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かわいいあの子

世界中に生きている、私以外の誰ひとり、私にはなれない。

そのことについては、うん、それはそうよねと頷いて納得できる。けれど、それは同時に、私も私ではない他の誰かにはなれないことを示している。それはとても当然のことなのだけど、でもなぜか、それに対しては素直に頷けない自分がいる。

私の小学校後半から中学校のときの同級生に、とてもかわいい女の子がいた。なぜ「小学校後半」なのかと言うと、私の通う小学校は過疎のせいで、4年生になる年に他の3つの小学校と統合したので、1~3年生と、4~6年生のときでメンバーが多少違ったからだ(もちろん1クラスしかない)。

ちなみに、前にnoteで書いた幼馴染の男の子は、小学校1年生からずっと同じ学校に通っていた。

それは置いておいて、彼女はとてもかわいい子だった。色白のすべすべした肌、つやつやの黒くて長い髪の毛、くりっと大きな二重の瞳、美少女の典型例みたいな子だ。声もアニメのヒロインみたいに可愛らしい声で、絵がとても上手く、音楽の才能があり、ゲームもうまい。それにかわいいだけじゃなくて、写真を撮るときには本気で変顔をできるようなひょうきんな一面もある。でもちょっとどこか抜けている性格で、ほわほわと周りを和ませてくれていた。当時、教育テレビでやっていた、子供向けのお料理番組に出演している女の子が彼女と似ているとクラスの男の子が騒いでいたことを覚えている。

小学生のとき、私は彼女のその魅力を「かわいい子だなあ」と軽くしか思っていなかったのだけど、中学生になり、彼女と同じ吹奏楽部に入ったことや、部活内の同じ人を好きになったことによって、嫌でも意識せざるを得なくなった。彼女の持っている素敵なところ、その愛らしさを。

私が当時、吹奏楽部でコントラバスという楽器を弾いていたことは別の機会に書こうと思うけど、彼女はパーカッションパートに所属していた。彼女は元々ピアノを習っていて音楽に親しみがあり、しかも地道に努力ができる女の子だった。だから日々部活に打ち込んで、パーカッションもみるみるうちに上達した。高校も吹奏楽の推薦で受験し、進学したくらいだ。

彼女は本当に可愛らしくて、いつ思い出しても憎むべきところがひとつもない。けれどそれがかえって私をそわそわさせる。

私は当時、彼女と特別親しかったわけではないけど、それなりに仲が良いつもりだった。好きな人が同じだったので、ライバルなのにも関わらずお手紙で恋の話をしていたし、それはとても楽しいやりとりだった。部活では3年生のときに私が部長、彼女が副部長のひとりとして選ばれたので、部活のことを話し合う機会もよくあった。

でも心のどこかで、彼女と自分を比較して、自分を劣っていると感じ、勝手に苦しくなっていた3年間だった。彼女が悪いのではなく、私の心の問題だった。だって、彼女は私の理想の女の子だった。優しくて、愛らしくて、朗らかで。

だから中学のとき、好きな先輩の話をしていても、心のどこかでは「この子には勝てっこないや」と思っていた。だって、かわいいんだもの。女の子の私から見ても、彼女は守ってあげたいくらい可愛くて素敵な少女だったのだ。

そんなこんなで気づいたときには、私はずっと、「彼女みたいになりたい」という気持ちを心に抱いて日々を過ごしていた。他者と自分を比較することによる鬱屈した気持ちと、彼女への憧れという対照的な思いは、中学時代、常に私の中に存在していた。

けれど高校に進学してから、私は中学生のときのような卑屈な気持ちになることはほとんどなくなった。進学した高校が違ったからだ。私は私のまま日々をのびのび過ごしていたし、少しずつなりたい自分に近づいていった。ありのままの私を好きでいてくれる人を見つけて恋もした。

でも、側にはいなくても、彼女はずっと私の心の奥底に、「こうなりたかった自分像」として生きていた。

高校3年生くらいだったと思う、あるとき、今の恋人と好きな芸能人の話になって、彼が挙げたのは若手の女優さんの名前だった。その名前を聞き、すぐに顔が分かって、一瞬どくんと心臓が跳ねた。その話をするつい先日、私はその女優さんがテレビに出ているのを見ていて、「この女優さん、あの子にすごく似ている」と思ったことを覚えていて、名前もしっかり記憶していたのだった。私がなりたかったあの子に、顔も、物腰も、話し方も、声の質さえびっくりするくらい似ている人だった。あの子を知っている人なら、その女優さんを見てみんなあの子を思い出すくらいだ。

