クラゲ (ショートショート1750文字)
蛇口をひねる。手洗い用の石鹸のボトルが空になっている。だからどうという事もない。たまに、いや、けっこう頻繁にある事なのだ。既にこの手の事には麻痺していて、康介はそれについて考える事も思う事もない。ふん、と思って正面の鏡を見る。鏡は裏側から腐食していて全体に霧がかかったように白っぽくなり、等高線の描かれた地図のようにまだらになってもいる。ふん。
事務所に入るなり支社長の広田に声をかけられた。前任が本社に戻った代わりにどこかの部署で部長だった広田が来たのだった。
「田村さん、少しお話がありますが、今大丈夫ですか? お時間は取らせません。」
広田は康介より年下のせいか、康介に対してだけは他の者に話すより多少丁寧な言葉遣いをする。
「はい、かまいませんよ。」
今の康介には急を要する仕事など何もない。だから後にしてくれと言うべき理由は無かった。広田と康介は社外の者が来社した時に使う面談室に入った。丸テーブルと椅子が3つだけの狭い、ガラスのドアで仕切られた部屋だ。
広田が言った。
「田村さん、田村さんは今年で60歳になりますね、間違いありませんか?」
そんな分かり切っている事をわざわざ聞くところから話を始める意図は、康介には容易に想像がついた。
「では、田村さん、会社は田村さんとの契約をこの上半期で打ち切らせてもらおうと考えています。いかがでしょうか?」
いかがと聞いているようだが、それは単に雇用の契約を打ち切るという宣言に過ぎないのだった。
「はい、私の方も、その頃にちょうど60を迎えますから、こちらから契約を更新しないと言おうと思っていたところでした。」
康介は自らもこの会社を辞めるつもりで心を決めてはいたが、会社の方から先に言われてしまった事で心の中に小さな波立ちを感じた。
広田は康介の言葉に安心したのか背中の緊張を解いたようだった。そして次からの言葉には最初の言葉にあった丁寧さが減じていた。
「ところで、今、田村さんはどんな仕事をしているんですか? いやね、前任の鈴鹿さんから聞いてなかったんで、ちょっと教えて欲しいんですよ。」
康介は、鈴鹿が康介の仕事について少しでも何かを知っているとは考えていなかったから、もちろん聞いてはいないだろうと言いたかったが思い止まった。その代わりに、自らの課題と考えてやっているプロジェクトについて簡単に説明した。
「わかりました。それでは、残務としては無いと考えて良いようですね。わかりました。今日のところはこれで十分です。」
そう結論付けてさっさと終わりにしてしまった。康介はそんな事も予想の範囲内だと思った。鈴鹿が面倒な仕事を自分でするのを避けて後輩の広田に任せただけだなのだ。
前任の鈴鹿は5年間ここで支社長を務めた。この5年間が過ぎればその後は本社に戻って取締役に昇進する事が決まっていた。その事は社内の誰もが知っていたが、支社長として社を上手い方へ導いてからの昇進となるはずのところ、大きな問題を起こさないように静かに5年間をやり過ごして帰って行ったのだった。
その5年の間、鈴鹿は部下に何の指示も出さず、自らに与えられた個室にこもって本社からの電話やメールを受けるか、決算書を眺めていた。康介から見て、その5年の間に起きた変化は大きなものだった。誰もが最低限のライン上の仕事、つまり業務を回すだけの仕事しかしなくなり、提案活動のようなものすら無くなった。もともとライン上の仕事に就いておらず、自ら課題を抽出して解決策を探す仕事をしていた康介はさながら、無関心の大海に浮かぶクラゲのような状態となっていった。
有体に言えば、康介は社内の誰から見ても何をやっているかわからない人間と看做されるようになったのだった。
帰宅してから、康介は契約を更新しないと言われた事を妻の好美に話した。好美はにこやかに言った。
「そうなの。会社から言ってくれたのは良かったじゃない。誰かがこう言ったから仕方なくこうしたってなる方がいつでも楽なものよ。」
康介は好美のこうした楽天的な物言いにいつも救われる。そうなのだ、会社みたいなところに所属して楽に給料をもらうような生き方は、必要とされているうちは気付かないにしても、所詮自ら推進力を発揮せずに浮かんでいるクラゲのようなものでしかないのだから。
あとがき
普通は仕事について話すとしたら、ポジティブな事を主に書くものだと思います。ですが、作用の反対側には必ず反作用があるものです。知っていた方が良い現実は多くあります。
世の中の景気が悪くなったり、不安定で先が読み難い時代である場合には多くの人は安定した仕事を求めます。では、その安定は何によって実現されるものなのでしょうか? その安定の裏にはどんな不都合、不合理や理不尽があるのでしょうか?
そんな事は何十年間も、つまりは景気は良かろうと世の中が安定していようとそんな事には無関係にわかっていた事ではないでしょうか? 目を瞑ってはいけません。
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