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ことばのかけら

母の大学時代からの親友に、マイちゃんという人がいる。

彼女の本当の名前は「マイ」ではないのだけれども、名前を音読みにすると「マイ」になるので、大学時代からずっとそう呼んでいるそう。だから、そんな母の姿を見て育った私も妹たちも、彼女をマイちゃんと呼んでいる。

マイちゃんは私が小さな頃から事あるごとにうちにやってきて、暇な時間があればよく遊んでくれた。そしてそれはとても楽しい時間だった。彼女は子どもを相手に真剣に遊ぶことのできる大人だったし、いやいや私たちの相手をしているわけではないことがちゃんと伝わってきていたからだと思う。

雪の積もった冬の朝に外に出て雪うさぎを作ったこともあったし、蒸し暑い夏の夜にはみんなで一緒に盆踊りに出かけたこともあった。ピアノで「猫ふんじゃった」を弾けるようになったのもマイちゃんが教えてくれたからだ。

お誕生日にはいつもすてきなものをくれた。プレゼントには必ずお手紙がついていて、私はプレゼントそのものより、手紙をいつも楽しみにしていた。

手紙の中で使われている字は、私が成長するにつれて少しずつひらがなより漢字が増えていった。そういうところ細やかなところが好きだった。

マイちゃんは私のことをよく分かっている、どの漢字を読めて、どの漢字を読めないのか、そういうことをきちんと分かっているのだ。私はそれが嬉しかった。

マイちゃんは普段、アロマを使ったマッサージのお仕事をしている。だからマイちゃんはいつもアロマのいい香りがしていて、彼女が歩き回った場所にはその強い香りが残っている。香りをたどって行けば本人にたどりつくのが面白くて、実は何度もこっそりそういう遊びをしたことがある。

そんな、もはや家族の一員のようにだいすきなマイちゃんは俳句を詠む。

2年前には『青き薔薇』という題の句集も出した。彼女は私の身近に幾人かいる、ことばを扱う人間のひとりであり、そういう点からも私はマイちゃんのことをとても尊敬している。

いま、私の生まれ育った家で私の母とマイちゃんとが「華曼荼羅展」という句展を開催している。マイちゃんの俳句の中でも、花を詠んだ俳句に母が花の絵をつけて、いろいろな形をとった作品にしているのだ。

それは額に入ったものであったり、拾ってきた石だったり、お皿だったり、色紙だったり、とても多様な形をとった作品たちだ。ただそこには全部、花の絵とその花の句がある。四季を彩る花のなんと多様なこと!

もちろんその句展の準備には私たち3姉妹もちょくちょく駆り出され、それぞれがマイちゃんに頼まれて、いくつか絵を描いた(高校生の妹は襖に枝垂れ桜の絵を描いたし、下の妹はマイちゃんの助手みたいに彼女にくっついてまわり、絵も描いていた)。

句展開始の前々日、母と下の妹と、外から木を取ってきて(ちょうど切り倒したばかりの手ごろな大きさの木があったのだ)玄関に飾り、枝ぶりを整えたあとで、丸い厚紙にマイちゃんがひとつひとつ俳句を書いたものをその木の枝に引っ掛けた。それは全部で369枚もあるので、木の枝はたわわになって、すごくよい感じになった。

その丸い厚紙は、最初すべて真っ白だったのだけど、句展の準備期間に姉妹3人と母、マイちゃんとで絵の具を使ってきれいに色を塗ったので、すごくカラフルだ。

赤、オレンジ、黄色、緑、青、紺、紫の、虹の7色だけではない。同じ色だとしても、色が淡いのも濃いのもあるし、違う色同士を混ぜればもっと多様で曖昧な、もう作れないようなきれいな色ができたりする。

全部をベタ塗りするのではなくさっと線を引くだけにしたり、上からぽたぽたと絵の具を垂らしたり、さらに金や銀を散りばめたりした。そうやってひとつひとつ色づけていくのだ。

それを何百枚分もするのだから(しかも裏表両方)、それは簡単そうに見えてかなり忍耐のいる作業だった。

でも出来上がったそれらにマイちゃんがひとつひとつ句を入れると、それはそれぞれが世界でたったひとつの作品になったのだった。

それらは玄関に飾った、私より背の高い木に吊るしてあり、ひとつひとつ手に取って鑑賞することができる。そして展覧会を見に来てくださった方は、帰るときに祈念としてその木から1枚好きな句を取って持って帰れる。なんとも粋なはからい。

誰かが訪れるたび、枝に引っ掛けられた俳句は1枚ずつ減っていく。ということはつまり、お客さんは369もある全ての句を見ることはできないということだ。でも縁のあるものを持ち帰るということなので、それはそれで素敵なんじゃないかと私は思っている。

それに、私はそれら全ての句を知っている。

丸い厚紙の裏面に開催場所であるお寺の判子を押す作業を任されたとき、それらをラミネートして糸を通す作業をしたとき、そしてそれを木に吊るすとき、私はそこにあるマイちゃんの句すべてに目を通した。何度も何度も丁寧に、ひとつも見逃さないように。

俳句というものはまさにことばのかけらだと思う。17音に凝縮された、密度の高いことば。長い時間火にかけて精製した、純度の高いことば。

だからこそ、その人の感性がきらりと光るのだと思う。

私は幼少期から、小説ばかりに興味を持ってきた。俳句や短歌はおざなりにして長い文章ばかり書いてきた。詠んでみようと思ったこともなかった。

けれどマイちゃんの俳句は私に「ことばを選びとるよろこび」を教えてくれる。たった17文字の中でもあんなに豊かで個性をもった表現ができるのだ。

時間と空間をそこにぎゅっと閉じ込めて、でも同時に読み手に許しや衝撃を与えたりする。

マイちゃんはときどき、さりげなく私に俳句を勧める。だから私はそのうちきっと俳句に手を出すだろう。いつになるかはまだ分からないけど、マイちゃんも言の葉で自己表現をする女性であり、私もおそらくそうなのだ。きっといつか俳句に行きつくだろう。

そして私はマイちゃんのことばのかけらをこの夏たっぷり吸収して、自分の一部にした。自分ではない誰かの作品に触れることは、自己表現をする人にとってとても大切なことだと思う。

ちなみに、私が枝から選んだ句は写真のもの。この句だって、もう、これからの私の人生とは切り離せないことばになってしまった。何かのタイミングでふと思い出して泣きたくなってしまうような。

言葉を扱うというのは、ことばで表現するというのは、そういうことなのだと思うのだ。それを教えてくれたマイちゃんと、マイちゃんの句がわたしはとても好きだ。

「赦し合ふやうに朝顔咲き継げり」/巫依子(マイちゃんの俳号)









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