「奴隷ラムシル」連載化構想 その14 自由の前提条件
奴隷という言葉から、その逆の自由という言葉が導き出されます。ですが、奴隷→自由という時、その自由=解放の意味になるのではないでしょうか? 解放であれば事は簡単です。(実際には簡単と言えないですが、概念としては簡単です) それが「人間は自由な存在だ」のように言う場合の自由まで行くとちょっと複雑です。
人間が自由な存在だとして、そこに制約が無いとして、では「あなたは何をしますか?」と言われた時に何と答えますか? これ、簡単なようで難しいです。ちゃんと本音で答えなくてはなりません。今、あなたは仕事をする必要はありません。扶養家族はいません。必要な物は既に全部揃っています。誰に何かを言われる事はありません。要は、大人のままお金持ちの家の小学生になったようなものです。さあ、どうします? 言うだけではダメです。夢を語るのはダメです。本気でやる事を言ってみてください。
難しいですね。その難しさ、多くの人が経験できます。それは、あなたが高齢者になった時かもしれません。(前にもちょっと書いたかもしれませんが、) 友人が自分と同業者で引退した人たちに毎日どう過ごしているか聞きました。答えはだいたい同じで、ご飯食べて散歩してテレビ・・・です。つまり、仕事が無くなった後、誰かに呼ばれて出る事が無ければする事が無いのです。これ、けっこう多いです。高齢者にならなくともこうした事はあります。私が以前、ある南の島で過ごしていた時、いろいろな人が家にやって来ました。彼らにはやる事が無いのです。何をして良いかわからないのです。積極的に何もしないって事もできないので何かを探し回ります。でも、結局何も無いのです。
というわけで、自由であるという状態と、自由に生きるという事は違うものだとわかります。自由である状態は単に解放されているだけです。自由に生きるにはそれなりの意志が必要です。意志は積極的でないと無いものですから、難しいです。
ここからちょっと小説の事。
奴隷になった主人公は、奴隷から解放されたいのですが、困難があり、そして止められた事で奴隷のままでいます。それが、ある時点で解放となるのですが、そのタイミングをどうしようかと著者の私は考えます。オリジナル版ではその点はちょっと弱かったと考えています。というのは、「奴隷になるのはもともと奴隷の魂を持っているから」というセリフに焦点を当てていて、主人公が自分は違う認識できた時としていたのです。ですが、その認識の裏付けをもう少し濃くしたいと考えています。そんな事、深く考えて読みたい人はいないよ、と言われればそれもそうなのですが、ちょっと追求してみたいわけです。解放の自由の次の段階の自由を主人公が思う時に初めて・・・。
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