医聖・野口英世博士の劣等感       (野口英世記念館見学記 その7)

野口英世の発表業績は多いが、その後の追試や新たな研究で論文に誤りがあり、それに基づくワクチンなどの予防薬には効果がないと指摘され次々に否定された。ほんの僅かな研究成果だけがドクター野口の手になるものという眼を覆うばかりの凋落ぶりである。自然科学の分野では、真実以外は総て淘汰される厳しくも無常の世界である。
日本の医聖と称賛され「日本人初のノーベル賞受賞候補者か」と喧伝された野口英世も、今日では日本の医学会からほとんど忘れ去られ、僅かに野口英世記念医学賞としていくつか名を残すだけのようだ。時に利あらず、の言葉通り野口英世は時の運に恵まれなかった。
左手指不具のため臨床医家を諦め病原微生物の研究に舵を切った英世だが、この時すでに日本の研究分野は〝ガレ場〟であった。北里柴三郎、志賀潔、高峰譲吉、秦佐八郎、山極勝三郎など錚々たる医学者らによって細菌学の分野は渉猟し尽くされ、病原微生物の検索はほぼ終りを告げていたのだ。世界の眼は新たな濾過性病原微生物と呼ばれる〝ウイルス〟検索に向けられていた。英世が必死に追い求めた黄熱病も病原体はこのウイルスであり、光学顕微鏡での検索は全く不可能であった。英世の不眠不休の努力も空しく徒労に帰していたのである。
アフリカの地で殉職した英世の最期の言葉は「私には分らない」と低く悲痛であったという。百万倍~数百万倍の倍率を持つ電子顕微鏡を使い初めて〝画像〟として確認できるウイルスが、マックス千五百倍の光学顕微鏡で見える筈がなかった。武器なしで敵と対峙していたと同じではないかと英世が気の毒になる。詮ないことだが、一日本人の心情として、せめて英世に電子顕微鏡があったらと思う。濾過性病原微生物の検索で回天の雄図を為し得たことだろうと次の一言を捧げたい。
「不眠不休の研究姿勢に『ノグチは何時眠るのだ』とスタッフから驚嘆され『人間ダイナモ』とも異称された野口英世博士です。ウイルス性疾患の発見や予防・治療に驚くべき業績を上げ、後世の全人類のため大いに貢献した筈です」と。もっとも電子顕微鏡があったとしても、必要な電源があり、標本作成のための高度の設備、技術など充足できたとしての話であるが…。
昭和三年五月二十一日自らの研究に基づいて作成し、自信を以ってわが身に接種したワクチンであったが効果なく、敵である黄熱病に仆れた。享年五十一。まだ若かった。ここで初めて劣等感から解き放たれ安住の地を得た野口英世であった。日本政府はその死を悼み、異例の〝勲二等旭日重光章と勲記〟を贈った。
逝去して今年で七十五年が経つ。野口英世の生誕百二十有余年、過ぎれば毀誉褒貶交々の歳月であり、暗く縹緲とした天空に残した一瞬の光芒に似て、すべて夢・幻となり儚く消えて行った。今は恩讐を超え、感謝の印か故国日本人の懐に、小さくも暖かな肖像画と
して幸せを与えつつ、静かに住いされている。
                                  終

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