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負けるもんか

恋人と冬休みに会えなくなった。
冬休みは地元へ戻って来られないらしいのだ。

会えることを楽しみに思う傍らで、そういう場合も覚悟していたので、それほど衝撃的なニュースではなかった。私は臆病なので、いつも自分の心に保険をかける癖がある。一番悪い事態を事前に想像することで、実際に起きることに備えようとするのだ。

例えば、微妙な手ごたえだった数学のテストの点数を返却される前に、47点くらいだろうなと想像する。そしたら返されたテストの点数は62点くらいあったりする。そういう「備える」行為を応用させて、日常生活にも落とし込んでしまっているのだ。

なので電話で報告を受けたとき、「冬休みは帰れない」と私に告げなくてはならなかった彼の気持ちを思いやることができるくらいには余裕があった。

けれどやはり、今年の終わりに会えると思っていたのが春休みへ延期されるとなると、素直に「分かったよ、それまでまた頑張ろうね」という言葉が口から出て来ないのは仕方ないことのような気もする。だって私は2021年の残りの日々をどれだけ頑張ったとしても、今年はもう彼には会えないのだ。

彼は私たちの晴れの場である成人式で、私の振袖姿を見られないのがとても残念だ、と言った。

それを聞いて、「ああそうか、確かにそうだな」とぼんやり思った。

そして私は成人式で、小学校や中学校の同級生たちと再会することだけではなく、いつもとは全く違う彼の姿を見てにこにこしたり、式の後で一緒に写真を撮ったりすることを密かに夢見ていたということに気づいたのだ。だから、その機会が永久に失われてしまうことについてはちょっと惜しいなと思う。

だけど遠距離恋愛でそんなことを言いだしたらきりがないので、楽しいことを考えたいなとも思う。だから春休みに会えることについて想像を巡らせる。

私はいつも駅などで彼と再会するその前には、あんまり嬉しくて駆け足で彼に飛びついちゃいそうだ、などと思いはするのだけど、実際には隣にぴったりくっついて歩くとか、その程度のことしかできない。意外といくじなし、いや恥ずかしがり屋なのかもしれない。

だから次会うときは何も考えず飛びついてしまうほど、さびしさによって追い込まれているといいなと思う。その方が会えたときとても嬉しい。

いつかくるくると繰り返し巡っていく四季の全てを一緒に過ごしたいと思う。春が1年の始まりで冬がその終わりだとか、そんなこと思わなくなるほど幾度も繰り返したいのだ。

今は夏の盛りと、冬の終わりから春に季節が移ろうその隙間しか一緒にいられないけど、満開の桜の下を散歩したり、初夏にはどこかお出かけしたり、梅雨の時期の午後は雨音を聴きながらお昼寝をして、秋の紅葉やイチョウが色づくその美しさをにこにこして眺めたい。

その日を、その訪れを夢見ている。今は手に入らないけど、未来に待つであろうその希望をただ信じている。でなきゃやってられないのだ。夢見ること、信じることを手放して、いったいどうして希望を見出せるだろうか。

再会の喜びは私の胸に花を咲かせてくれる。どんなに会えなくても、溜まっていたさびしさは会えたそのときにすっかりなくなって、全部ちゃらになってしまうことを私は知っている。

だから負けるもんか。今はさびしくとも、後々笑っている私たちを手放してたまるもんか。

そんなことを思いながらこの冬もなんとか暮らしていきたいと思う。もう染まった紅葉はつめたい北風に攫われて、秋は去りつつあるのだ。



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