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沖縄の先人が遺した平和への願い。伝説のライブ「1975年8月15日 熱狂の日比谷野音/琉球フェスティバル」

いまから47年前の、1975年8月15日。東京・日比谷野外音楽堂で、沖縄音楽の祭典「琉球フェスティバル」が開かれました。その舞台には、戦後、沖縄の民謡界をけん引した名人がズラリと並んでいます。白熱のライブのようすは、実況録音盤『1975年8月15日 熱狂の日比谷野音VOL.1/VOL.2』(日本コロムビア)として収録され、現代に遺されました。

2022年の今年は、沖縄が本土に復帰して50年。凄惨な沖縄の地上戦を生き延びた先人たちが歌に込めた思いとは……。平和を維持することの困難さが強く意識されるいま、終戦の日を前に、音楽評論家の藤田正さんとともに改めて鑑賞していきたいと思います。

1975年8月15日熱狂の日比谷野音VOL.1  戦場いくさば の哀れ

――『1975年8月15日 熱狂の日比谷野音』をはじめて聞いたとき、ぶっ飛びました。なにより、メンツがスゴイ!  嘉手苅林昌かでかるりんしょうさん、登川誠仁のぼりかわせいじんさん、知名定繁ちなていはんさん、女性なら糸数いとかずカメさん、瀬良垣苗子せらがきなえこさん……。いまや伝説といわれる、戦後沖縄の、最高の唄者うたしゃが勢ぞろいしてるんですから!  

藤田 「琉球フェスティバル」は、1974年にジャーナリストの竹中労たけなかろうさんが第1回を開催し、1975年は2回目の開催でした。竹中さんはジャーナリストかつ色んな企画の仕掛け人、そして革命家でもあった。「ルポライター」という言葉を造ったのもこの方です。竹中さんは嘉手苅さんを筆頭に、島唄の名人を本土に紹介した。それが「琉球フェスティバル」ね。ちなみに今月(2022年8月)の28日に日比谷野外音楽堂で開催される同名のフェスティバルの、元にもなった歴史的イベントです。

――司会は、藤田さんもお世話になった照屋林助てるやりんすけさん(1929-2005)ですね。(というか、登場する多くの方にお世話になってますが…)

藤田 林助先生!  先生は沖縄ポップの祖と呼ばれる人物で、てるりんの愛称で知られています。「ワタブーショー」という、いわゆる漫談で沖縄じゅうを笑いに包みました。りんけんバンドのリーダー、照屋林賢さんのお父さんです。
(※ワタブーとは腹=ワタの出たおデブちゃんのこと)

その独特の語り口で「琉球フェスティバル 75年夏。戦争ものがたりのはじまりでございます」とステージははじまる。1975年は、沖縄が本土に復帰して3年あまり。終戦30周年という年であるとともに、8月15日、つまり日本の敗戦の日に合わせて、ライブ録音のvol.1のタイトルにあるように、戦場の哀れ、戦争の悲惨をテーマに選択したんでしょう。

――1曲目は「ひめゆり部隊の歌」。林助先生がご紹介されているように、沖縄戦では島尻、つまり本島の南部が激戦地となりました。その悲劇の象徴が「ひめゆり部隊」です。歌うのは、現在もキュートな魅力にあふれる饒辺愛子よへんあいこさんと……

藤田 嘉手苅林昌さん(1920-1999)です。カディカルさんは、竹中労さんによって「島唄の神様」と称された人物です。

――VOL1. には嘉手苅さんの代表曲のひとつ廃藩の武士はいばんぬさむれーも収録されています。

藤田 嘉手苅、という苗字からも推察されるんだけど、嘉手苅家はもともとは士族でした。「廃藩の武士」は、林昌さんの母、ウシさんが歌詞をつくったともいわれています。

明治時代、1871年の廃藩置県によって、琉球は王国から明治政府によって琉球藩とされ、1875年のいわゆる「琉球処分」によって、沖縄県となりました。このとき、政府によって中国との国交を断ち切ることなども命じられています。

