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特急・古代への旅  5

日本の古代は謎に満ちている。
私たちの日本の成り立ちと始まりはどのようなものだったのか。
その謎を解き明かす旅へ出発する。
東京駅9番線21時50分発、最後の寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」で、
私たちはまず出雲へ向かった。
その第5話である。

その5

出雲の深部へ

八重垣神社
大庭の八重垣神社はスサノオノミコトの妻、稲田姫を祀る神社である。
いつも良縁を求める若い女性たちで華やかににぎわっている。
「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくる其の八重垣を」の歌物語のとおり、稲田姫はここで八重垣に籠もってヤマタノオロチから逃れ、恩人スサノオと結ばれたとされる。
純愛ロマンの舞台なのである。
社の裏にある鏡の池では、女性たちが占いの紙に硬貨を載せ、沈む早さで恋の成就を占っている。
奥の佐久佐久の森は、スサノオが稲田姫をかくまったとされる所だ。
そんな若い女性たちの、明るい笑顔にあふれた神社である。
八重垣神社宝物殿にあるスサノオと稲田姫の二人の肖像画は、実に優しい。
ぜひ一見されることをお薦めしたい。
 
門脇禎二氏は「出雲の古代史」に、「山脈みの間にこもる静寂さと須佐大宮の安定した品格をつつむ須佐の地にたてば、記紀神話のスサノオ神の神格や意味づけに、一種の怒りさえわいてくる」と書いている。
出雲では、門脇氏が書いた通りの感覚に襲われる。
 
 
神魂神社
おすすめの神社である。 

素朴な生木の肌が荘厳な、豪壮で神さびた古社である。千木が天を衝く大社造りだ。
大庭の出雲風土記の丘博物館の近くに、静かに鎮座している。
石段を上がると、目の前に迫力をもって現れる。ひんやりとした空気に包まれている。
大社でありながら、なぜか延喜式には記載がない。
国造家の館が近くにあり、元来は出雲国造家、つまり意宇の王が熊野大社を拝む「拝斎所」であったらしい。
意宇の王が熊野神を祀ってきた熊野大社は、ここから意宇川をさかのぼった熊野山中にある。雪深い熊野大社に出向けない意宇の国造らが、熊野を望んで拝んだ所のようだ。
 
大社造りには男造りと、女造りがある。出雲大社は男造り、神魂神社は女造りである。
女造りは、千木が鋭いX字を描き、天を衝く。本殿の中も男造りとは逆で、入って90度左へ曲がれば主祭神に向き合うことができる。左・右・右と廻らなければたどり着けない出雲大社とは正反対だ。
それはいったい、何を意味しているのであろうか。
出雲国造は、ここから出雲西部の杵築に大宮を作って移っていった。
それが杵築大社、つまり出雲大社である。
 
出雲大社では毎年、「亀太夫神事」という神事が行われている。それは、熊野大社の神人が出雲大社の神人を手痛く追及するという珍しい神事である。
毎年十一月に行われる出雲大社で最も重要な神事、「古式新嘗祭」のなかで行われる。
社記によれば古式新嘗祭は、国造(宮司)がその年にとれた新穀を供えて食べ、霊気のよみがえりを果たして五穀豊穣を祈る神事である。
出雲大社の宮司らはすべての神事に際し、火燧(ひきり)臼と火燧杵を使って起こした火で作った神饌を食べ、身を潔斎する。
そして古式新嘗祭に用いる火燧臼・杵は、毎年新しいものを熊野大社から受けることが、古来からのしきたりとなっている。
その火燧臼・杵を受け取りるため、出雲大社の神人は神魂神社に隣接する国造館に向かう。
その時、新穀で作った餅を持参する。その餅の出来栄えを、熊野大社の亀太夫という社人が口うるさく品定めするのだ。
意宇王の末裔、出雲大社の神主・出雲国造第八十二代の千家尊統氏は、前出の著書「出雲大社」に「大社の社人は、毎年この亀太夫の難語悪態には苦しむ」と書く。
 
筆者は、「いい旅夢気分」のディレクターをしていた時に、「金沢・能登 急行列車の旅」という企画で能登を撮影した。その折、出水近くの小さな菅原神社で「いどり祭り」という神事を取材したことがある。この祭りも、陪賓が当番の地区が作った餅の出来栄えにさんざん文句をつけるという、亀太夫神事と似た神事であった。
村人が拝殿を取り込み、ユーモラスなやりとりに笑いころげる、興趣豊かな楽しい神事でもあった。
 
おそらく、何事かの歴史的事件があり、それが神事の形で連綿と受け継がれてきたものであろう。
出雲国造が意宇の地を離れ、杵築へ移って行ったことと関連がありそうな神事である。
 
ちなみに出雲大社では、国造を「こくそう」という。
筆者の考察では、神魂神社は本来の出雲神(熊野神)を遥拝し祭るので正しく鎮座するが、杵築大社(出雲大社)は出雲神を幽界に鎮めるための社なので、高天原の大和神たちが手前で構えている、と推測するが、
如何だろうか。

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