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渋沢栄一から学ぶ、コネクティングリーダーシップ

前回は渋沢栄一と岩崎弥太郎の思想の違いから見える、異なるリーダーシップスタイルについて探求をし、その中で、渋沢栄一は横のリーダーシップ、岩崎弥太郎は縦のリーダーシップを発揮していたと説明した。
彼が発揮した横のリーダーシップ、コネクティングリーダーシップは、数々の歴史的な事業家、社会や世論、ひいては世界とつながるようになる。その育まれ方と実績を詳しく見ていき、一緒に彼が生きた世界を味わってみたい。

これまでの連載で渋沢栄一の半生を追ってきたことで、彼の歩んだ道筋がコネクティングリーダーとして必要な5つの力を強めていったことに気がついた。
コネクティングリーダーとして必要な5つの力とは以下である。※1
1、 自分とつながる:自分の中にある思いや感情、自分自身の本来性につながる力。
2、 他者とつながる:他者を知り、理解し、つながる力。
3、 世界とつながる:自分がこれまで知らなかった新しい世界の扉を開け、違うものとつながる力。
4、 幸せ(社会)とつながる:社会の本質的価値を探求し、人々の幸せとつなげる力。
5、 未来とつながる:今ここにある、あらゆる可能性を感じ取り、未来とつながる力。

具体的に一つひとつを探求していこう。
まず、1つ目の自分とつながる力は栄一が平岡円四郎、徳川慶喜のもとで働いていた時期に高まっていき、立志を経て完結したものと思われる。平岡、慶喜に出会うまでの栄一は、義憤や憤怒に流されるままの行動が目立っていた。それが、平岡、慶喜のおかげもあり、幕臣時代に徐々に自分の考えを冷静に見られるようになっていった。自分を俯瞰的に見られるようになり、あらゆる自分の感情につながれるようになった。そうすることで、自分の本来性を発揮していくようになり、慶喜を初めとして、多くの人に認められる功績を上げていった。そして、30歳前半で『(実業界の人として)国家のために商工業の発達を図りたい』※2と立志をしたときに自分の思いとつながり、自分とつながる力が完結したと考えられる。

次に、2、3つ目の他者とつながる力、世界につながる力は、ヨーロッパ視察で高まったと考える。
彼らが視察に行った時代は、異国に対しての理解がほぼ皆無であった。そのような状況下なので、大半の幕臣は自国の文化を崩そうとせず、ヨーロッパの文化に理解を示そうとしなかった。したがって、異国人と文化の違いによるトラブルが尽きなかった。対して栄一は、他国の文化をよく見て理解しようとし、体験して取り入れるようにしていた。まさに、新しい世界の扉を開け、違うものとつながろうとしたのだ。
加えて、知らない土地にいることで、ストレスや不安感が高まり、幕臣同士の喧嘩も絶えなかった。栄一はこういった喧嘩の間を取り持ち、見事に仲裁していった。なぜ仲裁ができたかと言うと、両者の言い分を丁寧に聞き取り、整理し、和解のポイントを見出していたからだ。この時期に、他者を知り、理解し、つながる力も高まったと考えることができるだろう。

次に、4つ目の幸せ(社会)とつながる力は、母のえ(ゑ)いの影響が大きいと考える。明治初期の日本ではハンセン病が蔓延していた。ハンセン病といえば、正体不明の病として恐れられ、疾患者に対してはひどい差別があった。そんな中えいは感染者と非感染者を分け隔てることなく接していた。えいの態度を周囲は諌めていたが、彼女なりの信念があったのだろう、そういった助言に聞く耳を持たなかった。そんな慈悲深い母に育てられたので、人々の幸せを考えることは多かったのだろう。そして、論語など中国古典に精通していたため、「徳」を積む行為を続けた。その結果、30歳から関与を始めた社会公共事業は、最終的に約700にまで増えた。彼は生涯、幸せ(社会)とつながる力を高めて、実践していた。
このことは別途探求したい。

最後に、未来とつながる力について説明したい。栄一は合本主義を通して、日本の物資を豊かにし、教育を豊かにするなど、国家の発展を思い描いていた。特に、日本の商工業の地位向上、発展を目指していた。これについては、まだ探求をしていないので、本稿で詳しく深掘りしていく。

