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バタイユに興味を持った理由

 最近、ジョルジュ・バタイユの事ばかり書いていますが、それに関して謎興味を持ったかという質問を受けました。質問されてみて、振り返ってみますとそれをまとめて一つのところに書いてはいなかったと気付きました。ですから、ここでちょっとだけですがまとめて書いておきます。もし、バタイユにご興味を持たれた場合はAmazonで電子書籍を検索してみてください。安く読める作品がありますから。

(ここに書く内容は質問に答えたものを再編集したものです。)

バタイユに興味を持ったきっかけは、プロの小説家さんのエロの表現方法を調べていた時にバタイユが紹介された記事がありました。「眼球譚」(または「目玉の話」)という小説作品の冒頭に「ミルク皿にお尻を乗せる」という場面が出てきます。場面としてはとても印象に残るものでした。その発想がどこから来ているのかが知りたかった事がきっかけです。

 エロの表現は他の作家さんの文章にも多くあり印象的ではありますが、何か一部分に執着して書かれていたり、性描写部分がその他の目的のために導入されているものが多いのです。けれどもバタイユの書き方はただのエッチな描写で終わっています。全くそれ以外の何者でもないただのエッチな場面ばかりが続いてそれだけで最後まで行きます。しかも、それはアダルト作品ではない文学作品に認定されてもいます。全く意味不明なのです。

 さらに調べていくとバタイユはそれをわざわざ目指して書いているとわかります。それとは、エロです。だからそれ以外に何も無いのです。冒頭からエンディングまでエッチしまくりです。それがなぜか目的になっている文学とは? そうしている理由が一度読んだだけでは分からないのです。

 そして後からわかるのは、こういう事でした。「人間の内側から火山噴火のように出てくる衝動は、他の人間の活動と違って何の目的もなく行われて、合目的的な一般に言われる「人間的(動物はしない)」で高度な活動とは完全に切り離されている」と言うのです。バタイユは、目的のための活動(企て)より、そちらの方が本当に人間らしい活動だと、異議を申し立てていたのです。

 時代にもよりますが、私達のこの時代でも、「生産的」に生きる事が良いと言われます。例えば資本主義ですが、全て何かのために、特にお金を社会のどこかからどこかに移動させる為に、もしくは特定の誰かのところにお金を集めるために行われています。そして私達はそんな事のために1日の良い時間のほとんどを自分の為でない何かの為に費やし、一生のかなり多くの時間を疑い無くそのためだけに使ってしまい、そしてある時、あなたはもう要らないよと放り出されます。それでもまだ私達は良い方です。資本主義の原理を適用した場合、原料供給するところにいる人たちはもっと不利です。原料は自分達のものなのにその値段を決めるのは買う側です。だから搾取か、搾取にごく近い状態になるのです。彼らは自分自身を決して豊かにはできません。より多くの労働とより低い賃金が保証されるだけです。
 これはバタイユの主張とは少し離れますが、要は我々は企ての中に組み込まれて生きるのです。それは他の動物にはできない活動ではありますが、人間らしい生き方とは何なのかを考えさせられます。ここまで来て初めて私達は考えます。バタイユの思考と私達の今の生き方ではどちらが人間らしいでしょうか?

 エロティシズム小説を書いて20世紀の最も重要な作家と言われ、哲学や思想や政治の分野でも名が挙がるバタイユ、只者ではないという当たり前の結論しか言えませんが、どう思われますか?


タイトル画: 昨日、天気が良かったので猫を風呂に入れました。


追加

内的体験のブランショ革命 --ジョルジュ・バタイユによる「無神学」の出発点についての考察-- 岩野卓司

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/7106/1/kyouyoronshu_432_1.pdf


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