「その人知ってる、最近よくテレビに出ているよね」と返したその後、彼に「ほら、小学校くらいのとき、教育テレビでやってたクッキング番組に出ていた人だよ」と説明されて、そこで「えっ?」と声を上げてしまった。

そうだったのか、この女優さん、あのときのテレビの子だったのか。

中学のときに感じていた、自分はあの子になれない、でもなりたい、という胸の痛みが一瞬で鮮やかに蘇った。突き刺すような辛い痛みじゃない、熟れすぎた果実のような、ぐじゅぐじゅとしたやり場のない痛みだ。今思えば、その気持ちはどこか少し嫉妬に似ている。

確かに、かわいいんだ。すごくかわいい。でもその子か。私がなりたかったその子に似ているあの人を、私の恋人であるあなたも好きなのか、やっぱりそうか、かわいいものねと悶々としてしまった。

そしてついつい空想の翼を広げ、もし同級生のかわいいあの子が私と同じ高校に来ていたら、今の恋人は彼女のことを好きになっていたのだろうか、なんて考えてしまった。そんなことを考えてしまう自分のこと、すごく嫌だなあと思ったけれど。

普段はうまく隠れているけど、実は私にはこういう卑屈なところもあって、でもそんなこと口に出して言える訳もなかった。あほらしいと思われるに決まっていたし、自分でも言うのは気が引けた。

そんなこともあり、未だに私は、中学のときに抱きしめていたぐじゅぐじゅの痛みを静かに胸に秘めている。あの子のことを思い出すたび、あの子に似た女優さんをどこかで見かけるたび、ふつふつと湧きだし、あふれて止まらなくなる、あの痛み。

私はあの子にはなれない。あの子も、私にはなれない。

でも、私はあの子になりたかった。私の理想の女の子は彼女だったからだ。

かわいい女の子は世の中にいっぱいいる。それに自分ではあまり分からないし、なりたいものとは少し違うかもしれないけど、私にも私の可愛さがあるはずなのだ。だからそこを見つけて磨いていけばいい。ただそれだけのこと。そして最近、私は少しずつそれをできるようになってきた。

けれど不意にその痛みを思い出してしまい、少しくるしい夜もあったりして、でもどんな記憶を辿っても彼女のことはやはり大好きで、人間とはなんと複雑な心を持っているのだろうか、とほろりとしてしまう。

あなたはあなたのままでいいよと、他者に対しては本気で思い、それを言ってあげられるのに、自分にはそう言ってあげられないときがあることを、ときどきおかしいなと思う。

でも私は私で、世界からいなくなる日まで私として生きていく。

だからありのままの自分を、自分がいちばん好きでいたいなと思う。私は癖毛だから憧れのさらさらロングヘアにはなれないし、背が小さいから着ることのできない服も多い。肌も決して色白ではないし、声も高くて可愛らしいわけではない。中学のとき楽器もうまく弾けなかった、苦しい思い出が多くて高校では吹奏楽を続けられなかった。それに、写真で変顔なんて恥ずかしくてできない。あの子とは違う。

でも私は私で、私にもきっと、私の魅力がある。

だからあんまり考えすぎるのはやめよう。私を好きでいてくれる家族や友達や恋人がいるのだ。私は自分に自信を持てばいい。

誰かと比べてちょっと悲しい気持ちになることは、きっとみんなあることだ。でも別に、そのネガティブな感情は捨てなくてもいいのかもしれない。ずっと捨てたかったし、捨てようとしていたけど、そこも含めて私なのだ。それが自分を好きでいることと繋がっている気がする。

そういうことをときどき思っては忘れ、また思い出し、胸の痛みは続いていく。あの子に似ている女優さんを見かけ、かわいいあの子を思い出し、少しずつでもいいから、いつか痛みが柔らかい何かに変わることを祈りつつ。







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