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戦争博物館と郷土愛の謎 ―呉・知覧・鶉野・東大和



僕が2017年に訪問した呉の大和ミュージアムには、呉の郷土愛への、ある種の〈おもねりへつらい〉がある。
それは呉市の人々を喜ばせるのかもしれないが、僕のような東京生まれ東京育ちの人間をしらけさせる。

ところで呉に大和ミュージアムがあるのは、呉で戦艦「大和」が建造されたからである。
そもそも呉には、1889年、呉鎮守府と同時に造船部が設置された。1903年になると、呉海軍工廠ができた。その後、呉海軍工廠は巨大化し、工員数は横須賀・佐世保・舞鶴の海軍工廠の合計をこえるほどまでに、東洋一、ひいてはドイツのクルップと肩をならべられる世界二大兵器工場にまで大きくなった。

1945年の時点で考えて、既に呉市住民と海軍とは、およそ半世紀にわたる長い時間のなかを、一緒に暮らしてきた経験があったわけだ。
だから大和ミュージアムが郷土愛に〈おもねりへつらう〉のは、当然と言えば当然のことなのだ。そこにはある種の合理性がある。

知覧・鶉野


他方、僕が2016年に訪問した知覧特攻平和記念館
そもそも特攻隊が誕生したのが、第二次世界大戦末期なわけで、特攻隊とローカルな住民との関係は、長い時間的な背景を持ったものではなかった。
ところが知覧特攻平和記念館は、特攻隊員が食事をした民間人経営の食堂などをクローズアップさせて、特攻隊とローカルな住民とのあいだにはある種の親密な関係があったのだと説く。しかしその種の親密な関係はどこまで一般化できるものなのだろうか。特異な事例を大袈裟に、知覧の住民はみんなで特攻隊員を支えたのだと言いたいがごとき展示には、「欺瞞」ないし「誇張」があるのではなかろうか。

同様の傾向は、僕がこの8月に訪問した鶉野飛行場跡にも見られる。
鶉野に飛行機工場ができたのも、第二次世界大戦末期にすぎない。
ところが鶉野の資料館の映画では、休日、飛行機搭乗員が民家に遊びに来た事例などをクローズアップさせる。あたかも搭乗員と民間人との間に、特別な親愛関係が存在したかのように。
しかしもしも鶉野のローカルな住民と飛行機搭乗員との親しい関係が一般化できるのならば、どうして終戦後、飛行場跡は長いこと放置されたままであったのか。「平和祈念の碑」ができるのは1999年のことでしかない。終戦から50年を経過している。
やはり住民の心の基本にあったのは、軍隊=国家に対する無関心だったのではなかろうか。

東大和


ところが僕が昨日訪問したばかりの東大和市旧日立航空機変電所は、ちょっと違う。
その起源は、1920年代の立川工場の建設にさかのぼる。
1920年代である。まだ第二次世界大戦が始まる前である。十五年戦争すら始まっていない。
立川工場は知覧や鶉野の飛行場のように「やっつけ仕事」でできたのではない。
とはいえ呉の海軍工廠ほどの、長い「歴史」はない。

さらに興味深いのは、東大和の人口である。どんどん増加しているのだ。
国勢調査によれば、1926年には5048人だったのが、1940年には8152人。
終戦を迎えても増加は止まらない。
1950年には12975人。1965年には31709人。2015年には85157人を記録した。
これが「自然増」だとは思えない。おそらく他所から「移住」した人々が多いのだ。

あとは僕の想像に過ぎないが、旧日立航空機変電所保護活動に従事した市民有志諸氏も、多くは「移民」ではなかっただろうか。東大和がまだ貧しい農村だった頃から(つまり江戸時代から)先祖代々、東大和に郷土愛を抱きながら生きてきた人は、そんなに多くはいないのではないか。

おそらく、彼らは、東大和に移り住む前は、さほど戦争に関心が無かったのではないか。すくなくとも東大和がかつての一大軍都だったからという理由で、移り住んだひとは、そうはいなかろう。
しかし移り住んで、東大和で、旧日立航空機変電所をとおして、彼らは戦争を「発見」したのではなかろうか。

興味深いのは「移民」の、「根無し草」の、心性(メンタリティ)である。
僕も、東京生まれ東京育ちだが、さほど東京に愛着があるわけではない。
なぜなら東京は「むかし」を大事にしてくれない。
例えば渋谷。僕が子供の頃から慣れ親しみ、中年の頃には常連にしていたバーも在った。
しかし渋谷の再開発。駅の端から端までがあんなに遠くなって、もはや人間の身体に合った大きさではない。気軽に遊びに行ける場所ではなくなった。

祖父が住んでいた麻布も、もはやふつうのひとが住む街ではなくなった。マンションばかりが立ち並び、米屋も魚屋も駄菓子屋もない。

つまり僕自身、「根無し草」だ。
だからこそ「根無し草」と「歴史」との出会いに興味がある。

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