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大人になれない

高校時代クラスに来た教育実習生のことをすごく歳の離れた大人だと思っていた。
同級生が教育実習に行ったというストーリーをInstagramに載せているのを見て、もうそんな大人になったのかという気持ちと、あの時の教育実習生って意外と子どもだったのかもしれないという気持ちに同時になる。そういう感情の起伏の根底には大人になれていないかもしれないという焦りがあるのだと思う。果たして今の僕は大人なのか、子供なのか。

いつから大人になるんだろうか。モラトリアムがどうみたいな「社会的な大人」の話がしたい訳じゃない。社会的な大人は同じく社会に反する行為でいつでも踏み外せるものだからそもそも信用していない。どちらかというと精神的に「大人の自覚」みたいなものっていつ生まれるんだろうとかそういう話。。ていうか本当にそんなもの生まれるんだろうか。中学生くらいまでは、20歳になれば、お酒を飲めるようになれば、社会に出れば、結婚すれば、そういう来るべき瞬間が来れば突然大人になるのだと思っていた。だけどそういうぼんやり考えていた「来るべき瞬間」をいくつか経験しても、あぁこういうもんかと思うくらいで一向に大人になる気配はない。

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最近飲み会でこういう話になった時に、「自分が続くだけ」と先輩が言っていた。当たり前だけど、確かにそうだなと思った。よく考えてみたら小学校の時から「高学年としての自覚」もよく分かってなかったし、中学時代の「生徒会長としての自覚」とかもなんだそれと思っていた。人は自分の経験の上にしか立てないし、じゃあ「大人」っていう言葉はやっぱり体のいい身分でしかなくて、だとしたら「大人としての自覚」もなんていうか急に嘘くさく感じてきた。もしかしてちゃんとしていると思っていた大人なんていないのかもしれない。
もちろん年齢を重ねるにつれて、仕事とか家族とか、のしかかってくる責任の数と重さが増えてくるのは当たり前だけど、だからって「大人になる」という言葉を自分の主張やこだわりを殺す理由にしていいとは思わない。
大人になんてならないでずっと自分と一緒でいられたらいいなと思う。或いは自分だけの意味で大人になるって意味かもしれない。

そして別に「大人」に限ったことじゃないけど、みんなそれぞれの「身分」や役割が身の丈に合っていないならやめればいいと思う。身分に殺されるくらいなら背伸びも我慢もしないで何者でもないまま生きてればいいと思う。少なくとも僕はそうしていきたい。




YOJHO

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