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医聖・野口英世博士の劣等感       (野口英世記念館見学記 その6)

貧に生まれ乏に育った英世は、頭脳明晰だったが不具故に差別され隠忍のうちに成人した。しかし幸運にも隠忍の実情が分り、社会の同情を引き激励を得たのだ。更に嵩ずると英世の望みは高くなり、研究費用の援助を求める口実になった。果ては「優秀な自分に資金提供するのは当然である」とまで考えるようになり、援助を強要するようになった。この心は「他人の物はオレのもの、貰った物もオレのもの」となり借金しても返済する観念が皆無の〝強面〟の顔が出てきた。劣等意識を吹き消すと強気は俄然優等・優越意識に変るもののようである。
当時、社会福祉制度はなく障害者や病人、老人など生活困窮者が生きるのに困難な時代であった。英世は左腕一部は欠けたに等しかったがそれ以外の肉体は強健で、障害を補って十分過ぎる体力と明晰な頭脳を持っていた。加えて努力を惜しまない積極的で勝気の性格は何より強い味方であった。渡米後の活躍は「人間ダイナモ」と異称され、同僚が舌を巻くほどの馬力で研究活動に入っていた。
折から勃発した日清戦役で勝ち、続いて起きた大国ロシアとの戦にも大勝利を収め世界に躍り出た強国〝大日本帝国〟である。世間で立身出世が一段ともて囃され、英世は世に先駆けてその波へ乗った。最早、英世の劣等感は雲散霧消し元気横溢していた。既にこの時英世は米国にあり、ロックフェラー医学研究所の一等助手となり意気軒昂であった。英世は明晰な頭脳を働かせ恩義のある人達の好意に甘え、魔物を続け恬として恥じなかった。
前述のように英世は自分の不具を逆手にとった。「この野口は貧さゆえ、不具ゆえに蔑視され侮辱され〝忍耐〟一筋の生活を余儀なくされた。その埋め合わせに支援するのは当然であろう。返済せよなどとはおこがましい」と自己中心的な考えに固まっていた。この考えからであろう、借金の弁済は忘れていた。この他一方的な婚約破棄もある。これが野口英世の裏ストーリであり、〝医聖・野口英世博士偉人伝〟には載っていないのだ。
記念館で再び生家の庭に下り石碑を見た。やや西に傾いた陽の光で石碑の文字はよく読めた。太い筆文字で「忍耐」とあり年月と署名がある。英文で「正直は最良の策」とあり、フランス語は「忍耐は苦しされどその果実は甘し」と英世の忍耐を称えている。
英世は右手一本で書をよくし、また絵画にも腕を振るった。多忙にかかわらず毛筆の長文の手紙も残しているが、書も手紙も異国で感じる孤独を慰めるに役立ったであろう。書は依頼されると喜んで応じたが、太筆で「忍耐」を扁額に揮毫することが多かったという。通常「刻苦勉励」とか「研鑽努力」或いは単に「努力」などの文字を選ぶものと聞くが、英世は「忍耐」を好んで書いたようだ。
庭の石碑も「忍耐」であり、フランス語にも忍耐云々とある。忍耐とは辛さ、苦しさなどを我慢することだが、英世の研究活動も恐らく忍耐の日々だったことと推察する。しかし、私は幼少年期に「てんぼう」と侮蔑された言葉が英世の心に深く突き刺さり、「辛抱・我慢」が全身に浸み込んでいたためではないかと密かに思う。また自らの不注意で吾が子を不具にした母シカも、「おっかさんが悪かった。済まない、ご免よ。辛抱して、な、我慢だよ」と励まし、同時に〝自戒の言葉〟として「済まなかった」が生涯心に重く沈んでいたことであろう。子を思う母の心は遠く離れた英世の心に伝わっていた筈である。

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