でしょう。そうすれば、子どもは近付かないんだから。

「平等」の補償をすべき

 ――震災から8年以上経ち、原発周辺の自治体に出されていた避難指示が解除され、避難していた住民は徐々に帰還しています。一方、戻らないと決めて移住した住民、戻りたくないけどさまざまな事情で戻らざるを得ない住民もいるわけですが、行政は戻らない・戻りたくない住民にも寄り添うと言いつつ、帰還を推進しているのが実態です。

 上山 それぞれの家族は、それぞれの事情があって避難しています。そういった事情を個別に聞き取りもせず、一斉に支援(自主避難者への家賃補助)を打ち切ったことは、寄り添うという言葉からは大きくかけ離れていると思います。確かに現状を尋ねるアンケートは送られてきましたが、国・県・市町村の職員と直接面談して話を聞いてもらったことは一度もありません。

 職員が避難者宅を直接訪問するケースもありますが、ほとんどが平日の日中で、私たちはその時間帯に働きに出ているわけだから、平日の夜か週末に訪問するのが有るべき姿だと思います。

 武田 不在の日中に訪問し「行ったけど留守でした」と仕事をしているフリをされても何の意味もないんだよ。住民説明会だって平日の日中に開かれることがあるが、その時間帯では働いている人は行きたくても行けないんだから、平日なら夜、あるいは週末に開くのが当たり前だと思いますよ。

 藤沼 何をもって「戻っても大丈夫ですよ」と言っているのかが分からない。この地点の放射線量はこれくらいです、という通知は確かに来ます。でも、自分で測ってみるとアラームが鳴りっぱなしの現実があるわけです。そんな場所に戻れって、どうして言えるんでしょうか。

 行政に「発表されている数値と自分で測った数値が違う」と指摘したこともありますが、「除染したので高い数値が出るはずはない」「あなたの測定器がおかしいんじゃないのか」と言われ、全然取り合ってもらえませんでした。

 放射能って、目には見えませんよね。そうした中で、行政が発表する数値と自分で測った数値が違っていたら、私は自分で測った数値を信じます。正直、福島県が発信する情報は信じられません。

 横田 国や県が帰還を推し進めるのは、原発事故を〝なかったこと〟にしたいからなんでしょうね。

 先ほど、武田さんが子どもたちを県外に避難させるべきだったと言っていましたが、「平等」という観点に立てば、原発から遠い・近いに関係なく、避難した人にはきちんと支援すべきだったと思うんです。

 私は息子が避難したことで、たまに北海道に行って様子を見て来ざるを得なくなりました。それにかかる費用は原発事故がなければ負担する必要がなかったものですよね。そういった余計な負担を福島県民は大なり小なり強いられているんです。だったら、原発から遠い・近いとか避難した・しないとか関係なく、どんな選択をしても県民には「平等」にそれなりの補償をすべきだったと思いますね。

 上山さんのように貯金や退職金を切り崩して生活するなんて、原発事故がなければ手元に残ったはずのお金ですよね。それがあれば、今より豊かな生活を送れたわけですよね。そういったささやかな幸せさえ避難した人は奪われたのだから、東電と国はその責任を負うべきですよ。

 武田 もう8年も経ったんだから支援なしで自立しろ、と言うかもしれないが、避難者の生活環境はそれぞれ異なります。体調不良で働きたくても働けない人もいるし、年をとって健康を害している人もいる。そのタイミングで避難指示が解除されたり、あるいは(自主避難者への)支援が打ち切られ、本当は戻りたくないけど戻らざるを得ない避難者もたくさんいると思うんです。

 上山さんと藤沼さんだって、まだ若いけど体調不良や病気に悩まされているんだ。そういう個別の事情を一切汲まず、期限が来たから一斉に家賃補助を打ち切るなんて、県の対応は冷たすぎる。