明治~大正期の日本で商工業人の地位は、政治家や教授などに比べると高くなかった。1900年に行った東京商工会議所でのスピーチが、それを物語っている。「渋沢栄一も、又本日御列席の皆様も商業会議所がまだ世の中から重要視されていないのだということを自ら反省しなければならないと思うのでございます。(中略)商工会議所が決議した事については、その決議に様々な注釈を加えなければ世の中では理解されないというのが実情である。つまりは、この決議に注釈を加えなければ世の中に通用しないというのは商業会議所が世の中に対して充分に信用を得ていないという証拠なのです」。※3
とあるように、世間では商工業に対する信用は低かった。実は、この世間の信用がなかったため、英国との不平等条約が改正できずにいたのだ。当然、国際的なビジネスでは日本が不利になることが多かった。日本とはなんとかして解消したい。英国としては、なんとか維持をしたい。そこで、英国が考えた言い分は
「改正は民意ではないので、改正が総意となれば、改正をする」というものであった。
栄一は日本が発展するために、なんとしても条約改正したいと考えていた。彼はビジネスパートナーと一緒に日本中のさまざまな事業、特にインフラ事業を発展させた。さらに、商工会会議所などの商工業人のつながりが生まれる場をつくり、連携が生まれるようにして、商工業の地位を向上しつつ、日本の発展を支えた。そのかいがあり、世間の信用は向上し、英国との不平等条約を改正することができた。

すると、栄一の商工業の発展の展望は次を考えるようになった。それは、教育の向上である。今では社会に出る前に勉強するのは当たり前、ビジネスパーソンとして勉強することが当たり前になっているが、当時は違った。その様子をよく表している、1905年の東京商工会議所のスピーチを見てみたい。
「私自身無学であるにもかかわらず、当時の商売や実業の教育とは・・・・大学でも実業的な教育はそれ相応にありましたが、ほとんどは教育の精神が我々の希望する水準ではなかったため、本来の教育をなんとかして広めたいと希望すると同時に、ほかの方法で実業者の地位を高めていくにはどうすればよいのかをずっと希望していました」。※3
付け加えると当時の日本では、
「商工業人になるのであれば、勉強は不要である。勉強をすると頭でっかちになり、役に立たなくなる」。
という考えが一般的であった。とにかく働き、身体で覚えるのが良いとされていたわけだ。
しかし、明治後期になると国家が発展するにつれ、勉強するビジネスパーソンが増えた。勉強の内容としては「知識の教育」が殆どだったようだ。簡単に言うと、お金の儲け方や増やし方、成功者や経営者になれる方法などの教育が大変増えたという。さて、現代の日本はどうだろうか……。この現象を栄一は知識教育偏重となっていて「心」の教育が減ったと憂慮し、心(道徳)と知識両方を学べる場をつくろうと奔走する。それでできたのが、現在の一橋大学である。
彼は、合本主義を通して、国家を発展させるため、あらゆる可能性を探求し、未来とつながり続けた。

本稿では、栄一がいかにコネクティングリーダーに必要な5つの力を高めていったのかを振り返り、特に未来とつながる力について詳しく探求をした。いずれも数奇な運命の重なりであると同時に、彼が行ってきた習慣、行動が力を高めた。私も渋沢栄一から学び、自分らしさを忘れずにつながる力を絶えず高めていきたいと思う。

本稿の締めくくりとして、先日感じたことをお伝えしたい。
8月末に綾瀬はるかさんがコロナウィルスに感染し、入院することが発表された。この発表がされるやいなや、驚くほどの中傷コメントが殺到した。ただ発表内容をよく読むと入院もやむなし、と感じた人も少なくないのではないだろうか。発表のタイミングがまずかったという声もあるが、「入院できて良かったね」と言える心のゆとりが持てる社会であってほしいなと思った。そして同時に、中傷コメントを出さずにはいられないほど、追い詰められている人も多いのだと思った。

私は常に
「他者を変えるお手伝いはできるが、他者は変えられない。ただ、自分を変えることはできる」
と考えている。
コネクティングリーダー5つの力は、心にゆとりが持てる力を高める効果もあると考える。人は目の前のこと、自分の利益のことばかりを考えていると、思考が狭くなり、心にゆとりが持てなくなる。自分の本来性とつながり、自分のことを客観的に見る。他者とつながり、理解を示す。世界とつながり、他国の状況を知り、思いを巡らす。幸せ(社会)とつながり、人々の幸せを願う。未来とつながり、より良い自分や社会を考える。より広い範囲、時間軸でものごとを考えることで、心にゆとりを持てるのではないだろうか。心にゆとりを持てる人が増えれば、より良く生きられる人が増えるのではないだろうか。

引用文献
※1:高橋克徳『みんなでつなぐリーダーシップ』実業之日本社、ジェイフィールHPを基に修正
※2:渋沢栄一、守屋淳『論語と算盤』ちくま新書
※3:東京商工会議所HP

参考図書:
城山三郎 『雄気堂々 上下』新潮文庫
渋沢栄一 『雨夜譚』岩波書店
木村昌人『渋沢栄一 民間経済外交の創始者』中公新書
河合 敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』 幻冬舎新書
島田昌和『渋沢栄一の企業者活動の研究』日本経済論社
島田昌和『社会起業家の先駆者』岩波新書

筆者:
株式会社ジェイフィール
和田 誠司


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