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雲南省麗江への旅へ、その1〜そこは桃源郷〜

どこから振り返れば良いか。兎に角、前回のブログから今日までの1ヶ月は相当濃くて、純粋に楽しくも充実した1ヶ月だった。白黒の話の結果は『黒』だった。何故だか、黒だと判明すると、妙に納得できたし、ある意味ほっとした。どういう風にほっとしたかというと、人生のコマを一つ進められるという意味でほっとした。次に押し寄せた感情は、人生の次の目標を見つけないと寛解しないだろうという確信だった。

とりあえず、自らの備忘録を兼ねて記録する。

3月24日金曜日の朝9時に大病院の聡明な中国人女医からはっきり生検結果は『黒』だと告げられた。北京で手術するなら週明けにもMRI、4月の第1週にPET CT、早ければ、4月第2週ぐらいにできると告げられる。ただ、手術をしても、化学療法とホルモン治療へと治療を継続する必要があると説明を受けた。

私の心は既に日本に本帰国していた。メールでのやり取りで好感が持てたT病院のO先生に手術からお願いしたい気持ちによるところも大きかった。

その足で直ぐに行きつけのクリニックの日本人医師H先生に生検結果について説明してもらった。H先生の説明で、私の癌は顔つきの相当悪い癌だと理解した。H先生は設備が揃っていたら、今すぐ、ここで手術をするんだけど、という。これは、急いだ方が良い癌だ、と思う一方で、前々から楽しみにしてた、3月31日のお着物を着る行事への参加と、4月2日から予定していた、雲南省麗江市への家族旅行は決行できないだろうかと考え始めた。

よりによって私の身体に顔つきの相当悪い癌がいるとは、笑。血は争えないと不思議と嬉しくなった。でも、母とは違うタイプの癌だったのも相当興味深い。

癌の種類を分類する要素は4つある。
・ホルモン受容体が陽性か陰性か
・HER受容体が陽性か陰性か
・Ki67(細胞増殖能)のパーセンテージがいくつか
・組織学的グレード(3段階に分けられ、3が一番悪いとされている)

母は、ホルモン受容体が陰性、HER2受容体が陽性トリプルプラス、Ki67は30%、組織学的グレードは3だったと記憶している。一方、私は、ホルモン受容体が30%陽性、HER2受容体は陰性、Ki67は80%、組織学的グレードは2。どちらも顔つきが悪いが、人相がだいぶ違う。

母は、HER2受容体がトリプルプラスだったので、分子標的療法ハーセプチン+パージェタが良く効いた。母の場合、肝臓に転移していなければ十分寛解したのではないかと思う。

私の場合、特に特徴的な要素は、Ki67が80%と高いことだ。これは癌の細胞増殖能の値が高く、進行が速いのが特徴だ。この値が、H医師に『設備が整っていた、僕なら今すぐここで切る』と言わしめた。

乳がんは死に直結しないと聞くが、それは転移していない場合であって、他の臓器に転移したら、ステージは一気に4に上がる。だからこそ、早期発見が叫ばれている。

以上、述べた私の癌の性質を踏まえて、私は即座に、緊急一時帰国したいと夫に申し出た上で、自分でできる段取りを始めた。まずは、T病院にLINE OUTで電話連絡して、中国・北京にいること、生検検査の結果が悪性であったこと、既にO先生とメールでやり取りさせて頂いていることを踏まえて、翌週早々にO先生の診察を予約できるかについて確認した。すると、看護婦さんは、直ぐにO先生の予定を確認してくださり、午後13時半から診察室に入られるのでその前後の時間帯にご連絡頂ければ、先生に電話でお繋ぎしますと言われた。大病院なのに、なんて、フレンドリーなのか!?母が通院していたK病院と比べて、先生への距離感がずっと近くて感動した。

その旨、北京のクリニックのH医師に伝えると、H医師からもO先生に現状を伝えて下さるとお申し出を頂く。この時点で、私は天からしっかり治療に向き合うようサポートされていることを強く感じた。時は既に北京時間11時半。実は、その日、約2ヶ月前から楽しみにしていた大好きな友人とのランチの約束があった。事態が事態なだけに、場合によっては、ドタキャンもやむを得ないと思いながら、キャンセルできずにいた。だって、良性の可能性も捨てきれなかったから。でも、クリニックのH医師から、北京時間で12時20分ぐらいにT病院のO先生に電話しましょうといわれ、一度、解放された。

