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「重症感」とは何か。

 私がまだ研修医だった頃、指導医のG先生と診療した忘れ難い症例があります。

 それは激烈な経過の侵襲性肺炎球菌感染症で、端的には超重症の肺炎でした。


 診察室に歩いてきたその人をみて、なんだか少しぼうっとしているような気がしたけれど、咳ひとつしない彼の持参した紹介状に「肺炎の疑い」と書いてあったのをみて、これが肺炎?と俄かには信じがたい光景でした。

 彼は直後にCT室で倒れ、そのまま緊急入院になりました。直ちに治療を開始しましたが、酸素投与が追いつかず、病室で挿管、人工呼吸管理が始まります。
 病勢は激烈で、その日のうちに亡くなりました。


 私は自分が患者さんの重症度を見極められず、診察室に入ってきたときの違和感こそあったけれど、重症感というものが分からなかったと、先生に打ち明けました。私は医者として強い恐怖心を抱いたのだと思います。

「それが重症感だよ」

と、G先生は言いました。


 パンデミック以降、「軽症」とか「中等症」とか「重症」という言葉を、一般にも見かけることが多くなりました。しかしながら、一般的なイメージとは大きく異なることに注意が必要です。疾患毎あるいは病態毎に重症度を半定量的に評価するスコアリングシステムは数多くありますが、熟練医師の瞬間的な病状評価が勝ることも多いのが現実です。たとえ自分の身体のことであっても、重症度を適切に評価することは難しいもので、人によって病状を過大に深刻に捉えてしまう場合と、過小に見積もる場合とがあります。

 医療の逼迫が報道されると、軽症者は自宅で、とか、無駄な受診を控えるように…などと意味不明な「お願い」が続発する光景を目にしますが、国民の健康と安全を守るべき国家の舵取りとして、現場に丸投げなど情けない限りです。結局は病を患う当人と、医療現場ばかりに負担を強いているのですから、いったいこの国は何処に向かうつもりなのか辟易とします。

 悩むなら受診すればいい。

 それで医療が崩壊するなら、そうなって初めて、国が医療危機を認めて何か動くかもしれません。

 《すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する》ならば、健康に深く関わる医療へのアクセスを制限してはいけません。勿論それは平生時のことであって、災害時や異常時などには既存の医療体制で対処不可能な医療需要が生まれるでしょう。

 そこで必要なのはトリアージという概念ですが、これは専門知識を有する医療者が患者の緊急性や重症度を評価して診療優先度を決定することです。記事の前半に述べたように、重症感を認識するのは専門知識と経験が必要なことですから、決して患者本人に丸投げすべきではありません。限られた医療リソースを最適に分配することが、国全体に求められています。



 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方と貴方の大切な人の健康が守られる社会でありますように。




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#だいたいどうにかなるけれど迷ったら受診したらいい
#しかし生産年齢人口ほど受診する時間もお金もないという不思議
#この国は誰を守ろうとしているのか時々わからなくなります

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