映画をつくる、とは。
僕は映画が大好きだ。大好きなので20代の頃は仕事にはしたくないと思っていた。けれど、どこかで関わっていたいと思っていたので映画の予告編やオープニングをつくる人になろうと思った。いくつかの映画に携わった。外国映画では『ボディガード』『沈黙の戦艦』や日本映画『冷静と情熱のあいだ』『五条霊戦記』の予告編、日本映画では『エレクトリックドラゴン80000V』『弟切草』のオープニングなど。楽しかった。オープニングに賞までいただいたりした。楽しかった一方で、日本の映画界の壁のようなものを感じた。自由な感じがしなかった。ニューヨークに住んでいた20代の時に感じた自由さ。誰でも映画がつくれて、上映してくれる映画館があって、そばにあるカフェでは上映後にいろんな感想を話してくれたりした。当時僕もカメラを担当したり、監督したりしてつくっては上映して、国籍の違ういろんな人から褒めてもらったり、お説教いただいたりしたものだ。そういう自由さが日本の映画の周りにあまり感じられなかった。帰国してしばらくはまた映画は観る側でいようと思っていた。映像業界に身を置いて広告やテレビ番組などの仕事を続けて20年をすぎた頃、フランスのカンヌ広告祭の審査員になった。前年には広告賞をたくさんいただいた後だった。言わば広告の最高峰の賞をいただいて、賞の審査員にまでなって、どこかで次の目標を考えていた。そんな時に頭をよぎったのが映画をつくること。役者と一緒に演出を練ったり、脚本家と一緒に物語をつくったり、短編の数十分や長編の約2時間の中でどんな風に笑ったり泣いたりできるかを考える。お客さん、という相手に向けてつくるという難しい仕事に挑戦したくなった。けれど、その気持ちを躊躇させたのがどこか不自由に感じる業界の空気だった。ならば、とことん、自分たちのやり方でつくって自分たちで見せようと考えた。協会などに名前を連ねないでつくりたいものをつくりたい人たちでつくり、見てもらって、また励みにする。当時40を過ぎて現役のキャリアの残り時間を思うと挑戦しがいがあった。それからは時間を見つけては映画をつくっている。自分たちでやる、と張り切っても潤沢な資金があるわけではないので知恵と工夫で乗り切らなければいけない。続けてみたら同じように自由さを求める人たちがいた。仕事としての広告やテレビの仕事を続けてはいるが、そこで新しく仕入れるノウハウを今度は自分たちの映画にフル投入していく。つくりかただけを見ればもはや商業映画と遜色はない。役者さんたちもオーディションなどはせず、信頼する仲間に「ねえ、今誰を注目してる?」と聞いて直接オファーする。つくった映画はコンペティションや映画祭でマーケティングでつくられる映画と同じ舞台で批評される。賞をいただいたりするとことさら嬉しい。勝ち負けの話ではないけど正直なところは心の中で大きくガッツポーズをしている。ロマンあるなあ、と思う。まだ「もういいや」と思えるような頂には立っていなくて、なかなか険しい山を楽しんで登っているように感じる。その山道はかつて20代で感じた無邪気な自由さを感じた山道のようだ。今年も1本の長編映画を携えて世界中の映画祭に「友人たちとつくった最高の自主映画です」と堂々と上映して回りたいと思っている。自分たちの映画を妙に売り込まない。買いたい人に「売っていただけませんか?」と言わせたい。売れたら仲間たちで公平に割って、盛大に宴会を開くのだ。映画をつくるのは、農家さんがつくる作物を美味しいと言ってくれる人がいることのように、「面白かった」と言ってくれる人がいるから。