他県と同じように沖縄の士族もほとんどが失業しました。歌では職を失った士族の姿を活写しています。

唐や平組とーやひらぐん 大和断髪やまとーだんぱち 我した沖縄わしたうちなー 片結かたかしら

唐や平組……という歌詞は中国、日本、沖縄、それぞれの国の典型的な髪型を表しています。琉球王国から沖縄県となって、髪型は大和風のザンギリ頭になり、言葉も標準語(ヤマトグチ)が強制されました。

沖縄はその後、太平洋戦争を経てアメリカに統治される時代を迎えます。嘉手苅さんは、1956年に作詞した名曲「時代の流れ」で、くるくると変わる統治によって翻弄される沖縄のさまを「唐のから大和の世 大和の世からアメリカ世 ひるまさ変わたる 沖縄うちなーと表現した。こちらも合わせて聞いてみて欲しいですね。

――日本コロムビアが、Youtubeに本作のダイジェスト(下)をアップしていて、その中に当日のステージの写真がいくつもあり、実際の様子がわかります。それにしても、登川誠仁さんが若い!

藤田 登川誠仁先生(1932-2013)は、このとき42歳。若いころから名手だった先生が〈大御所〉といわれる前の歌三線うたさんしんが聞けるステージです。

――いやぁ、この舞台でのどなたの三線もそうなんですが、私が弾くのとは、音がまるきり違う! あまりの違いにガクゼンとします……

藤田 その御発言、いい度胸してるねぇ(笑)。 で、VOL.1に収録されている誠小せいぐゎー(登川さんの愛称)先生の曲が、「戦後の嘆き」と「戦後の数え歌」です。

「戦後の嘆き」は、先生が1958年に完成させた代表曲で、太平洋戦争での沖縄の若い元兵士の実話をもとにしています。ヤマト(本土)から沖縄へ戻ってきたら、戦場となった島は変わり果て、親も兄弟もだれもいなくなってしまった。ラストは「誰も恨みはしない。ただ、戦争を始めた者だけを私は恨む」と。

一方、「戦後の数え歌」はアメリカ統治下の沖縄の生活を、ひとつ…、ふたつ…と挙げていく。

――この2曲のあいだには、「三毛猫~隣り組~PW哀りなむん」「屋嘉節やかぶしがあって、林助さんが詳しく説明されていますけど、「屋嘉節」が沖縄の戦後最初の歌ともいわれているんですよね。
※PWはPrisoner of War (捕虜)の略

藤田 屋嘉というのは、本島中部、現在の金武町きんちょうの、沖縄最大規模の捕虜収容所があった地区名です。「屋嘉節」は捕虜たちの屈辱とやるせなさを、空き缶とそこらへんの棒でつくった代用三線、カンカラ三線でうたった敗戦哀歌。先ほどのYouTube で見ると、この曲を当日うたった知名定男さん(1945-/定繁氏は父)はちゃんとカンカラ三線を手にしてる。

沖縄の島唄の素晴らしさのひとつは、今回紹介した歴史的名盤で聞ける先輩たちの名唱の数々が、今も後輩たちに受け継がれていることです。ある程度、歌三線ができる人だったら、この音源の中のひとつやふたつは歌えるからね、今でも。

実は、歴史的にみると、竹中労さんがやった「琉フェス」およびそれをきっかけとした膨大な録音、文章による周知がなければ、現在の「沖縄には島唄がある!」という一種の文化運動って、はてさてどうなったことやら? とも言える。8月15日の「敗戦記念日」に「日比谷野音」で録音されたライブは、そういう意味でも画期となるものだったんですよ。

1975年8月15日熱狂の日比谷野音VOL.2 望郷~ふるさとを思う~ 

登川誠仁さんについてはコチラも。



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