 横田 せめて子育て中の家族には支援の余地を残すべきだったと思います。子育てって何かとお金がかかりますからね。

今後「戻る」可能性

 ――原発周辺の避難者にはさまざまな補償がありましたが、自主避難者にとっては家賃補助が唯一無二の支援でした。これが打ち切られたことは相当影響しましたか。

 上山 うちも大変ですが、知り合いにも家賃補助がなくなったことで苦しんでいる人がいます。

 藤沼 本当は(福島県に)戻りたくないけど、自分で家賃を負担することはできないから泣く泣く戻っている人も少なくありません。

 ――いろいろ大変なことはあるけど今も避難生活を続けているわけですが、今後「戻る」という選択肢は出てくるんでしょうか。

 上山 当時は子どもも小さかったし、子どもを守れるのは親しかいないという思いから一緒に避難しましたが、8年経って子どもたちから言われているのは「戻るときは自分たちにも選択させてほしい。戻る・戻らないを決める権利は自分たちにもある」ということです。子どもたちは避難するとき、友達と別れるのが本当に辛かったそうです。でも当時は小さかったから、親について行くしかなかった。そういう経験をしているだけに、次に同じような場面が訪れたら、自分で決めて行動したいと考えているようです。

 藤沼 私は、環境的にちょっと無理ですね。それに今戻ったら、あのとき二男を連れて避難した意味がなくなる気がして……。

 福島で暮らす長男は今20歳で、除染や建物解体の仕事をしているんですが、先日、長男から「こっちで一緒に住もう」と言われたとき、それはできないって言ったんです。じゃあ長男に何かあったとき、すぐに福島に駆け付けられるかというと、私が病気がちで難しい。すると長男が「オレが米沢に引っ越して、みんなで暮らしながら福島に通勤する」って言ってくれて。

 武田 たいしたもんだ。

 横田 年月が経ったことで戻ることばかり言われていますが、私の知人の50代男性は今年7月に避難しました。彼を見て避難のタイミングは人それぞれだし、年齢も関係ないんだなと実感しました。国や県が帰還政策を推し進める一方で、避難や移住を選択する人は今後も出てくるだろうと思います。

 ――よく8年も避難せずに堪えましたね。

 横田 自分に課せられた仕事にようやく区切りがついたので、避難を決断したそうです。

 武田 行動を起こしたという意味では、原発事故後に早期退職した安西宏之さんは自分で測定器を購入して、自宅があった郡山市内の各所をくまなく測り、詳細な数値を調べ上げた。安西さんはその後、病気で亡くなり、安西さんの姉が弟の遺志を継いで、その記録を自費出版で『毒砂』という本にまとめたんです。

 私は支援団体の代表として県や市の職員と頻繁に交渉しているが、彼らの対応には不満があるけど、本当は悩みを抱えていたり、避難したくてもとどまっている職員もいると思うんです。そして実際、安西さんのように本を出した県庁職員もいる。行政側にも、きちんと理解している人がいることは忘れてはいけないと思うね。

「私たちの声を聞いて」

 ――最後に、皆さんから一言ずついただいて座談会を締めくくりたいと思います。

 上山 私は数年前から原因不明の病気に罹っていて今も治療を続けているんですが、医師に「原発事故が関連していますか」と尋ねると「それは関連付けないでほしい」と言われてしまうんです。原発事故後、いろいろな病気に悩まされている人は多いと思うので、子どもだけでなく大人にも医療面での支援をしてもらえると大変助かります。

 藤沼 震災を受けて施行された子ども・被災者支援法が機能していないのが残念です。同法では、避難する・しないの権利が個々人に認められているはずなのに、実態は蔑ろにされています。おかげで自主避難した私たちは、とても辛い目に遭っています。何のための法律なんだ、と言いたいですね。

 それともう一つ、上山さんも言っていましたが、とにかく行政には私たちの声を聞いてほしい。行政からはアンケートがしょっちゅう送られてきますが、それに答えたからって私たちの状況は何も変わらないじゃないかって思うと、一切答える気になりません。

 横田 健康面の「平等」という観点で言うと、私は「被爆者手帳」と同じものを県民に発行すべきだと思います。あのとき、福島県にいた人全員に手帳を配れば、原発事故との因果関係云々にかかわらず必要な治療が無償で受けられますからね。

 大勢いる避難者の中で、皆さんのように自ら声を挙げることはとても大変でしょうが、そうすることでついて来てくれる人はきっといると思います。

 武田 避難した人もとどまった人も同じ福島県民なんです。福島を愛する気持ちは、どちらの人も変わらないはずです。その原点さえ分かりあえば、対立や批判、分断なんて起こらないと思います。一方、行政には口先だけの寄り添いではなく、個別の事情を汲んだうえでの真の寄り添いを求めたいですね。大変かもしれないけど、それを丁寧に積み重ねていけば、帰還者も次第に増えていくのではないか。


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