悪性だとわかって直ぐに、出張先の夫に第一報は入れていたが、H医師の話を受け、相当の緊急性をもって対応しなければならない種の癌であることが分かり、その緊急性について、改めて夫に伝え、日曜日に東京に戻る可能性も含めて航空券の手配を依頼した。その後、直ぐに、自ら車を走らせ、予定通り、大好きな友人達と大好きなレストランで久々の再会を果たした。ただ、急遽帰国しなければならない事情があるので、中抜けする旨伝えた。明るい彼女達は、二つ返事で、それ以上何も聞かれず胸を撫で下ろした。

その後、クリニックに戻り、H医師と一緒にO先生とお話しさせて頂いた。O先生は直ぐに事情を把握し、新患として受け入れて下さることになった。なるべく早期に診察予約を入れるように指示された。電話を終え、クリニックを後に、レストランに戻り、しばらく北京を離れるけど、また戻ったらランチしましょうと、友人達と約束した。その時彼女たちと撮影した写真は、全員の表情がとっても晴れやかで美しく私の宝物だ。

その後、T病院で診察予約を入れようとしたところ、診察を受けるには、生検のプレパラートと医師の紹介状が必要だということが分かる。この時既に時刻は北京時間午後3時。生検のプレパラートを持参できないと、再度、あの麻酔銃のような検査をT病院でも受けなくてはならない。直ぐに、北京の大病院に連絡すると、金曜日の午後で担当医師は既に帰宅し、準備できるのは週明けになると告げられた。日曜日の帰国は諦めたと夫に連絡し、娘を学校にお迎えに行くと、直ぐに北京の大病院から連絡が入った。その日中に診断書とプレパラートが用意できたという。

そこで、娘を自宅に送り届けた足で、直ぐに大病院へ向かい、医師の診断書とプレパラートを受け取った。北京の大病院では診断書のみで、紹介状は書けないとのことだったので、クリニックのH医師に紹介状を書いてもらった。宛名はO先生宛に書いて頂こうと思ったが、僕は部長宛以外には書かないよ、と言われ、作法についての不理解があるかも知れないと不安になりつつも、とりあえず、H医師が紹介状を書いて下さることが確約されたことで、初診に必要な道具を月曜日の予約ができる締め切り時刻10分前にギリギリ揃えることができた。慌ててLINE OUTでT病院の初診予約に連絡をし、事情を説明すると、O先生の診察は木曜日まで取れないと言われる。しかし、木曜日まで待っていたら、MRIやPET CTの予約も約1週間遅れてしまうことになる。そこで、仮に月曜日に予約できる先生がいらっしゃるか確認するとT先生の予約が取れると言われた。そこで、キャンセルさせて頂く可能性もあるが、そのような形でも予約可能か確認すると、キャンセルしても構わないという。本当に、患者目線の素晴らしい病院だと改めて感動し、27日月曜日11時30分の枠で予約させて頂く。

出張先の夫は、何故か飛行機の離陸が大幅に遅れた。月曜日に初診予約がとれたとの事情を説明したところ、では至急手配すると言ってくれ、直ぐに日曜日発のJAL便に目星をつけたところで、PCR検査が必要なことがわかった。H医師にそのことを相談すると、直ぐに、既に帰宅したC看護師に翌朝のPCR検査の予約をお願いしてれた。PCR検査の予約も確定し、夫が即座にJAL便を購入。日曜日の緊急一時帰国が決まった。

『黒』だと分かった長いながい金曜日の夜、T病院で治療を開始させて頂くにあたり、大変なお作法違反である可能性の無礼を詫びつつ、月曜日にT先生の初診予約を入れさせて頂いた旨、O先生にメールした。すると直ぐに、9時半にO先生が診察して下さる旨のメールを頂く。このメールに驚喜する。

3月24日は奇跡の連続だった。出張先の夫の飛行機が遅れなかったら、日曜日の航空券手配はできなかったかも知れない。母の意識が遠のき、母の入院先のK病院に電話する必要性に迫られなかったら、LINE  OUTという大変便利な国際電話のクレジットも持っておらず、簡単に携帯から病院の固定電話に連絡することもできなかったかも知れない。ある程度、黒だと目星をつけて、T病院にメール相談していなかったら、ここまで迅速に転院の段取りも踏めなかったかも知れない。そして何より、北京のクリニックのH医師がいなかったら、気になるシコリを針の検査で白黒つけることもなく、後生大事に胸に抱えていたかも知れない。

ゼロコロナ政策で、じーっとただただ自宅に引き篭もっていた時より、ずっとワクワクする決断の連続を経験することができた。何より、私は、母が生きている時から、私も遅かれはやかれママに追いつくから、死ぬことは心配いらないよと、っと母に語りかけていた。自分で引き寄せた病だから、一切の驚きはなかったのだと気づく。



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