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昨日は、リラックスについて思うところを綴りました。

綴ると、その記事を読んでいただいた方からのコメントをいただけました。

ヨガレッスン中には安心して緊張と弛緩の交互にやってくる刺激に身をゆだねることができ、レッスン最後には深いリラクゼーションに包まれるけど、日常生活ではなかなか難しい。。というものでした。

確かになぁ。。と思います。

スタジオレッスンでは、インストラクター(誘導者)がいて、その誘導に導かれて過ごすことができます。日常生活での誘導者は、『自分』になります。その自分が迷い、戸惑い、悩み、苦しむと、導かれるこの身体にくつろぎはやってきませんね。

スタジオレッスンの場合にも、できるだけ誘導者にゆだねるというよりは、自分が自分の体をコントロールするという意識を持つように努めてほしいなぁと思います。もちろん動作の指示はインストラクターから出てきますが、その動作をどの程度自分に提供するか、どう取りくむか、この動作が今の自分に必要かどうか、、そういったことを自分で考えながらレッスンに参加してみてほしいなと考えました。そうすることで、常に『私が』『私を』誘導する状態にあり、これは日常の時間と変わらなくなります。ヨガを生活になじませるためにも、ヨガレッスンで日常意識を保つ(依頼心を持たない)ように努めてみるのも練習になりますね。

こうして、反応を聞かせていただくことで、また考えるきっかけにもなり、ありがたいものです。

他力への願い、祈りはヨガに限らず、宗教に限らず、人は心に浮かぶものです。

「どうか何々なりますように」

「いつか叶いますように」

これは誰に言っているのでしょうね。神?

祈りの対象

ヨガは古代インドのあたりで発展した身体的、精神的な調整法。

その調整のゴールに、解脱や悟り、成仏や涅槃という状態あるとされます。

その手段には、あらゆるテクニックがあり、時代と共に、地域の文化と共に実に多様な発達を遂げてきています。

私もインドでヨガクラスに参加するのが好きですので、毎年2月には渡印。

約1か月程度、お気に入りのスタジオや指導者のクラスへ参加します。

インドでは、必ず、ヨガクラスの始まりと終わりに「マントラ」を唱えます。また、クラスのどこかに「神棚」があります。

そこには、シバ神の象徴やガネーシャ神、パールバティー女神がまつられていることが多く、同時に聖者(サティアサイババ様など)の写真も飾られ、香が炊かれています。

良く唱えられるマントラには代表的なもので

シャンティマントラ

Om Saha Navavatu, Saha Nau Bhunaktu
Saha Viryam Karavavahai
Tejasvinavadhitamastu Ma Vidvishavahai
Om Shanti Shanti Shantih

ガヤトリーマントラ

Om Bhur Bhuva Svaha
Tat Savitur Varenyam
Bhargo Devasya Dheemahi
Dhiyoyonaha Prachodayat

パタンジャリへの祈り

Yogena cittasya padena vacham
malam sharIrasya ca vaidyakena
yopa-karot tam pravaram muninam
patanjalim pranjalirAnatosmi

どれも神様への祈りや感謝を述べている内容です。

神様とはなんでしょうか?

私の実家は浄土宗で南無阿弥陀仏のお家です。そして氏神様は大阪天満宮(天神さん)です。

それでも、インドへ行けば、あるいはヨガのクラスの時には、マントラを唱えます。

その中に「神」という存在を意識します。

あらゆる形

偶像の神、概念の神、あらゆる形で神は表現されます。

怒っているような神、穏やかで包み込むような神、

自然現象(雷や風)などを神とする信仰もありますね。

神は、目に見えるものでしょうか?そうでないものでしょうか?

私が影響を受けた2人の聖者のことばをお借りします。(その考え方に感銘を受けています。)

沖正弘師

『神は内在する働きであり、生命現象そのものが神の現れである。つまり生命即神であるから、祈る対象も、誓う対象も自分自身である』

Sri Ramakrishna Paramahamsa(ラーマクリシュナ)

『神はいろいろな形をもっているよ。形ある神にお仕えすることも、形のない神へ信仰するのもどちらも正しい。その人が一番信仰しやすい形に神様はなってくれる。まるで母親が幼い子供が食べられるように食べ物をいろいろと工夫するように、神様は私たちにあらゆる形になって教えてくれているんだ』(ちょっと、ニュアンスだけ汲み取りください)

大切なのは、心。

神様に頼り、祈るというときに、「自分自身を完全に明け渡すこと」「捧げきること」「任せきり、疑わないこと」が大切であり、自分の利のための対象でないということ。そして、祈り、頼り、捧げきったときに、「合一」し、いわゆる「神の御心」の心境とともに生きることができる。

それが、神との繋がりであり、祈ることが「ヨガ」(繋がり)となる。

そんな風に学びました。

宗教は生きるための正しさを教える

どうしても、神という存在と信仰、宗教との関係が気になることがありますね。

宗教教義への信奉や遵守、教団の存続のための活動はヨガではないような気がします。

宗教というは、宗の教えであり、どう生きるかを説くもの。

どの宗派の教えでも、そうでなくとも、「どう生きるか」を深く説いてくれるものが「宗教」となります。

そして、祈りや誓いという心の姿勢を生活すべてで継続する学び方の中で、「神」(おおいなるものや、本当の事)への合一(帰依)を目指すのがヨガの学びと考えています。

今一度、神ってなんだろうなぁ?

見えるものかな、感じるものかな、信じるものかな?

と、自問してみるのもいい時間ではないでしょうか?



さいごに

お読みいただいた感想やコメントなどお聞かせいただくとまた私も勉強になります。






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