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ポロシャツのぬくもり

私はプールがきらいな子どもだった。みんなは6月から始まるプールの授業をとても楽しみにしていたけど、私はいやでいやで仕方なかった。

私はとても痩せっぽちの女の子だったので、晴れの日はともかく、雨の日のプールの低い水温にはとても耐えられず、いつも唇を紫色にしてぶるぶる震えながら水に入っている小学生だった。友達に「大丈夫?」と心配されて「うん」と返しはするけれど、実は寒くてたまらず、しれっと親友の女の子にくっついて水に浸かっていた(彼女はとてもあたたかいのだ)。

ぴちぴちとした水着に着替えてすぐに浴びる冷たくて勢いの強いシャワーも、下半身を浸す消毒液もきらいだった(晴れの日にシャワーの水でできる虹は好きだった)。

プールの水が目に入ってごわごわするのも、耳に水が入り込んでごぼごぼするのも、鼻に入ってつんと痛むのもきらいだった。とにかく身体の内部に水が入り込むのがいやだったし、プール特有のカルキの匂いも、プールに併設されている不衛生なトイレもきらいだった。とにかく私はプールのほとんど全てがきらいだったのだ。

どれくらいきらいかというと、体育がある日の朝にプールカード(プールに入るために体温を測って書きとめ、親に印鑑をもらうカード)をわざと隠し、母にカードを無くしたと嘘をついたこともあったほどだ。

そのときはすぐにばれてこっぴどく叱られ、結局雨の中プールに入らなくてはならなかったのだけど、私はそれほどプールの授業がいやだった。

実際に泳ぐのも下手くそだったし、私はずっと水に顔をつけるのにも抵抗があった。幼いころは、赤ちゃんのときの習慣のまま、薄くて柔らかなガーゼタオルを持っていないとお風呂に入れなかった。顔が濡れたままでいることがいやで、少しでも濡れるたびガーゼタオルで水滴を拭いていたからだ。

そんな私がプールで好きだったのが、授業が終わったあと、身体を拭いて服に着替える時間だった。

身体に巻き付けた大きなタオルで全身をすっかり拭いてしまって、制服のポロシャツに腕を通す、あの瞬間を私は心底愛していた。

私の身体はプールの後例外なく冷え切っているので、畳んでおいただけの制服でさえ、着てみればとてもあたたかく感じるのだ。それは寒い真冬の日に手が冷えすぎて、冷たいはずの水道の水がぬるく感じるのととても似ていると思う。

普段から着ているせいで少しくたびれたポロシャツは私の身体を柔らかく包み込み、その決して特別ではないぬくもりでいつも私をあたためてくれた。

私はあの布のぬるい温度と、ポロシャツの肌触りがとても好きだった。身体を拭いて服を着てしまえばもう何もこわくない気がした。皮膚が布で覆われているのはとても安心することなのだ。

プールの水温が低ければ低いほど、私はそのぬくもりをより強く享受できた。でもあのぬくもりが待っていることを分かっていなければ、私はプールになんて入れっこなかったのだ。何が何でもさぼっていたことだろう。

この私の至福の時については、当時友達に話してもあまり分かってもらえなかったけれど、それはそれで構わなかった。

雨の日のプールのあとに制服を着て、しっとりした雨音を聴きながら続く教室での授業の時間も好きだった。プールの後の時間はみんなくたびれて眠たいので、なんとも言えないゆっくりとした空気が教室を満たしている。

その中で、水に入ったあとで少し気怠い身体を、生ぬるい空気と乾いた制服の力を借りて常温に戻していく、ただそれだけに費やされる45分間に私はほっとして、まだ湿っている癖毛を手でいじったものだ。

中学校にあがるとプールの授業はなくなり、私のプールの記憶は小学生のころを思い出すためだけの、限定されたものとなった。今はもう自分から進んでプールに入ることも、強いられて25mを泳がされることもない。それ自体はさほど悲しくはない。

ただ、あのプール上がりのポロシャツの何でもないぬくもりを感じることももうないというのは、少しだけ惜しい気がする。けれど私はこれからも、そういうなんでもないぬくもりに似たものを探しあてて生きていくのだろう。




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