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食を楽しめる人生観

鯛の握りーその刹那の瞬間を噛みしめる

僕は「人生は苦しくてあたりまえ」と思っています。
だから、かつて女子短大の教師だったとき、「お転婆でもいい、たくましく育ってほしい」と、「強い女」の育成を目指しました。女子学生諸君に、人生の荒波に耐え、世のためひとのために頑張る大人になってほしかったからです。

しかしその短大にお勤めの多くの先生方は「人生は楽しくてあたりまえ」と信じていらしたようで、「弱い女の子でも、楽しく生きられることが大事だ」と唱えていました。
僕が自説を主張すると、「西願先生は自分で自分の大学をつくったらいかがですか」と言われました。
結局、その短大は志願者数が減少して募集停止を余儀なくされましたが、様々な意味で当然の末路です。


「人生は苦しくてあたりまえ」。
だからこそ、ひとは僅かなひとときの、ささやかな楽しみに身を焦がす。
食を楽しむことができるためには、そんな人生観が必要ではないでしょうか。
というのも、まさに食とは瞬間の芸術です。
口のなかですぐに溶けてしまうのですから。
どれだけ手間暇かけてつくっても、食べるときはあっというま。

苦しい日常にめぐりあった奇跡、そういうところが食道楽にはあります。

例えば、寿司屋で鯛の握りを食べる。
うまい寿司屋は、米の分量と刺身の厚さが絶妙である。米一粒一粒を舌の上で転がすように味わっていると、口のなかで鯛の握りが鯛めしのようになってくる。その一瞬の味わい。そして鼻で嗅ぐ余韻。
その一個を食べているあいだ、人生で経験した実に多くの嫌なことと、ほんのちょっとの歓びとが走馬灯のように頭を流れるとともに、おそらくこの刹那の記憶を僕は未来永劫わすれないのだろうと確信する。
いま、僕は生きている。
そう実感する、そんな瞬間が食にはある。(ちょっと大袈裟かしらん?)


豚の串焼きー黙る

ひとは、本当においしいものを食べると、無口になります。
以前、青山に天才的なシェフがいて、そこのイタリアンが文字通り、筆舌に尽くしがたく、おいしかった。
いろいろな友人と食べに行きましたが、そのレストランでは、みんな、無口になりました。
おしゃべりをやめてしまうのです。
舌をただただ味わうことに使いたいと思うからでした。

食を楽しめるひとは、黙ることができるひと。
その意味で、カウンターとはよくできた装置だと思います。
沈黙が絵になるから。
かつて渋谷の路地裏にある、豚の串焼き屋に、しばしば僕は通いました。カウンターに座って、栗焼酎のお湯割りと一緒に、ひたすら新鮮な豚肉に舌鼓を打ちました。静寂に包まれて豚の味だけを楽しみたかったので、17時、他のお客さんがいない時間を見計らって、お店に入りました。食べていると、板前さんへの敬意と感謝の気持ちが心に満ちました。
ふと気づくと、奥で大将が黙って腕組みをして座っていらした。

実際、本当に味を楽しみたかったら、沈黙が気まずくない友人と、目だけで語り合うことができる友人と、楽しむのが良いと思います。


ところで話は変わりますが、はすにかまえて世間を見ていると、他人様の人格批判が盛んなのに驚きます。
人格なんて、人生の蓄積のうえでつくられたもので、そう簡単には変えられないものなのにね。他人様の人格を批判するよりも、黙っているほうが自分自身の人格の向上のために良いと思うのですが。

何を話すべきか分かっていないひとが多すぎる。
舌の使い方を知らないひとが多すぎる。

言ってもどうしようもないことは言わないで、舌はごはんを食べるために使えばよい。
おいしいものを食べていると、争いたいという気持ちなど、なくなるものです。

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