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復帰しました、書きます

 3ヶ月間のブランクを経て、昨日からやっと書き始めました。途中停止していた「奴隷 ラムシル 連載版」から書いています。

 3ヶ月も書かないでいますと前にどう書いていたかを見事に忘れますが、頭から読み返しますとダメな部分が目につきますのでそれも良いかなと感じます。ダメを別のダメで上塗りするだけにならないように注意して書いていこうと思います。

 以前やっていたように書きながらその過程がわかるようにこのnoteに情報を出していきますので、どうかよろしくお願いいたします。


 ところで、ブランク期間に一つ考える事がありました。そのきっかけはアメデオ・モディリアーニの作品です。

 モディリアーニの作品は中学校の美術の教科書で見たのが最初だったと思います。絵画と彫刻があり、肖像が主で裸婦もあります。逆に静物や風景はほとんど無いようです。

 さて、そうした作品を見ていて何を考えたかと言いますと、「何の為に?」という点についてです。絵を描く時に対象物(人や物など)を見ます。普段絵を描く事の無い私などが描こうとする時、できるだけ見たものの形状や色に忠実に描こうと考えます。不幸にしてそれはほとんど成功しません。その不成功には常に、そして最初から言い訳が用意されています。自分にはそのスキルは無い。絵の具やペンの色はそもそも対象の色とは違っている。いろいろあります。

 そこでモディリアーニの作品を見ます。いや、もともと忠実にしようなどと考えてはいないよね。もし誰かに肖像画を頼まれて描く事になったら、出来上がった作品を見て依頼人は何と言うだろうか? モディリアーニは依頼人から報酬を受け取れるだろうか?

 うーん

 それじゃ、忠実を捨てて対象を見た印象に重点を置いて描いているのかな? どうもそうでもないらしい。だって、どの肖像画の人物も顔が長く、首も長く描かれている。特徴を捉えて描くとしたらモデルの全員がそう描かれるはずはないのだから。

 すると、描くのは作家自身の自己主張なの? それだけなの? だとしたらモデルになった人の立場はどうなるの? モデルさんの個性の部分は二の次か、吹っ飛んでしまって、作家の意思や思考、嗜好が優先されるという事?

 うーん

 梶井基次郎という小説家がいて、桜の木の根本にはそれぞれ死体が埋まっていると言う。それでどうしたかというと、その事に思い至った事で自分の精神が安定するという。

 おい! それって何なのだい?! 君の精神が安定するって、そんな個人的な事のために桜一本一本の根本に死体が埋まっている事になるってのかい? それじゃ赤だったり白だったりする梅の木の根本には何を埋めておかなきゃいけないのだ? 紫色に咲く紫陽花の根本には何を?

 残念ながら、答えは無いのです。モディリアーニがあんな風に描いたのも梶井基次郎が桜の根本に死体を埋めたのも個々の作品にはそれなりの理由があると思うのですが、全体として見た時にそこには理由がありません。言える事は、たぶんそれらの表現は観察対象の為でなく、表現を受け取る我々の為でも無く、作家自身の自由以外に何者でもないのではないでしょうか?

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