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医聖・野口英世博士の劣等感       (野口英世記念館見学記 その5)

独り居を好む者は孤独に陥りやすいと聞く。胸襟を開き思いを吐露する機会が持てないからだ。こんな時、逆に「私の左手はこうなんだ」と明るく開き直った方がポジティブで劣等感から開放されて楽になって気分がよく、勇気も湧き出たと思うのだが…。気軽にいうが何も知らない他人の無責任な〝たわごと〟に過ぎないだろうか。
こんな時、ふと、藤村の〝破戒〟で詠んだ猪子蓮太郎が頭に浮かんだ。遺言となった父の「素性を隠せ」の戒めを破るか否かに懊悩する主人公の丑松の優柔不断さに比べ、天下に堂々と己の身分を曝し豁然として止まない先輩、猪子蓮太郎である。猪子のように振舞った時、仮に持っていたかも知れない劣等感など悲惨・消滅し、心明るく男らしくしかも正直で、己が救われ心豊かでどんなにか痛快であっただろうか…と。
既述したように人間には誰もが劣等意識を持ち、ネガティブに傾いたりポジティブに振れたりと流動的である。ネガティブに傾くと劣等感に変り自己嫌悪に陥り、マイナスに思考が多く性格が萎縮する。しかしポジティブに戻ることがあり、逆に反発し性格を高揚させるプラス作用に変化する。人間が持つ弱気と強気の違いであろう。
英世の劣等意識はネガティブ傾向であり劣等感が体に浸み込み終生抜けなかったが、生来これを跳ね返す強気つまりポジティブの気性があった。母親に似たのだという。その強気をバネに積極的な医学研究に邁進し多くの業績を上げた人であった。
研究に邁進している時、劣等感は消え平等感から優越感に飛躍し、身を賭して人類のための立派な業績を挙げることができた。これが貧困・蔑視・虐めなどで身についた劣等感に打ち勝ち〝医聖〟とまで賞揚され、野口英世伝として人口に膾炙する野口英世の偉人伝である。しかし、この偉人伝はいわば英世の出世街道を驀進した表の顔であった。
強気の性格は時には大脱線し暗い裏の顔を覗かせたが、偉人伝は表の顔のオンパレードであり裏の暗い事実には触れていない。劣等感と共存する勝気により英世には詮索されては困る裏の〝魔物〟という顔があった。その一に挙げられるのが〝借金魔〟である。
立身出世を夢見て恥も外聞もなく他人を頼ったという英世は、優秀な頭脳を働かせ、出郷から東京へ向かうにもまたその後渡米してからも、知人、友人、先輩、恩師など頼れる人を〝あて〟にし、厚顔にも借金を重ねしかも浪費した。ある時は英世の要望を断り切れなかった知人が、英世のためを思い大事な田畑を抵当にして調達した大金を、何とその夜のうちに紅灯の街で飲み・喰い・買って放蕩し尽くした。鬱積したストレスの解消だったかも知れないが、〝性格破綻者〟と非難されてしまったのである。当然であろう。しかも借り受けた大金を返済しない〝不義理魔〟でもあった。後年「世界のノグチ」と名声を上げた英世は世をあげて〝国の誇り〟と称賛の嵐の中で一旦帰国している。帰国した英世は日本における科学者への最高の名誉である帝国学士院会員に列せられたのである。帰米に際しては帝国学士院恩師賞を授与され燦然と輝いていた。
この凱旋帰国で待っていたのは名声ばかりでなく、不信を募らせ怒りに満ちた故郷の人、知人達で、貸し金の返済を迫.る怒声の渦であった。しかしその怒声は称賛と名声の嵐にかき消された。英世も怨嗟の念、怒りの声に耳を貸さず弁済しなかったという。金の貸し主は英世の変節ぶりに不信をあらわにし、更に罵声を浴びせた。恩義のある人達の財産を食いつぶし好意を無にする確かに〝魔物〟の面が英世にはあった。

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