短編「彼女はいつも薄っすら煙草の匂いがする」
「これで何度目よ、約束は守ってもらいますからね」
月子さんは日々の煩雑な疲れが祟ってか、らしからぬ剣幕で怒って私を萎縮させました。
「前もたばこはお辞めになったとおっしゃったじゃありませんか。それが何ですかこの部屋に立ちこめる燻べりは」
「違うんだよ、お月さん。これはアイコスといって体に害がないどころか匂いも柔らかいしとてもいいんだ」
「問答無用です」
お月さんはそう吐き捨てると自慢の秀眉をへの字に曲げて、嫌悪を抜かり無く部屋に残し、去っていきました。
煙草は吸わないと言ったがアイコスは吸わないとは一度も言っていない、などと愚な屁理屈を抱いては月子さんに申し訳のないことをしたなと、私は部屋中に蔓延した紫煙に犯され、慚愧の煙に咳き込みました。
月子さんは元来、胸が弱く喘息持ちなのです。出会いは鶴ヶ城本丸で私が一服している時でした。
目の前には五層からなる立派な天守閣が己の我を貫き通していました。その横に、日差し避け用に大きな緑の葉で覆われた庇を纏ったベンチが観光客用に設えられてありました。豊富な葉がそよ風に揺らめき、地面は光と陰とのコントラストで賑わっていました。
そのベンチに着物を着た白皙な女性が、具合の悪そうに横になっていました。彼女の体もまた地面と同じく、光が白黒の模様のように体をゆらゆらとたなびいていました。
私はつけたばかりの煙草を手にしたまま「大丈夫ですか」と声をかけました。
女性はうっすら顔を上げると「少し日を浴びすぎました」と細々に言うのでした。
彼女の視線が私の手元にあることに気付き、私は慌てて「すいません」と煙草をケースで揉み消しました。
合縁奇縁とでも言いましょうか、それから私たちは仲睦まじくなりました。煙草をやめることを条件に。
「お月さん、お月さん。僕は本当に浮薄な男だよ。でもこれを機に心入れ替えるから許しておくれよ」
部屋から出て行ってしまった月子さんに私は自分でも呆れてしまうほど懇願しました。
「お月さん。すいません」
「すいません、すいません」
すると奥の部屋から月子さんの声が小さく漏れ聞こえてきました。
「あなたのすいませんはいつも謝るだけなの」
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