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スプラトゥーンを養老院に


・走る楽しみの発見、もしくは転向宣言

ずっと以前から、私はテレビゲームを軽蔑してきた。
私の親など、テレビジョンそのものを嫌悪していた。
テレビジョンは、優秀な日本人の頭脳をねたんだアメリカ人が、一億総白痴化を狙って、日本に送り込んだシロモノである、親はそう言っていた。


私自身、新しいものに、常に疑いの目を向ける。
本当にそれが必要なのか、それがなくて困ったことがあるのか。
アンチエイジングのサプリの開発よりも、失業者のいない社会の創造を、何故、探求しないのか。人間など、私のように、ふつうに老化し、枯れていけばよいだけである。


新製品が街の広告塔をにぎわすのを見ては、私は眉をしかめる。
初めて、電車で、携帯電話を使ってバカばなしをするサラリーマンを見たときのことを、未だに覚えている。サルトルではないが、嘔吐したくなった。

その後も、電車でスマートフォンのゲームに興じる若者を目にするたびに、
彼らの、夢中になって玉ねぎをむく猿のような表情に、ぞっとした。
聖書を読めとは言わないが、せめて新聞ぐらい読んでほしい、
そう思った。
吊り革を握る私の前に座るゲーマーの顔を見ながら、私はこの国の未来を憂いた。
(そもそも若者なら、省線では、たとえ席が空いていたとしても、お立ちなさいな。)


しかし―。
2020年5月、コロナ禍による自粛期間、
若い友人が任天堂のスプラトゥーンを我が家に持ち込んだ。

私は、付き合いを大事にする。
少し、やってみた。


はまった。

坂道を猛スピードで走ったり、大きくジャンプしたり。
私の年齢では、心臓に負担がかかると、ドクターストップがかかりそうな荒技を、ゲームの中の私のアバターはしてくれる。
疾走感が、サイコーに気持ちいい。


・謙虚さを学ぶ

私は、スプラトゥーンのインターネット試合では、負けに負ける。
ぼろぼろに負ける。
まったくもって、年寄りの冷や水である。
チームのみんなに迷惑をかけて、たいへん申し訳なく思う。

しかし
Never too old to learn(年を取り過ぎて学べないということはない)、
とも言う。
少しずつ上手になるはずだから、ゆっくり温かい目で見守っていてほしい。
年寄りは気が短いが、自分はスローなのだ。


それにしても、何が感動するって、
負けたときに感じる、謙虚さである。
これが素晴らしい。

インターネット試合の選手らの、擬音語とひらがなだけのハンドルネームから推察するに、彼らは小学生である。制作会社も、知的水準のかなり低い層をターゲットにしているらしく、画面には「武器」と漢字ではなく、「ブキ」とカタカナで表記される。学力が低い子にも読めるよう、配慮されているのだ。

しかしそんな低水準の小学生たちに、この私が負けるのである。
この私が!

どんどん謙虚になれる。
どんどん自分が小さくなっていく気がする。
それが嬉しい。心地よい。

私に謙虚さを思い出させてくれた、すべての子供たちに感謝である。
このままスプラトゥーンを続けていると、もしかしたら世界一謙虚な老人になれるのではないのかなあと、そんな妄念すら湧いてくる。


最後に提案。
クリスマスに、
孤児院に国語辞典を贈るように、
養老院にスプラトゥーンを贈ったら、どうかしらん。
任天堂さん、是非、ご一考を。

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