見出し画像

あなたはなぜ、「本当の私」を探そうとして悩んでしまうのか?

新しいクラス、新しい会社、新しいコミュニティ。
新しい友達、新しい同僚、新しい仲間。

「新しい私は、本当の私?」

今までおちゃらけキャラで通していた私が、「真面目だね」と言われた。
周りのことをよく気遣っていたつもりだったのに、「天然だね」と言われた。
他人に誇れることは何もないと思っていたのに、「すごいね」と言われた。

こうしたギャップにソワソワしている方は、ぜひここから先の「私」のお話を読み進めてみてください。

まず最初にあなたに伝えたいのは、どんな「私」もあなたらしく素晴らしい「私」だということです。それだけは、何度強調しても、し過ぎることはありません。

ところで、いったい全体、あなたはどうやって「私」と出会ったのでしょう?

「生まれた時から私は私だと思っていた」。

という天才も中にはいるかもしれませんが、ふと気づくといつの間にか、「私は」、「私が」とごく当たり前のようにしゃべり始めてしまっていた。それが一般的な感覚でしょう。

このように、あなたも私も、なぜかある日突然「私」と出会ってしまったわけですが、フランスの哲学者ジャック・ラカンによれば、出会いの起源は「鏡の中」にあると言われています。

生後6ヶ月から1歳半くらいの幼児は、鏡に映る自分の像を見て、特別な関心を示すようになります。発達過程においてこの時期は、文字どおり「鏡像段階」と呼ばれ、それまでバラバラだった身体が鏡の像を通して一つに統合されて、自分の全体像を初めて認識する時期と考えられています。

この時に獲得された「あれ、なんだか、よくわからないけど、この手と足と頭が一緒になった一つのまとまりが、じ・ぶ・ん!?」というような感覚が、「私」のきっかけである。というのが、ラカンの考えです。

以降、言葉を覚えることで、ぼんやりとした「一つのまとまり」だったイメージに対して、「私」という名前が与えられ、「私」はより自覚的な存在になるのですが、これが結構根深い問題だったりもします。

なぜか。というのも、「私」は生物にとっては余計なものでしかないからです。ミミズもアメーバも桜の木も言語を持たないので、私なんて感覚も(きっと)持っていません。しかし、彼らはそれでもなんの不自由もなく生きています(もっとも、生きているという自覚もないでしょうが)。つまり、「私」という概念は、単に生命活動を維持するだけなら、過剰でしかない。まったく必要ありません。

なのに、一度言葉を持ってしまった人間は、「私」という概念なしには生きられなくなってしまいます。

しかも、「私」は「なんだか、よくわからないあの一つのまとまり」そのものでは、決してありません。私は男です。私は高校生です。私はXXという名前です。私はYYに住んでいます。。。こうやっていくら「私」を積み重ねても、「あなたそのもの」を表すことはできないのです。


「私」は、「あなたそのもの」と一体ではないにもかかわらず、この世界は「私」なしには生きられない。



人間はこの大いなる矛盾を抱えながら生きています。そして、この矛盾のおかげで、「私って何者?」「本当の私って?」と悩んでしまうのです。

どうでしょう? ちょっと難しい話になってしまったかもしれませんが、「本当の私」探しはあなただけの悩みじゃない、ということが少しでもおわかりいただけたら嬉しいです。

では、この「本当の私」問題は、一体どう解決したらよいか。次に考えるのは、「私」との付き合い方ですが、長くなったので、次回の記事で取り扱うことにしましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?